八話

「………どうだ?」


「まだ何も見えない」


 ソウルビジョンを落とした典晶は、静まりかえった室内プールを見渡した。


 午後九時。採光窓から差し込んでくる月光が、波紋一つ立たない静かな水面に反射している。まるで静止画のような空間。湿った空気は塩素の匂いを含み停滞している。


 人気のないプールに初めて近づいたが、少し異様な感じがする。身近にある海も、川も、湖も必ず流れがあってそこに生命が息づいている。だが、プールは違う。それも室内プールは風の影響も受けないため、水面は死んだように凪いでいる。こちらが何らかのアクションを起こさない限り、さざ波一つ、波紋一つ起きない。


 目の前には死んだ水が広がっているのだ。


 水泳部が終わって一時間後、典晶は昼間開けておいた男子トイレの窓からそっと忍び込んだ。宿直の教師が見回りに来るだろうが、隠れてやり過ごせる場所は無数に存在している。


 バックからイナリを出した典晶は、文也と一緒にベンチに腰を下ろして水面を見つめていた。


 狭いバックから解放されたイナリが、水を得た魚のようにパタパタと動き回る。水面に鼻を近づけてスンスンと匂いを嗅ぐイナリに、典晶は声を掛ける。


「イナリ、プールの水は飲むなよ」


 典晶に釘を刺され、イナリはこちらへ駆けて来る。途中、採光窓から差し込んだ月光に触れたイナリの体が輝きだした。光が収束し、広がり、人の形を形成していく。


「わ! 馬鹿!」


 腰を浮かせた典晶。呆然と変身を見つめる文也の前に立ち塞がった典晶は、足元に置かれているバックをイナリに向かって蹴り上げた。すでに、イナリは生まれたばかりの姿になっていた。


「イナリ! ジャージが入ってるから、それを着ろ! 文也! 後ろを向け、後ろを!」


 典晶と文也はプールに背を向ける。


「ああ~、思春期の青少年にはちとキツイな~……」


「ワリィ。もうちょっと宝魂石が集まるまで、色々と我慢してくれ」


 衣擦れの音が静かなプールに響き渡る。健全な高校生二人。イヤでも背後でイナリの着替えを想像してしまう。特に、典晶はイナリの全裸を目の当たりにしているから、リアルにその光景が想像できた。


 目頭を押さえて溜息をつく。


 この結婚騒動。断る切欠を作る為に宝魂石探しを始めたが、蓋を開けるとそこにあったのは美しいイナリの姿。それも、自分を愛しているという。恋人もいなければ好きな人もいない典晶の心は、イナリの方へ大きく天秤が揺れてしまう。


(俺は目立たず平凡でノーマルなはずだ。獣ッ子萌えとか、モノノケ萌えとか、断じてそう言うのじゃない)


 深呼吸して気を静めている典晶の背中に、ワイングラスを指先で弾いたような、美しい声が響いた。


「待たせたな」


 振り返ると、そこには月光を浴びたイナリが立っていた。


「おお~、君がイナリちゃんか……ジャージが似合ってるな」


「美しい女性というのは、何を着ても似合ってしまうものなのだな」


 自らのジャージ姿を満足そうに見て頷くイナリ。彼女がこちらに歩こうとするのを、慌てて典晶が止めた。


「イナリ待て! 月光の下から出るな!」


「ああ、そうだったな。この姿にはまだ慣れていなくてな」


 コロコロと笑うイナリ。そう何度も変身を繰り返されていては、こちらの身が持たない。


 月光の下から出られないイナリの横に腰を下ろした典晶と文也。文也に至っては、超越然とした美しいイナリを見てポーッと頬を染めていた。

「なあイナリ。プールに幽霊はいるのかな?」


 学校の怪談はあくまで怪談話だ。必ずしもそれが真実とは限らないし、過去に女子生徒が死んだとしても、幽霊になって彷徨っているとは限らない。


「分からないが、ここには何かしらの霊力のような物は感じるな。もう少し待ってみた方が良いだろう」


 イナリは背後を振り返る。その方向には壁があるが、その向こうには静まりかえった校舎がある。


「それよりも気になるのが校舎の気配だ」


「校舎?」


 典晶も文也も、イナリにつられて背後を振り返る。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る