一章 アマノイワド 天岩戸

一話

 寒い冬が明け、春が訪れると夜叉ヶ池の回りは美しい花々で彩られる。


 土御門の家は森向こうの街外れにあった。森の中を通る一本道を抜け、夜叉ヶ池をグルリと回った先に小さな住宅街があり、その中に大きな平屋の家がある。昔はそこそこの名家だったらしいが、今は普通の一般家庭となっている。父、典成は何の変哲もないサラリーマン。母、歌蝶は専業主婦だ。典成と歌蝶の一人息子が典晶だった。


 春も、夏も、秋も冬も関係なく、典晶は夜叉ヶ池で遊んでいた。いつも遊んでいるのは、幼馴染みの文也と美穂子。たまに、小さな狐を連れた女の人が来た。


「典晶さん、イナリと遊ぶのは楽しいですか? イナリが好きですか?」


 葛ノ葉宇迦(うか)は目を細め、イナリと遊ぶ典晶を嬉しそうに見つめていた。典晶は優しく美しい宇迦が大好きで、彼女の連れてくるイナリも大好きだった。人懐こく、とても賢い子狐のイナリ。イナリは、まるでこちらの言葉が分かるかのように、典晶の指示に従ってくれた。


「うん、楽しい! 僕、イナリ大好きだよ! ずーっと一緒に遊んでいたい!」


 イナリを抱き抱え、頬ずりをする典晶。宇迦はコクリと頷く。


「では、末永く幸せに」


「すえながく?」


「ずっとずっと、イナリと楽しく遊んでね、って意味です」


 その言葉を聞いた典晶は、イナリを抱えながら夜叉ヶ池の回りを走り回った。


「うん! 僕はずっとずっとイナリと遊ぶんだ!」


 子供の頃に発した何気ないその言葉。その言葉が、後の典晶の人生を大きく変えることになるのを、子供の典晶は知るよしもなかった。



 短い春が終わりを告げ、夏がやってくる。


 梅雨が明けたばかりの七月上旬。木々は新緑眩しく、草は青々と生い茂った。生き物たちは降り注ぐ太陽の光を喜ぶように、命を謳歌していた。


 そんな命を讃える初夏の光を避ける様に、扇風機にあたり冷えた麦茶を飲みながらテレビゲームに興じている二人の青年がいた。


 よれよれのシャツにズボンは黒いジャージ。セットしてないボサボサの髪の下には、優しい面立ちがあった。彼の名は土御門典晶。遙かご先祖である安倍晴明の血を引く、土御門家の一人息子だ。


 だらしのない典晶と対照的なのが、彼の隣でコントローラーを握り締める青年だ。伊藤文也は、黒と白のストライプのシャツを身につけ、黒いスラックスを履いている。毛先に色を入れた髪はピシッとセットしてあり、典晶と並ぶとより文也のお洒落が際立って見える。


「ああああ~! クソッ!」


 自機が撃墜された瞬間、典晶はコントローラーを放り出して冷えた麦茶を呷った。


「よっしゃ! 三勝目! 明日の昼食は奢りだからな!」


 文也はニンマリと笑い、胡座をかいていた足を投げ出す。


「くっそ、お前練習しただろ? 先週よりも強くなってる……」


 開け放たれた窓からは、時折良い風が入ってくる。雲一つない青空には、自己主張の強すぎる太陽がギラギラと輝いていた。ウンザリと太陽から目を逸らした典晶は、隣でほくそ笑んでいる文也を見やる。


「あったり前だろう。毎日寝る間を惜しんで修行したからな。その成果が今日の勝利だ!

「………相変わらず、残念なイケメンだな。そんな事だから、彼女ができても一週間で三行半突きつけられるんだよ」


「俺のせいかよ! 告白してきて一週間も経たずに別れ話を切り出すって、おかしいだろうが!」


「毎日のデートコースがゲーセンとゲームショップだろう?」


「買い物にも付き合ってやったぞ?」


「買い物の最中、ソシャゲでひゃっほいしてただろうが。そもそも、デート中にゲームするなよ」


「そのゲーム相手はお前なんだけどな……」


 文也の言葉を典晶は「アハハ」と軽快に笑い飛ばす。


「ま、別に女はいいさ。今は男友達と遊んでいる方が楽しいからな」


「同感」


 ウンウンと頷く典晶だったが、「お前、告白したこともされた事も無いだろうが」と辛辣なツッコミを文也から喰らう。


「仕方ないだろう……。見ての通り、俺は草食系なんだよ」


「自分から言うかな。で、お前の浮いた話は何一つ聞かないけど、ぶっちゃけ気になる人とかいるのか?」


「気になる人ね……」


 典晶は畳に転がり空を見上げる。青い空から僅かに視線をずらすと、隣家の茶色の壁が見えた。ちょうど、二階の窓から一人の少女が顔を覗かせた。ブラジャーを身につけただけの姿。彼女は、典晶と目を合わせると、ベーと舌を出してカーテンを閉めてしまった。


「美穂子……」


「はぁ? 美穂子?」


「ブラジャー、黄色だった」


「何言ってんだよ」


「あいつも、男の気配が無いよな」


「外見は悪くないんだけど、性格が男勝りだからな」


「友達には良いんだけど、恋人となると、疲れそうだな」


 典晶の言葉に、文也は「まったくだ」と頷いた。


「まっ、彼女なんて放っておいたって出来るだろう。だって、うちの親父だって結婚してるんだぜ?」


「典成さんは特別だろう。まあ、お前もそうなんだろうけどな」


「ん? 特別?」


「だろう?」


 典晶は文也の言っている意味が分からなかった。時折、文也も美穂子も、典晶のことを特別だという。何の取り柄も無く、地味で目立たない自分がどうして『特別』なのか、不思議だった。


 典晶にとって、文也の存在は大きかった。彼はタダの幼馴染み、親友という枠には収まらない。勉強、スポーツ万能、更にルックスも良く性格だってこの通りだ。少々軽いところもあるが、中身は誠実で優しいヤツだ。文也は、典晶の理想とする人物そのものだった。


 だが、文也と典晶は余りにも違いすぎた。他人の事を意識し始める中学と高校。典晶は文也と同じになれないと悟った。


 ルックスも運動神経も全てが平凡。文也と比べ、秀でたところが何一つ無い典晶は、いつの間にか自分に自信が持てなくなった。


 人望もあり、女性からも人気のある文也が、どうして典晶と一緒にいるのか、常々不思議に思っていた。彼ならば、ファッションや恋愛、そうした話で盛り上がれる友人がごまんといるはずだ。


 再びテレビに向かった文也の横顔を見ていると、襖の向こうから声が聞こえた。


「典晶、文也くん、ちょっと良いかしら?」


 歌蝶の声だ。文也はコントローラーを置き、座布団の上に正座をする。昔から、この親友は歌蝶の前では借りてきた猫のように大人しくなる。


「いいよ」


 文也が姿勢を正すのを待ってから、典晶は返事をする。


 音も無く襖が開くと、薄暗い廊下に膝を付いた歌蝶がいた。歌蝶を見て、文也が「お~」と声を上げる。


「歌蝶さん、いつ見ても着物姿が似合いますね」


「ありがとう、文也君。少し早いけど、薄物の絽(ろ)を着てみたのよ。この子も典成さんも、一言も褒めてくれなくて。いつも褒めてくれるのは文也君だけよ」


 微笑む歌蝶に、文也はデヘヘとだらしなく顔を緩める。


 夏らしく歌蝶は絹糸で織られた絽を身につけていた。絽とは夏の着物、薄物のことで、盛夏用の染め物だ。文字通り薄物は生地が透けるように薄い為、下に身につける長襦袢などの色が浮き立つことがある。夏物を着るときには注意が必要だと、いつかの夏に歌蝶が教えてくれた。


 確か、歌蝶は今年で三十六歳になるはずだった。高校卒業後、すぐに典成と結婚した歌蝶は、正直言って同級生の母親と比べても若々しい。典晶の個人的感想だが、物心ついたときから歌蝶は何一つ変わっていないように思える。いつも美しい母。年と共に変わるのは、身につけている着物の柄だけ。年を取らないなど、あり得ない。美を保つのにも色々と気を使っている結果が、今の歌蝶なのだろう。


「典晶、大事な話があるので広間に来て貰って良いかしら?」


 歌蝶の言う広間とは、床の間がある部屋のことで、来客のある時以外は滅多に使われることのない部屋だ。


 典晶は困ったように文也を見る。広間に呼び出されると言う事は来客なのだろうか。それにしても、文也が来てるというのにタイミングが悪い。


 典晶の考えていることを察したのか、「文也君も一緒に」と歌蝶が言った。


「俺も行っていいんですか?」


「ええ、文也君も無関係というわけではないから。ちょうど良いから、一緒にお話を聞いて頂戴」


 ますます合点がいかない。重要な話と歌蝶は言うが、それは文也にも関係があるという。


「誰か来たの?」


「ええ」


 そう言って歌蝶は一人先に行ってしまう。文也と顔を見合わせた典晶は、頷くと一緒に立ち上がった。


「……もしかすると、あの話かな?」


 部屋を出る際、文也が独り言のように呟いたが、典晶は気にせず広間へと向かった。


 襖が開け放たれ、風通しが良くなっている広間にいたのは、典成と歌蝶、それと久しぶりに見る宇迦だった。彼女の隣には、ちょこんと白い子狐が座布団の上に行儀良く座っていた。

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