十五話

「まあ、ここに座れや」


 土手に腰を下ろした素戔嗚。典晶はその横に腰を下ろす。


 ゆっくりと流れる大河は乳白色に輝いていた。不思議で美しい河だった。


「悩み事があるんだろう? 『漢』と書いて『男』と読む俺様が、お前の悩みを聞いてやるぜ」


 素戔嗚はニヒルな笑みを浮かべる。逞しい光り輝く笑顔。ただ、萌子LOVEと書かれたハチマキだけが場違いだが。


「嫁入りの件か」


 典晶は頷く。


 典晶は下草をむしり取り、風に乗せて投げた。


「突然、イナリが婚約者として現れて、どうして良いか分からなくて……」


 いや、分からないんじゃない。分かろうとしないだけだ。イナリという存在があまりにも現実離れしすぎて、彼女を正視できないでいる。


「嫌いなのか?」


「………嫌いじゃない。だけど、愛してるのかと言われると、分からない。嫌いじゃ無いんだけど……、あ、いや、どちらかというと、好きなのかもしれない」


 何を言っているのか分からない。聞いてる素戔嗚は、もっと分からないだろう。


「初めてなんだよ、女の子から愛してるって言われたのは。ただ、その言葉を俺は信じられなくて……。それに、今日学校で凶霊が人に取り憑いてさ。イナリは、その人を殺そうとしたんだ」


「人に憑依した凶霊か……。落とすのは骨が折れるな。そりゃ、殺す方が手っ取り早い」


「そんな……。彼女は何も悪くないんだ。可愛そうだよ」


「その女の事が好きなのか?」


 素戔嗚の問いに、典晶は首を横に振る。


「お互いに顔を知っている程度で、話したことも無いよ。幼馴染みの友人ってだけ。俺とは余り関係が無いんだけどさ、放っておけない。俺は、彼女が狂った原因を知っている。だから、見て見ぬふりはできないんだ。だけど、凶霊が怖くて、俺は動くことができなかった。………結局、俺は何もできなくて、イナリに任せちゃったんだけど……」


「優しいんだな。人間はなんだかんだ言いながらも、動こうとしない。結局は、自分が可愛いんだ。その点、お前は見込みがあるぜ。イナリが惚れるだけのことはある」


「………本当にそうなのかな。俺は信じられない。心の中で、イナリのことを信じられないんだ」


「どうしてだ?」


「俺みたいな奴を好きになる女の子がいるとは思わなくて。女の子はさ、文也みたいに社交的で、格好いい男が好きなんじゃないかな。俺は、目立たない存在だし、気の利いた台詞一つ言えないし。度胸もなくて、いざというとき何もできない。


 それに、今日の一件で、イナリとは価値観が違うってよく分かった。もしかしたら、俺も理亜みたいに切り捨てられるかもしれない。それが怖いんだ。こんな意気地のない俺が、イナリみたいな子に本気で好かれるはずが無い」


 素戔嗚は流れる川面を見つめていた。


「考えすぎだぜ。イナリは、そんなオメーが好きだって言ってるんだろう? 問題はイナリじゃねぇ。典晶、お前自身だ。それで、おめー自身はどうしたいんだ?」


 素戔嗚がこちらを向く。包み込むような優しい眼差しを、典晶は受け止められなかった。逃げるように視線を川面へ移す。


 自分自身、何を一体どうしたいのだろう。


 このまま、流されるままイナリと結婚をすれば良いのだろうか。それも悪くないかもしれないが、それではあまりにもイナリに失礼だろう。イナリが典晶を思ってくれるほど、典晶はイナリのことを思ってはいない。


 おかしな話だが、両親や文也、美穂子の言うとおり、この機会を逃したら典晶には結婚は疎か、彼女だってできないかもしれない。だったら、イナリで手を打つのも悪くはない。


 自分勝手だ。それではイナリが惨めだ。彼女は一途に典晶を愛してくれている。想ってくれている。それが分かっているからこそ、無碍にはできない。真剣に向き合いたい、でも、怖い。


 典晶は自分の優柔不断さに深いため息をついた。


 何一つ自分自身で決められない、意志の弱さに愛想が尽きる。自分でも分かっている。全て状況に流されているだけだ。此処にいることだって、何一つ自分で決めたことではない。典晶は流れに身を任せ、フラフラと彷徨っている。糸の切れた凧のように宙を舞い、そのうち落下する。落下したら、自分自身の力で飛ぶ事は、二度と無い。


「分からない。どうしたいのか分からない。イナリの気持ちに答えることができないまま、時間が過ぎてしまえば良いと思っているんだ。心の底から、相思相愛になれる相手が何処かにいるんじゃないのか、そう思っちゃうんだ」


 狡いのだろう。何処かに逃げ道を作っておきたい。イナリの事を都合のいい女だと思っている事は、否定しようのない事実。彼女が自分を好きでいてくれるから、何をしても許されると思っている。


「そうか」


 素戔嗚が頷く。


「それで良いと思うぜ」


 意外な言葉だった。てっきり、典晶は素戔嗚がハッキリと男らしく決断しろと言うと思っていた。


「卑怯で結構じゃねーか。それが、嘘偽りのない気持ちなんだろう? イナリのことは好きだが、愛していない。自分が本当に好きになれる相手が現れるかもしれない。だけど、もし現れないときのために、イナリを手元に置いておきたい。どんな言葉で飾ろうが、その事実には変わりない。お前は自分の事を良く分かっている。自分がダメな奴だって分かってる。俺は、そう言う奴は好きだぜ? 自分自身に嘘をついてる奴よりもな」

 「やってることは女々しいけどよ」と、素戔嗚は付け加えた。


「変わりたいんです。変わらなきゃいけない、と思う……」


 典晶は取り残されている。イナリにも、文也にも。体は大きくなり、知恵は付いたかも知れないが、心は何一つ成長していない。ただのガキだ。

「決めるのが怖いか。人も自分も傷つけるのが怖いか」


 典晶は頷く。


「だが、決めなきゃいけねー。決めなきゃ先に進めねー」


「うん」


「だったら、簡単な事だ」


 素戔嗚の太い腕が典晶の肩に回された。熱い。素戔嗚の体温が典晶に伝わってくる。


「簡単?」


 典晶は素戔嗚を仰ぎ見る。座っていても頭二つ大きい素戔嗚。透き通った瞳には、乳白色に輝く川面が写り込んでいた。


「おうよ、簡単な事だ。迷う事なんか無い。どんな結果になろうと、一番後悔しない方を選択すれば良い。まだ選択できないって言うのなら、その時まで待てば良い。宝魂石集めがあるだろう? それを全力でやれば良いじゃねーか! 宝魂石は人の魂のなれの果て。人の気持ちが詰まっているんだ。典晶も、人の気持ちには触れただろう? 人の気持ちは言葉にできない。目に見えない風のようなもんだ。お前達の判断に、正しい答えなんか無いんだよ。選んだ答えが、全て正しいんだ」


「答え……」


「そうさ、俺たち神様だって、間違えがあるんだぜ? 後悔することだって沢山あるんだ。今ある気持ちに正直に生きろ」


 典晶は胸に手を当てた。頼りない、薄い胸板だ。その薄い胸板の奥にわだかまっている様々な感情。典晶はまだそれを処理しきれない。素戔嗚の言うとおり、時間を掛けて一つ一つ答えを出すしかないのかもしれない。


「後は、勇気だ」


 素戔嗚は巨大な拳を力一杯握ると、ゆっくりと、典晶の胸に押し当てた。熱い固まりが典晶の体に入ってくるかのようだ。


「大丈夫だ。お前にならできる。なんせ、俺が認めた数少ない人間だからな」


「素戔嗚……」


 典晶は頷く。何て事はない、当然のことを言われただけだ。だけど、背中をそっと押してくれるだけで、典晶は一歩前に進めた気がした。あとは、その勢いを使って歩き始めるだけだ。


「典晶、ダチ公のおめぇにこれをやる」


 言って、素戔嗚は頭に巻いたハチマキを取った。『萌子Love』と書かれたハチマキ。


「これは俺が聖地巡礼で手に入れた、貴重な物だ……。これを見て、勇気を振り絞りな」


「素戔嗚……」


 聖地。彼がそう言うからには、余程霊験あらたかな場所があるのだろう。聖地になってもおかしくない高天原が商店街、根之堅州國が歓楽街。本当に彼の言う聖地とは、人間である典晶が行くことなど不可能なほど遠い場所なのだろう。


「聖地で手に入れた大切な物を、俺に?」


「ああ、お前に持っていて欲しい。男を見せるときには、これを身につけてくれ。俺達のハートには、常に女神がいる。萌子がいる。それを忘れるな」


「えっ? ……ええ」


 流石にこれをつけたら、変態かキチガイだと思われる。典晶は引きつりそうになる頬を引き締めながらハチマキを受け取った。


 特別な素材で作られているのだろう。僅かに光沢のある生地は、絹のように滑らかだった。


「なんだか、凄い力を感じる」


 重い。ハチマキから力を感じる。頭に巻く気にはなれないが、持っているだけで勇気が湧いてくる。そのような術でも施されているのだろうか。


「だろうよ。苦労したぜ、そいつを手に入れるのは」


 素戔嗚は苦難を思い出したかのように顔を顰める。


「新幹線で東京駅まで行き、更に山手線に乗り換えて二駅目で到着する聖地。電気の街へと通じる門を潜った先にある家電量販店!」


「まさか、それって……!」


 典晶はハチマキを握り締めた。


「そうだ! 俺達の聖地、秋葉原!」


 素戔嗚は吠えた。意外すぎるほど近くに聖地があった物である。途端に、典晶の手にしたハチマキが軽くなった。よく見ると裏側にタグがついており、材質はポリエステルと記されていた。

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