渦のその中心へ

     13


 日向子はステージの片隅でベースを弾いていた。片耳にはウォークマンに繋いだヘッドホンから流れてくる音源を、もう片耳はベースにつなげたヘッドフォンアンプから自分のベース音をヘッドフォンを通して聴いている。一つのイヤフォンで別々の音源を聴くということは、ポータブルオーディオプレイヤーの範疇でできることではないので、仕方なくこのようにアナログな方式を採用しているが、この煩わしさがそれほど嫌いではない日向子である。

 サウンドチェックは無事終了し、オープニングアクトのバンドの演奏がちょうど終わったところだった。日向子と遠藤の出演するバンドはあと二十分もせずに始まるだろう。日向子の最初の出番はトップバッターから数えて三番目、一時からの予定だ。

 特に今更確認するところもないので、演奏する三曲をさらっと復習した後、ヘッドフォンを耳から外し、携帯電話だけを持ってライブハウスを出た。

 日向子は一人外に出ると、時計を見た。十三時四十分。五分前には戻れば間に合うだろう。彼女の携帯はスマートフォンではなくて、いわゆるガラケーである。いわゆる、といっても、この言い方はごく最近できたものなのであまり慣れない。日向子たちが中学生の頃にはテレビ機能付き最新機種の携帯が流行していたし、スマートフォンの走りのような機種が出始めたのは高校生の時である。クラスの何人かがそれを持っていて、それだけでちやほやされていたことを思い出すが、今になっても日向子はガラケーを使い続けている。世界基準とは別の方向で機能的な進化を遂げていたことからガラパゴスの名を冠したようだが、むしろ国際規格に合わせてスマートフォンを出したことで独創性が失われたようにも日向子は思う。

 徒歩五分もかからないコンビニで紅茶を買った。電話帳に登録している番号を呼び出して、電話を掛けた。長いコールのあとで、相手が電話に出た。

「もしもし、日向子です」

「ああ、林君、どうしたの」柳は不愛想に訊いた。

「仁志さん、今どこですか?」日向子は一口紅茶を飲んだ。

「研究所の中。驚いたよ。今地下の奥深くにいるんだけど電話が鳴ってね、一瞬幻聴かと思ったけど、僕の胸ポケットで鳴ってた。電波はどうなってるんだろうね」

「地下に基地局でもあるんじゃないんですか」

「うーん、一理あるね。で、要件は?」

「今から私の出番なんですけど、そちらは何時から始まるんですか?」

「事前に渡された書類には十四時からと書いてあったけれど」

「もうすぐじゃないですか。お忙しい時にすみません」

「いや、特に忙しいわけじゃないんだけど。あれ、つかない」

「もしかして今煙草吸ってますか」

「うん。喫煙室にいるけど、ここも研究所の中だから間違ってはいないだろう?」

「好きにしてください。ライブが始まる前にちょっと電話しておこうと思っただけですから。それじゃあ、終わったらまた連絡します」日向子は柳の返答を訊く前に電話を切った。

ライブハウスに急いで戻ると、外の喫煙所で一人物思いに耽っている倉持の姿が目に入った。

「倉持先輩お疲れ様です」

「うおっ、日向子ちゃん。お疲れさま」倉持は驚いて言う。

「先輩、煙草吸いましたっけ」

「ばれちゃったかぁ。うん、みんなの前だと吸わないんだけど、一人の時だけね」

「はぁ、そうなんですか」

「一緒に吸ってるとさ、どうしても吸うペース合わせなきゃいけない気がしてねぇ。あんまり落ち着けないし」

「なんかわかる気がします」

「日向子ちゃんわかるかぁ。さすがは読書家だね。きちんと自分を持ってらっしゃる」

「いえ、そんなことないですよ」日向子は無表情で言った。彼女の周りに喫煙者が多すぎて、一々個人個人に感想を持っていられないというのが現状だ。「倉持先輩いつ出番ですか?」

「俺はもう終わったよー。次、日向子ちゃんの出番じゃない? 俺は二番目だったから、もう次の準備してると思うよー」

「えっほんとですか」日向子は時計を見ると五分前を切っていた。「行ってきます」

「頑張ってねぇ」

 倉持に見送られながら、日向子はライブハウスに入った。

 中に入ると、遠藤ともうひとりのメンバーが準備をしていた。演奏と演奏の間は、部屋の照明が少し明るくなって、ライブハウス全体を見渡すことができる。どうやら四年生もぼちぼち集まり始めているようだ。もう一人のメンバー、スリーピースバンドなのでつまりはドラムだが、四年生の常深というすらっとした女の先輩だ。極めて面倒見がよく、頼りになる先輩なのだが、隣に立つと身長差が際立ってしまうので、彼女が弦楽器をやっていなくて本当に良かったと思った。

 ベースをエフェクターを介してアンプに繋ぎ、音量や歪みを調整する。いつも通りの音になったところで二人を見て、OKサインを出した。

「えー、じゃあ始めまーす。日向子ちゃんの歌声聞きたい人はもっと前に集まってー」隣に立っている遠藤が観客を煽る。ステージが高くなっているので、集まってきた部員が足元に見えた。変に遠藤が煽ったせいで、日向子は少し恥ずかしかった。

 観客側の照明が一気に落とされ、光源がステージに集中した。こちらに向けて当てられているライトが多いため、ステージ側からだと向こうを見渡すことが難しい。見られている感覚がほとんどなくなったため、演奏に集中できる効果があるのは日向子にとってはとてもありがたかった。

 遠藤がギターを見てから、常深を見て、それから日向子のほうを見た。

 日向子もその目線に応じて頷く。

 ステージと客席を包む空気の振動が収まり、一瞬の静寂が訪れた。

 常深のカウントと共に、滑り出すように日向子のベースがメロディラインをなぞり始める。

 遠藤のギターが、日向子の音の隙間を縫うように入ってくる。

 日向子は深呼吸をして、そっと歌い始めた。

 優しく、儚げな歌声が場に広がる。

 それは室内に反響し、柔和なサウンドへと昇華していく。

 ウォーキングベースの心地良い音。

 正確なリズムを刻むクロマチック。

 シックスストロークが醸し出す緩急。

 そのどれもが、混ざり合い溶け合う感覚。

 この瞬間は、誰もが経験できるものではないかもしれない。

 決して、譜面上だけでは記述することのできない音だ。

 そして、二度と同じ瞬間はやってこない。

 再現不可能。

 横目で遠藤を見ると、一瞬目が合ったように感じた。

 先輩と目が合うことが多い。特に最近は。

 逆光の中、正面を向き直して体勢を整える。

 一度、心を無にして歌う。

 歌詞に自らを重ね合わせ、叫ぶ。

 こんなときくらいは、陶酔したっていいだろう。

 体に染み込んだ動きが自然と表面化し、指が動く。

 正面には、微かに湊の姿が見える。

 両手を胸の前で組んで、見守ってくれている。

 汗と光で、それすら霞んでいるけれど、確かにそこにある。

 次の瞬間、霞はその彩度さえも失った。

 電源に繋がったままのケーブルが抜けたような鈍い音を立てて、あたりに暗闇が訪れた。

 ステージライトの緑色の残像が、まぶたに張り付く。

「危ない!」

 誰かの甲高い声が暗闇に響いた。

 それと共に感じる浮遊感。

 否、落下。

 悲鳴を上げる余裕もなかった。

 前のめりになって落ちていく。

 衝撃。

 右腕に鈍痛。

 回転しながら落ちたのか。

 叫び声が聞こえる気がする。

 意識がどんどん遠ざかっていく。

 どんっと近くで何かが落ちた振動が伝わる。

 誰か、倒れたのだろうか。

 遠藤先輩は、湊さんは、片瀬先輩は、無事だろうか。

 ああ……早く起きないと……。

 みんなを早く安心させないと……。

 奈落へと落ちていくように、深く、深く、沈む。

 彼女の意識は、そこで途切れた。 

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