平穏は続く
6
夏休みが残り一週間となった九月の日曜日、遠藤修介、片瀬拓哉、林日向子、市川湊ら四人は、大学の学生食堂に集まることになっていた。そのあと、学生街にある音楽スタジオにて、夏定で演奏予定の曲を合わせる予定である。
M大のキャンパスは、全学部が一キャンパスに統合されて、周囲の学生街を含め、一種の学園都市の様相を呈している。都心の大学にしては珍しい立地であるが、それもこれも、近年の受験者増加によるものであろう。五年ほど前に、もともと、文系学部だけしかなかったキャンパスに隣接していた団地が、居住者の減少と老朽化に見舞われ、取り壊しになった。そこの土地を大学側が買い取った、と聞いている。キャンパスの拡張に伴い、多摩のほうにあった理系学部のキャンパスがこちらに移転して、学生食堂は三つに増え、生協が運営している売店も四つに増えた。遠藤と片瀬が法学部、日向子は文学部、湊が商学部に所属しているが、文系学部の授業が行われる教室は、大体がキャンパスの西側に集中しているので、おのずと集まる食堂も限られてくる。キャンパスの東側は理系学部の教室棟や研究棟があったり、ちょっとした公園のようになっていて木々が生い茂るエリアもある。遠藤らがM大学を受験した年は、この大規模なキャンパスの拡張と、建物の建て替えなどが済んでからであったので、相当な倍率であったことが話題となった。
遠藤は、集合時間より早く、二階の食堂に赴き、好物のカレーライスの大盛りを注文して食べていた。二階から上が食堂になっていて、一階は売店が入っている。M大学は生協に加盟しているので、比較的安価に食堂を利用できる。勿論、大学は出入り自由(これは、物理的な意味である)なので、近所に住んでいるのであろう年配の人を見かけることもしばしばである。
大盛りのカレーライスを十分足らずで食べ終わると、遠藤は、食器の乗っているトレーを下げてから、学生食堂の裏手にある喫煙所へと降りていった。学生食堂は全席禁煙であるからだ。学内でもここの喫煙所はあまり人気がなく、遠藤のお気に入りのスポットの一つである。腕時計を見ると時刻は午前十一時五十分であった。時間まで、あと十分ある。
ズボンのポケットに入れていて、少し凹んでしまった箱から煙草を抜き取ると、最近買ったばかりのジッポで火をつける。近年の嫌煙ブームを受けて、東京都のほうでは区などの自治体によって路上喫煙禁止条例が、次々に公布されていると聞く。遠藤自身も嫌煙ブームに関しては、決して悪いことだと思っていないし、健康を害するものであるということは重々承知の上である。それでも煙草を吸っているのは、喫煙によるデメリットよりも、メリットが圧倒的に上回っていると思うからで、これは、理屈云々で説明できるものでもない、と遠藤は思った。
半分ほど煙草が消費されたところで、市川湊がやってきた。重そうな荷物を肩からぶら下げている。
「おはよう、修ちゃん」遠藤の幼馴染である湊は、昔から彼のことをこう呼ぶ。
「おう。ていうかもう昼だろ」遠藤はもう一度腕時計を見る。十一時五十三分。「その荷物どうしたの?」
「ああこれ? 全部本なんだよね……。三教科もレポートでちゃって、しかも期限もモロ被りしちゃってるから、一気に借りたの」
「だからって一気に返しにきたの?」
「まあ」少し恥ずかしそうに湊は微笑む。「あたしにも一本くれる?」
遠藤は煙草を取り出すと、湊に手渡した。湊は地面に荷物を降ろしている。ジッポで湊が咥えている煙草に火をつけてあげた。
「お前、吸うんだっけ」遠藤には、あまり吸っているイメージがない。
「あんまり買ってはいないけどね……。かといってもらってばっかりも良くないけど」
「最近女の子って吸ってる人少なくないか?」
「わあ! 女の子だって! あんたもまだ捨てたもんじゃないわね」
「一般論としてだよ」遠藤はそっぽを向いて言う。「ていうか今日やけにテンション高くないか?」
「そんなことないよ……」湊は少し俯く。「そうそう、バイト先のパートさんとか、大学生のバイトの子とか、結構吸ってる子いるよ」
「俺の周りにいないだけか」遠藤は二本目の煙草に火をつける。
「あたしは逆に、男の人のほうが吸わなくなってると思うけどね」湊は美味しそうに煙草を吸う。「日向子ちゃんと拓哉は?」
「いや、見てないけど……。とりあえず、暑いし中で待つか」遠藤はまだ長い煙草を灰皿に放り込み、シャツをぱたぱたとあおいでいる。
「そうね」
二人は外の非常階段で二階に上って、食堂の中に入った。
食堂は依然として閑散としている。さっき入った時には気づかなかったが、夏季休暇中の営業時間が記載された紙が、この無機質な直方体の建物の柱のあちこちに貼り出されている。夕方の五時には閉まるらしい。
湊が、レポート作成のための本がたくさん入ったバッグを机の上にどさっと置いたとき、片瀬と日向子が階段を上がって食堂に入ってきた。片瀬はポロシャツに短パン、日向子は薄いブルーのワンピースを着ていて、とても涼しげだ。
「いやぁ、おはよう諸君」片瀬は軽く汗をかいている。
「お待たせしました」日向子は一滴も汗をかいていないように見える。
「一緒に来たの?」と湊。
「いや、校門のところで出くわしたから」
「出くわしたってなんですか。失礼です」日向子は横目で片瀬を睨む。
「はい、水」給水器で人数分水をとってきた遠藤がコップを配る。
「サンキュー」そういうと片瀬は一気に水を飲み干して、給水器のほうに歩いて行った。
「今って九月だよね……。なんでこんな暑いんでしょ」湊は重たい荷物を提げていたほうの肩を回している。
「きっと、秋って季節は表面上は消滅したんですよ。読書の秋、食欲の秋、スポーツの秋、そうやって何でもかんでもあてがわれてたら、秋だってしっぽ巻いて逃げますよ」
「飽き飽きしちゃうな」
ぼそっと遠藤が言う。無論、誰も反応しない。
「夏定が九月末な時点で、お察しだろ」コップを二つ持ってきた片瀬が言う。また取りに行くのがめんどくさいのだろう。「世間は九月末まで夏なんだろ」
「そろそろ、セトリとかってできてるのかな」と、湊。
「幹事長が大方は決まったってこないだ部室で言ってましたよ」
「それでそれで?」湊が体を乗り出す。
「わたしたち、トリっぽいですよ」
「え! マジで?」三人は互いの顔を見合っている。
遠藤たちの所属している軽音サークル『Coda』は、部員数が他の軽音サークルと比べて少ない、小さなサークルである。学内の公認軽音サークルだけでも、六つあり、他大学受け入れを承認している非公認のものを含めると、十以上のサークルが活動している。サークルの規模が大きいところだと、優に百人を超え、定期的にあるライブに出るのにも、サークル内での事前オーディションが行われる処が多い。当然、そのようなオーディションを行っているところは、技術面に関して申し分ない逸材がごろごろいるので、ライブの完成度も高くなる。なので、初心者はなかなかライブに出ることができないという状況が生まれてしまうのは仕方のないことだ。その点、遠藤たちの『Coda』は、小規模で比較的アットホームな雰囲気を売りにしているサークルで、オーディションも行われず、ほとんどの人がライブに出演できる。大規模なサークルに比べると、技術面で劣る部分はあるものの、皆が音楽を楽しむという趣旨のもと活動しているので、あまりギスギスしてこないところは、評価できるであろう。ライブのセットリストに関しては、慣習的に上級生のバンドや、サウンドの重いものが後半に回される傾向にある。
なお、サークル名の『Coda』は、レッド・ツェッペリンのアルバム名に由来しているが、かつての部員が無断で部室に貼ったツェッペリンのポスター以外には、この名前に関連するものはほとんどない。コピーするバンドにしても、最近は邦ロックなどが中心になってさえいる。
「おいおい。四年生はどうしたんだよ……」声を震わせた片瀬が言う。
「てっきり、就活とか終わった反動で騒ぎ出すと思ってたけど」と遠藤。
「修は他にもバンド組んでるでしょ? その分まだいいよ……。緊張しなくていいじゃない」
「幹事長が仰るには、しばらくライブに出てなかったからとかなんとかですって」
「日向子ちゃんも修と同じバンドだっけ? もう一個のやつ」湊が訊ねる。
「はい。元々3ピースのバンドで、女性のギターボーカルなんですけど、なかなか適任がいないからって私にベースボーカルの白羽の矢が……」日向子は自信なさげに言う。
「日向子ちゃん歌うんだ! あたしすっごい聞きたい」湊は目を輝かせている。
「スケジュール的には昼の一時くらいに演奏予定だよ」遠藤は湊の反応に笑いながら応える。「昼にあった四年のバンドもなんか辞退するみたいで」
「ビビってるんじゃないのー? ミスるのが怖いんだよきっと」湊は同士を見つけたように自分を棚上げして言った。
「まさか」と遠藤。
「まあ俺らもトリなんてそんなにできるもんでもねえし、いい経験とでも思っとこうぜ」すでに二つのコップを空にしていた片瀬が立ち上がりながら言った。「飯買いに行くひとは?」
「あ、あたしも行くー」
「私は家で食べてきたので……」
「俺もうさっき食べたからパス」
片瀬と湊は食券を買いに歩いて行った。
「食堂に集合なんですからお昼抜いてくればよかったですね」
「食堂に集合なのわかってたのに先に食べた俺よりマシだよ」
「我慢できなくって……つい……」少し俯きながら日向子は呟く。
まあまあ、と遠藤はできる限り柔和な表情で応える。
「そういえば日向子ちゃん、今朝のニュース見た? 玉突き事故のやつ」特に話すこともなかったので、時事ネタを振る。彼女であれば対応できるであろうという予測からだ。ぽけーっとしている湊ではこうもいくまい。
「はい、見ましたよ。一番後ろ、つまり、最初に突っ込んだ車の負傷者の証言がなんだかおもしろかったです」
「確か、夢を見ていた、みたいなこと言ってたよね」
「でも、そのくせ、居眠り運転じゃないって頑なに言い張ってるみたいですね」そういうと、日向子はぬるくなった水を飲んだ。「……まずい」
今朝のニュースで報道各局が報じていたのは、昨晩六時過ぎに、神奈川県内の東名高速道路内海老名SA周辺において発生した、大規模な玉突き事故についてだった。死傷者八十人以上、百台以上の車が絡む多重衝突事故で、朝の情報番組は、どの局にチャンネルを合わせてもこの大規模な事故をこぞって取り上げていた。
高速道路の防犯カメラの映像を解析したところ、玉突き事故の始まり、つまり一番最初に衝突を起こしたとされる人物が判明した。神奈川県警はこの玉突き事故の発生後、即座に実況見分を行った。百台以上が絡む大事故であったため、東名高速道路は事故のあった下り方面の一部区間が通行止めになった。今後、数日中に警察による任意取り調べ、及び必要がある場合は強制捜査が行われ、事故の原因の究明を急ぐことになるだろう。
奇妙なのは、事故に遭った人々の証言であった。この多重衝突事故の当事者たちは、一時的に海老名SAに避難することとなった。テレビ局は取材のため、朝から海老名SAへと駆けつけており、当事者からのインタビューを行っていた。この事故の一番最後尾の車を運転していた男性のインタビューに始まり、当事者たちは口をそろえて妙なことを口走っていたのだ。
それは、事故当時、瞬間的に視界がブラックアウトし、夢のようなものを見ていたというものである。この最後尾の男性以外にも、奇妙な意識途絶現象に遭遇し、気づいたときには事故が起こった後であった人がたくさんいるそうだ。なので、最後尾からの追突にが原因でどんどん玉突きのように後ろから事故が起きていったというよりは、事故がある一定区間内で連続して起こったために、客観的にはそのように見え、報道上も玉突き事故として表現したほうが都合がよいというだけの話である。いまだ車両の撤去作業は続行中であり、開通の目途は立っていない。
「みんな白昼夢見ちゃったってことでしょ? たまったもんじゃないよね」
「原因は何なんでしょうね。集団に働きかける大規模な因数が存在したのか……、または、事故が起きた原因のひとつに心当たりがある人が、最初にブラックアウトに遭遇したと証言した人に便乗して、事故の発生原因そのものをうやむやにしようとしたとか……」日向子は机の上で両手を組んで考え込んでいる。
その仕草が少し現実離れしているようで、遠藤はくすっと笑った。
「なんです?」
「いや、別になんてことはないのだけど」慌てて口角を戻して遠藤が言った。「日向子ちゃんって兼サーってしてたっけ?」
「え? 何でですか?」
「たかだかって言っちゃおかしいかもしれないけど、事故のニュース見ただけでそこまで真剣に考えこむ人も珍しいから、ミステリ研でも入ってるのかと思って」遠藤は、すでに飲み干して空になったコップを片手で弄んでいる。
「いえ、入っているのはCodaだけですよ。お父さんが結構なミステリ好きで、家にミステリ小説がたくさんあるんです。お母さんも読書は嫌いなほうではないので、たびたびSFとかの小説を買ってきてますね。その影響で私も小さいころからミステリを読むようになってしまいまして……。今はミステリに限らずいろんな本を読んでます」
「一家揃って読書家なわけね」遠藤は微笑んだ。
自分でもまあまあ読むほうだとは思っていたが、こういう根っからの読書家に対しては、遠藤はあまり自分から浅薄な知識を曝け出すような真似はしないように心がけていた。
一般に質問をするときに、質問される側の回答よりもむしろ、質問者のほうが試されている、と何かの小説で読んだ気がする。遠藤としては、できるかぎり日向子と話題を共有したいところであったが、消極的な言葉を選択した。
「俺はあんまり読むほうではないからよくわからんなあ」
「人には合う合わないというものがありますし」日向子は遠藤の思惑には気づいていないらしい。
そこへ、湊と片瀬がトレーを持って帰ってきた。湊はカレー、片瀬は和風の定食であった。
「湊はまたカレーか」遠藤はちらと湊に一瞥くれて言った。
「しょうがないでしょー。一番安いんだから」湊は頬を膨らませている。「修はさっき何食べたのよ」
「カレー」遠藤は即答する。
「なあんだ、同じ穴の狢じゃないの」
「カレー安いんだけどさ、俺には甘ったるくってちょっと物足りねえんだよな」湊が席に着くのを待って、片瀬が言った。「カレーってさ、後から辛さを足せる調味料ってないよな」
「七味とかタバスコなんて合いそうにないですし……。考えたことなかったな」
「煙草吸いたい」遠藤は外の景色見ながら呟く。
「今日は夏定のミーティングでしょ。終わるまで待って」
「結局、原曲に一つフェードアウトで終わってるやつあるけど、あれどうすんの」
「ラストサビが終わったら、イントロのメロディラインを八小節ほど繰り返して終わり、でいいんじゃないでしょうか」
「俺はお前らに任せるよ」
「このあと一回やってみようか」
「そうだねー。まあ私はサビ終わりでそのまま終わっちゃってもいいけどね」湊は水をがぶがぶ飲んでいる。「これ辛くない?」
その後、演奏する曲の順番、MCの内容、それぞれの細かいグルーブについて話し合い、学生街の音楽スタジオへと移動した。Codaの夏定まで残り一週間となった今、部員は皆曲の練習に余念がない。ただでさえ、大学が始まりかけているこの忙しい時期に、夏定が被ってくることに内心不満を持つものもいるだろう。しかし、忙しい時ほど人の本領が発揮されるとかいう、OBの何とも体育会系的な言葉が現実となり、この時期の開催はもはや通例となっている。小規模サークルであるので、各自がどう思っているかは別にして、参加率は例年百パーセントに近い。遠藤は、どちらかというと、残り数パーセントに属したいと常々思ってはいるものの、言葉にしたことは今までに一度もない。協調を図りすぎるところは、昔から直すべきかわからないでいる。たぶん、社会を生きる上では、協調性はあったほうがいいのだろう、と何回繰り返してきたか分からない思考をなぞった。
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