二章 宝魂石

一話

 リリリリリリリ…………!


 強い朝日が瞼の向こうから押し寄せてくる。手を伸ばして枕元の目覚まし時計を止めた典晶は、開け放たれた窓から覗く青空を見上げた。雲一つない青空。今日も暑くなりそうだった。


 夏掛けを捲った典晶は、熱い固まりが足元にある事に気がついた。足を動かすと少し硬い毛に触れる。驚いて起き上がって足の間を見ると、子狐の姿をしたイナリが丸くなって眠っていた。


「………」


 人差し指で唇に触れる。人の姿になったイナリにキスをされた感触が、まだ残っているかのようだった。


 丸まって寝ているイナリの頭を、典晶は優しく撫でる。やはり、この姿の時は婚約者と言うよりもペットに近い感覚だ。


 月光に浮かぶイナリの白い肌が、脳裏から焼き付いて離れない。


 宇迦とよく似ているが、宇迦がホンワカとした優しい感じの美人だとすると、イナリはその逆だ。冴え冴えとした冷たい雰囲気を纏った目の覚めるような美人。それでいて、典晶を見る瞳には激しい情熱の炎が見て取れた。



 愛している。



 両親以外から言われるのは生まれて初めての経験だった。両親から言われるのは、親子愛であって男女間の愛情とはまた別物だ。だとすると、両親の「愛してる」はノーカウントだろう。


 相手が自分を愛してくれている。相手が狐だろうが神様だろうが、美しい女性から言われて嬉しくない男はいない。


 あどけない顔をして眠るイナリを、典晶はしげしげと見つめる。


 宝魂石をゲットしたイナリには如実に変化が見て取れた。まず、一本だった尾が二本になったことだ。昨日まで普通の子狐だったが、今はより化け狐に近づいている。最も大きな変化が、月の光を浴びているときだけ人の姿になれるという事だろう。昨夜も家に帰ってきてから、縁側に佇むイナリの姿は思わず見とれてしまうほど美しかった。


 眠気の残る眼でイナリを見つめていると、うっすらとイナリが目を開けた。イナリは大きな口で欠伸をすると、起き上がりブルブルと体を震わせた。


 コンッ!


「ああ、おはよう」


 布団から起き上がった典晶は、大きく伸びをして身支度を調える。顔を洗い、寝癖だらけの髪を整える。天安川高校の制服に着替えた典晶は、イナリを連れて居間へ向かう。


「おはよう、二人とも。イナリちゃん、昨夜は眠れたかしら? それとも、典晶が寝かせてくれなかったかしら?」


「ハハハ、歌蝶、朝から何を言うんだい? イナリちゃんも気にしなくて良いからね。……で、今年中に子供が生まれそうかな? 体の相性は重要だからね」


「朝から何言ってんだよ二人とも! 何もしてねーから子供なんて生まれやしないよ! ってか、結婚するかどうかも分からないんだからさ!」


 顔を真っ赤にして反論する典晶。それを見た歌蝶がニヤリと笑う。


「あら、言うわね。昨日帰ってきたと思ったら、裸のイナリちゃんを前にしてずーっとボンヤリしていたくせに」


「それは……」


「まあまあ、良いじゃないか。典晶はまだ童貞なんだから、そうすぐに事も運ばないさ。それよりも、夜に出歩くときはイナリちゃんの服を持ち歩かないとな」


「………それは言えてる」


 結局、昨夜は歌蝶の着物を借りていたのだが、外に出て着物を着せるわけにも行かないだろう。典晶は当然として、イナリも着付けの仕方が分からないと言っていた。それに、嵩張る着物を常時持ち歩くわけにもいくまい。持ち歩けるとしたら下着とジャージ、その程度が良い所だろう。


 食卓の上にはいつも通りの朝食が載っていた。こちらが何かを食べたいとリクエストをしない限り、ご飯に焼き魚、味噌汁と煮物一品と漬け物だ。


「家族が増えるって良いわね」


「家族って、だから、まだ結婚すると決まったわけじゃ……」


「それでもよ。同じ食卓を囲むんだから、どんな事であれ、イナリちゃんは私達の家族よ」


 少しキツイ口調で言われた典晶は、「うん」と頷く。


 鼻歌を歌いながら歌蝶は典晶と典成の前にご飯を置いた。食卓の上には、典晶、典成、歌蝶の三人分の朝食しか載っていない。イナリの朝食が抜けていた。


「母さん、イナリの朝食は?」


 典晶の横にチョコンと腰を下ろしているイナリは、何処か不安そうに食卓を見つめていた。


「もちろんあるわよ」


 台所から歌蝶が持ってきたのは、犬猫が使うフードボウルだ。激しく嫌な予感がする。そう思ったのも束の間、歌蝶は想像通りの行動を起こした。


「さ、遠慮なく食べてね」


 歌蝶は微笑みながらイナリの前に、床にフードボウルを置いた。フードボウルには、ご飯に味噌汁がぶっかけてあり、イワシがチョコンと一尾乗っているだけ。


「ちょっと母さん! それ、明らかに婚約者じゃなくてペットとしての対応だよね!? さっき自分が何て言ったか憶えてる? イナリを家族として扱えって! 何処の鬼姑だよ!」


「あら、私は鬼だからそのまま鬼姑よ?」


「そうじゃなくて! これじゃイナリに失礼じゃ……」


 そう言いかけた典晶だったが、当のイナリは全く気にする風もなく、フードボウルに顔を突っ込んで美味しそうにイワシを囓っている。


「お前も面倒かも知れないけどさ、少しは突っ込めよ……」


 何にせよ、イナリが良いならそれで良いのだが、どうも釈然としないものがある。まあ、狐の状態でいるイナリに対して、人間と同じように食事を並べられても余計イナリは困惑するだけかも知れない。


 イナリとの同棲生活二日目。まだまだ典晶の困難は続きそうだった。

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