六話

「イナリ、大丈夫か?」

「ああ、問題は無い。瘴気がきついが、それもすぐに収まるだろう」

 イナリは転神した那由多の背中を見る。典晶も、イナリに釣られるように那由多を見た。彼は飛び交う机を巧みに躱しながら、再び凶霊に迫った。

「喰らいな!」

 飛んできた机を手にした万年筆で粉砕した那由多は、体を回転させ、その勢いを付けて凶霊の頬に万年筆を叩きつけた。醜く歪んだ理亜の頬を万年筆のペン先が深く食い込み、鮮血を撒き散らしながら、吹き飛んだ。

「那由多さん!」

 今まで典晶を殺そうとしてきた凶霊だが、体は理亜だ。これでは、凶霊を倒す以前に理亜を殺しかねない。

「安心して良い。凶霊に乗り移られた理亜さんの体は、良い意味でも悪い意味でも人知を超えている。それに、この程度じゃ凶霊は止められない」

 右手に持った万年筆を振るった那由多は、左手に持った辞典を開いた。

「まずはこの空間を!」

 那由多は万年筆を開いた頁(ページ)に奔らせた。まるで、鍵盤を叩くピアニストのように、滑らかに那由多の手は辞典の上を高速で動く。そして、その手が止まったとき、辞典が輝きだした。

「八意!」

 那由多が一声叫ぶと、辞典がより一層輝きだし、複雑な文字が光の中に浮かび上がった。アルファベットの様にも見えるし、梵字に似た文字もある。どちらにしろ、解読不能の単語群が辞典から溢れ出ている。光り輝く文字は、螺旋を描きながら宙に登り、天井付近で拡散していく。

「…………!」

 文字の一つが典晶の元へ振ってきた。払いのけようとしたが、その文字は典晶の手を透過し、さらに体をすり抜けた。

「あああああああーーーー!」

 凶霊が叫んだ。宙に浮かび上がった凶霊は、万年筆で叩かれた頬を指先でなぞると、那由多に向かって叫んだ。

「分かるか? もう、お前の逃げ場はなくなった」

 那由多は笑った。そして、彼は転神を解いた。那由多の横に、いつもの装束を着た八意がふわりと降り立った。

「フフン、どうじゃ。これで、この世界の支配者は、那由多じゃ。ハロの空間を完全に乗っ取ったぞ」

 頭の帽子を整えながら、八意は平らな胸を張る。

「あ~あ、我が世の春も短かったわね」

 ハロは呟いたが、逆に典晶はホッとした。ハロには悪いが、彼女が動くとろくな事が起きない。堕天寸前の天使というのも、あながち間違ってはいないのかも知れない。

「瘴気が消えた……」

 典晶には変化が余り分からなかったが、イナリは大きく深呼吸をすると、典晶の肩に手を乗せて立ち上がった。

「変わったのか?」

「全く別の世界になった。充満していた瘴気が消え、この空間からグールの気配も消えている」

 一呼吸するごとに、イナリの体調が戻っていくのが典晶の目から見ても明らかだった。それほどまで、凶霊が出していた瘴気というのは、イナリやハロの体に負担を掛けていたのだろう。

「典晶君! ポケコンを用意して! 理亜さんの体から、凶霊を引きずり出すんだ! 俺が、凶霊と理亜さんの魂の繋がりを断つ!」

「えっ……!」

 典晶は絶句した。ここに来て、本当にポケコンが必要になってしまった。まだ那由多には言っていなかったが、すでにスマホの充電は切れており、ポケコンは起動できない。

「あの……」

 なんて言えば良いのだろうか。正直にありのままを言うしかないのだが、言うのが怖かった。もし、那由多の言葉通りだとしたら、ポケコンを使わなければ、理亜は救えない。圧倒的優位、那由多が来てくれたというのに、肝心の理亜が救えない。

 逡巡している典晶に変わり、隣にいたハロが場違いなほど明るい声で答えた。

「那由多! 典晶君のスマホ、充電切れ! ポケコンは起動できないわ!」

「はぁ?」

 目を見開いた那由多がこちらを向いた。次の瞬間、那由多に向かって机が飛んできたが、それを八意が事も無く払いのけた。

「馬鹿者! なにをしているのじゃ! お主は!」

 八意がキンキン声で叫んだ。那由多にではなく、典晶に対してだろう。

「ごめん、本当に、タダの時間稼ぎのつもりでしかなくて……」

 まさか、自分にこれほど大事な任務があるとは思っていなかった。典晶は、自分が那由多が来るまでの繋ぎ程度にしか思っていなかったのだ。唇を噛み、典晶は俯くことしかできなかった。手にしたスマホを握りしめるが、どうすることもできなかった。

「……典晶君、君の協力がどうしても必要なんだよ。これは、君の嫁入りの話なんだからさ」

「仕方ない! 那由多! 急速充電器を出してやれ!」

「あるんですか!」

 典晶の顔に光が戻る。

「おう! その辺の準備はバッチリだぜ!」

 指先で八意に指示を出した那由多は、八意を前面に押し出し、こちらに下がってくる。

「少しバッテリーに負担が掛かるけど、それは飲み込んでくれ」

「はい!」

 理亜の命が掛かっているのだ。バッテリーを気にしている場合ではないだろう。

「良し! 来い! トール!」

 右手を掲げた那由多は、それを床に押し当てた。床についたてを中心に、光り輝く魔方陣が瞬時に展開される。魔方陣は目を貫くほどの輝きを発して、一瞬にして霧散した。そして、光が消えた後に現れたのは、先ほどのハハビよりも威圧的で屈強、輝く鎧を纏った精悍な青年が現れた。彼は那由多を見て、そして周囲を見渡し、あらかたの状況を飲み込めたようだ。

「那由多、敵はあの凶霊か? このミョルニルで砕けばいいのか?」

「いいや、トール。お前を呼んだのは他でもない! 典晶君のスマホをすぐに充電してくれ!」

 トールがこちらを振り返る。青い瞳がギラリと輝いた。典晶だけでなく、イナリも身を固くして典晶に体を寄せてきた。

「良かろう」

 天井に届きそうな頭を下げながら、トールはちょこんと正座をすると、手にしたハンマー、ミョルニルを床に置き、慇懃な仕草で典晶の手からスマホを手に取った。

「失礼する」

「はい……」

 籠手を外したトールは、小さく咳払いをすると、目を閉じて精神を集中させた。そして、左手に持ったスマホを大仰な仕草で掲げると、USBポートを自分の方に向け、右手の人差し指を押し当てた。

「よし、充電を頼むぞ! くれぐれも、失敗しないでくれよな!」

 余程神経を集中しているのだろう、那由多の声に、トールは頷き返しただけだった。

 鎧を着た屈強な大男が、床に正座をし、指をスマホに当てて充電している。端から見るとなんともシュールな絵だった。

「それじゃ、二三分時間を稼ぐか」

 那由多は大きく伸びをすると、典晶を守るように立っていたヴァレフォールを見た。那由多が右手を差し出すと、ヴァレフォールは少し照れるように笑い、那由多の手を取った。瞬間、ヴァレフォールの姿が煙のように掻き消え、那由多を包み込んだ。

「八意! 下がれ!」

 那由多は黒装束に黒いマントを身につけていた。手には巨大な鎌を持っている。

「間違っても、殺すではないぞ!」

「わーってるよ!」

 その声と共に、那由多が消えた。いや、消えたように見えたのだ。黒い旋風となり、机と椅子を弾き飛ばしながら、那由多は凶霊に迫った。

「人が! まだ邪魔をするか!」

 凶霊と那由多が交錯するのも、すぐに凶霊は弾き飛ばされる。体勢を立て直し反撃に転じるが、机も椅子も、触手さえも、那由多の手にした鎌に触れた瞬間に、消滅する。

「アナレティック。破壊者と呼ばれる鎌じゃ」

 八意は「やれやれ」と言いながら、典晶の横に来た。

「あの鎌に触れたら最後、余程の力を持った悪魔や神でない限り、その存在を消される。消されると言っても、我らは死なず、無限獄に強制送還される。ただし、それ以外の、凶霊や命ある妖怪などは、文字通り消滅する」

「凶霊は大丈夫なのか? 理亜を人質に取られたら」

「もう、那由多の王手じゃ。凶霊は積んでおるよ」

 八意は身を屈めると、気を失っている美穂子の額に手を当てた。

「この娘を取られた瞬間、勝負は決まった。凶霊は生き続け、生気を喰らい続けることを旨とする。宿主である理亜を殺した瞬間、那由多が凶霊を消滅させる。それを知っておるから、理亜を人質にはとれん」

「だから、凶霊は理亜を殺すことができない」

「この世界からの脱出も不可能。凶霊に残された道は、此処にいる儂等全員殺す事じゃ」

「不可能じゃがな」と、八意は呟き隣で正座をするトールを見上げた。正座をしていても、その座高は典晶と同じくらいある。

「あのトール?」

「そうじゃ、あの北欧神話のトールじゃ」

 八意はスマホを覗き満足そうに頷く。

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