二話

「ねえねえ、典晶、典晶……」


 不意に、典晶の脇を美穂子が突いた。彼女は頬を染めながら、再び数学の問題と向き合う那由多の横顔を見つめていた。きっと、美穂子は那由多に礼が言いたいのだろう。先ほども、そんなような事を言っていた。


「あっ、そうか、那由多さん。此処にいるのが、石橋美穂子です。あの時は……」


 那由多がペンを顎に当てながら、美穂子を見た。


「あの時は、ありがとうございました!」


 典晶を押し退け、美穂子が前に出る。彼女は驚くような大きな声で言うと、腰を折って礼を述べた。


「ああ、美穂子さん。こうして顔を合わせるのは、初めましてかな。あの騒ぎの後は、大丈夫だった? 凶霊に操れていた後遺症とかはない? 友達の理亜さんは平気?」


「はい! 私は元気いっぱいです。理亜は、まだ少し学校にくるのが辛いみたいですけど、私がついているから大丈夫です」


「そうか、それは良かった。今度も、嫁入りに関わると大変かも知れないけど、頑張ってね」


「はい!」


 こんな美穂子は見たことがなかった。確かに、学校ではいわゆる、『イケメン』に目がないが、まさか、実際にいい男を目の前にすると、こんなにも変わるとは。


 典晶は幼馴染みの意外な一面を目の当たりにし、少し引いてしまった。


「それで、那由多さんは、彼女さんとかいるんですか?」


 グイッと半身を寄せる美穂子に、那由多の体が僅かに後ろへ下がる。


「えっと……彼女は……」


 盛大に顔を引きつらせる那由多。見かねた典晶は、美穂子の肩をつかみ那由多から遠ざけようとする。


「おい、美穂子、那由多さんに失礼」


 そこまで言って、典晶の言葉は止まった。



 ギャァァァァァァーーーー!



 その声は、八意が消えた襖の奥から聞こえてきた。


 何事かと、典晶達全員の視線が襖に集まる。


 パンッッッ!


 襖を思い切り開けて、八意が転がるようにして出てきた。手にした本を周囲にばらまいた八意は、それをそそくさと拾い上げると、那由多の前にドカッと置いた。


「イナリ! すぐに座るのじゃ! 儂が一からお前に勉強を教えてやる! 拒否は許さないぞ!」


 いつになく強い口調の八意だが、その顔面は蒼白で、額には汗が浮かんでいる。更に、いつもは白い帽子が、調子が悪そうに青くなっている。


「あのお中元、というか、怪しい箱、何かあったな」


「ああ、そんな気はしていた」


 似たような光景は、ここに初めて来たときも見ていた。あの時も、歌蝶の名前が出ただけで、八意は動揺していた。


「また、歌蝶さんに何か言われたのか?」


 溜息交じりに、那由多が尋ねる。


「今度、ご飯を食べに来いと言われた。その時に、イナリの仕上がり具合を良く聞かせて欲しいとな」


「至極まっとうだな。母さんにしては」


「何処がじゃ! 典晶! そちは歌蝶姉様の恐ろしさを微塵も理解しておらぬ! あの箱の中には、食事への招待の誘いと、この小さな木の棒が入っておったのだぞ!」


 八意は典晶の鼻先に、小さな棒を突きつける。耳かきのような、小さな棒だ。これの何処に、恐れるのだろうか。


「木の棒? これがどうかしたのか?」


 典晶は尋ねる。那由多も文也も、美穂子とイナリさえも、意味が分からず眉根を寄せている。


「あの棒は、姉様が嫁入りの際、儂を散々折檻したときに使っていた杖を模したものじゃ! イナリの勉強が上手くいかなかったら、儂を殺す、そういうメッセージじゃ!」


 頭を抱え、ブルブルと震える八意は、キッと鋭い視線をこちらに寄越すと、すぐ隣にいるイナリへ視線を注ぐ。


「さあ! イナリ! 今すぐに勉強を始めるぞ!」


「明日で良くないか? そこの河原にでもいって、皆で遊びたいのだが」


「良くない! 良くないぞ! お盆までに、そちの学力を高校生レベルまで引き上げる!」


 バンバンと机を叩き、八意はイナリに座るように指示を出す。


「勉強、したほうが良いのか?」


 赤い瞳を濁らせ、イナリはこちらを見てくる。


 典晶は言葉に詰まりながらも、頷く。


「人間社会は、勉強が大事だよ。将来を決めるのに、大きな指標になる」


「典晶の嫁になるのに、学力が必要なのか?」


 恥ずかしげもなく言うイナリに、典晶は赤面する。


 文也は笑いながら、典晶の肩を叩いた。


「イナリちゃん、勉強は生きていく上でも重要だよ。典晶と結婚したって、日々の生活や、各種行政の手続き、小難しい話の連続だからさ。字が読めないと、生活が遅れないよ」


「そうなのか?」


 確認するように、イナリは美穂子を見る。


「文也の言うことは間違っていないと思うよ。赤ちゃんが生まれたら、絵本を読むのに字が読めなかったら、可愛そうでしょう? 日常生活に問題があるのは、典晶も大変だと思うよ」


「……そうか、典晶も大変か。それは、勉強しなければいけないな。せめて、典晶と同じくらいの学力にしないと、嫌われてしまう」


 イナリの赤い瞳に、メラメラと炎が宿った。


「あっ、イナリちゃん、出来れば、典晶よりも上の学力の方が良いわよ」


「そうそう、典晶と同じくらいだったら、進級ギリギリのレベルだから」


「失礼だぞ、お前等!」


 典晶が声を張り上げる。そのやり取りを見ていた那由多が、声を上げて笑う。


「じゃあ、皆で勉強しようか。八意も口では言っても、どうせ日がな一日暇してるんだからさ」


「那由多、余計なことを言うな。まあ、乗りかかった船じゃ。今更生徒が一人増えようが四人増えようが同じじゃ。さあ、テールブを出すのを手伝え」


 典晶達は、八意の指示に従い、テーブルを新しく出してそこに陣取った。


 こうして、典晶達は八意を先生として、短い夏期講習を行うことになった。


 イナリと八意、美穂子の女性陣三人が作ったおにぎりで簡単な昼食を取っているとき、麦茶を飲んでいた那由多の手が止まった。


「ん? 妙な気配が来る」


「確かに、妙な気配じゃな。神とも人とも違う」


「雰囲気的には、典晶の気配に似ているか?」


 イナリが不思議な表情でこちらを見て、そして正面に見える入り口に目を向ける。心なしか、彼女の目には警戒の色が宿っていた。


 何も感じない典晶と文也、美穂子は、おにぎりを口に運ぶ手を止めず、正面に見える扉を見つめていた。


「八意! ヘルプミー!」


 パンッと扉を勢いよく開け放って入ってきたのは、白と黒のツーピースに、黒いパンプスを履いたOL風の女性だった。この高天原商店街には似つかわしくない、都心を颯爽と歩いていそうな洗練された女性だった。


 軽いウェーブの掛かった髪を揺らし、女性はつかつかとこちらに歩み寄ってくる。


「うわぁ、彼女も神様かな?」


 相変わらず、綺麗な女性に目のない文也は、女性を見るなりポカンとだらしなく口を開けている。

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