その男はサイコロを振らない

     12


 扉は闇の広がる内側に開いた。

 否、そこは完璧な暗闇ではなく、仄暗い蛍光灯に照らされた廊下が続いている空間であった。外の明るさとのギャップに目が慣れるまでに、少々時間がかかった。先程の過度な装飾が張り付いていた部屋とは打って変わって、研究所に似つかわしいリノリウム張りの通路が、人々に無機質な印象を与えるには十分な役割を果たしている。

 長谷川は、革靴のかかとを鳴らしながらずんずんと奥に向かって歩いていく。照明の明るさが足りないせいで、廊下の一番奥まで何があるのかが見通すことができない。ところどころ、廊下の左右から光が漏れていることが視認できる程度である。

 歩きながら、老執事は胸元からカードキーのようなものを取り出して、廊下を区切っている扉を何枚も開けていった。おそらく、セキュリティーのためのものであると考えられるが、扉によって点灯しているランプが異なるので、長谷川の持つ権限は中々にハイレベルのものであるようだ。

 その後、幾つかの小部屋の前を通り過ぎていくと、突き当りにエレベータが現れた。これにも長谷川はカードキーを操作して扉を開けた。エレベータの中は一面ガラス張りになっているが、今ガラスの外にはコンクリートの壁が見えるのみである。

「これからお見せするのが、CERNのLHCをも超越する、世界最大の加速器になります」

「世界最大……ですか」

「超大型国際リニアコライダー、通称SILCです。こちらまで来てください」長谷川はそう言いながら「E」と書かれたボタンを押して、音もなくエレベータを降下させた。エレベータ内の階数表示には、「二十」という文字が光っている。

 エレベータが降下するにつれ、三方向のコンクリート隔壁がぱっと消えてガラス張りになり、巨大な地下空間の全貌が明らかになった。

「これは……」柳は言葉を失った。

 そこには反対側の壁まで霞みそうなほどの地下空間の中に、巨大なケーブルや機械類、様々な装置がいたるところにぎっしりと張り巡らされていた。その光景は一種の様式美とも言える。

 柳の知識ではILCはまだ構想段階でストップしていたはずの計画であった。それがこうして既に施設として眼前にあると、極秘裏に計画を進めた日本政府には一目置いてもいいのかもしれない。ILCを建設したからといって、外交上のカードになる代物というわけでもないが、いずれにせよILCがもう完成していたことは、宇宙の謎を解き明かすうえで非常に役に立つであろうし、地球全体の利益にもつながるはずである。

 一番下で忙しなく動き回っている作業員が、米粒ほどの大きさに見える。こうして上から見ていると、遠近感がおかしくなりそうなほど、この地下空間は巨大だ。到底こんなスペースが必要とも思えない。

「LHCというものは、環状に陽子などを加速させるパイプが通っていることであることは、先生もご存知でしょう」長谷川が訊く。「スイスにあるSERNのLHCは、しばしば日本の山手線にたとえられますが、その全長は約二十七キロメートル、ここ丹沢山系の地下約千メートルから山梨のほうにかけて三十五キロメートル一直線に伸びているSILCには到底及びません。LHCには実現が困難であった最大電圧の飛躍的向上、陽子よりも軽い電子をLHCより効率的に、実験に用いることができることなど、技術的問題も解消しています」

「ここまでの巨大空間を創出する意味はあるのですか」

「通常であれば五階建てビルほどの大きさで十分なのでございますが、何と申し上げましょうか、政府は威厳を見せつけたいのでしょう」

「それほどの意味はないと受け取っていいのでしょうか」極秘施設に威厳を見せるも何もないのではないかと柳は思う。

「私から申し上げるのも恐縮ですが、そう受け取っていただいても差し支えないかと」

 長谷川が軽く説明している間に、エレベータはすぐに一番下までの下降を完了させた。

 音もなくエレベータの扉が開いて二人が外に出ると、スーツ姿の高身長の男と、顎に白髭を蓄えた白衣姿の男が目に入った。スーツの男は、こちらに軽く手を挙げて挨拶している。雨宮だ。

「ご無沙汰してます、柳さん」雨宮は仰々しくお辞儀をして出迎えた。

「久しぶりだね雨宮君」

「いやぁ、僕がついうっかり口を滑らせたばっかりにこんなことになってしまって……」雨宮は大げさに言った。

「本当ですよ、雨宮刑事」横の白髭の男が口を開いた。「本来であれば、規則によってこういった部外者の立ち入りは許されないんですよ? ましてや見学だなんてのはもってのほかなんですがね」

「その点に関しては、大変申し訳ないと思っております。すべて私の責任です。しかし、この柳教授は理工学部の教授をされている方で、割と専門分野も近いではないですか。私は、この見学が科学界の発展に十分な効果をもたらすと確信しています」転んでもただでは起きない男、雨宮である。

「ええと、この方は?」柳は若干疎外されていたので、むすっとして訊いた。

「あぁ、柳さんごめんなさい僕としたことが……。紹介します。この方が、SILC研究所の所長及びSILC計画総責任者であります……」

「中野重敏と申します。この度は、このような人里離れた山奥なんぞにまで、わざわざご足労頂き、ありがとうございます。スタッフ一同、あなたの訪問を歓迎します」中野所長は、先程の迷惑そうな会話などとうに忘れているかのように、白々しくセリフを吐いた。

 何しろここは、日本国の最重要機密の一つに数えられてもよさそうな施設である。雨宮は限定公開実験と言っていたが、まず、日本にこれだけのILCがすでに建設済みであること自体が世間に公表されていない。確か、リニアコライダーの日本での建設候補地は東北ではなかったか。一介の大学職員では、いくら学会で優れた論文を発表していたところで、政府からのお呼びがかからない限り、この施設の存在自体を検知することは不可能なのである。

 周りを見ると、テレビか何かで見たことのある議員や、ボディーガードをつけている政府の要人と思わしき老人などがちらほらおり、柳はそのとき初めて重々しい雰囲気に包まれていることに気づいた。とてつもなく高い天井であるはずなのに、意外と閉塞感や圧迫感を感じるのはそのためかもしれない。

「実験のほうですけど……、あと一時間ちょっとしましたら、ここにも実験開始のアナウンスが流される予定ですので、どうぞそれまでごゆっくりと見学していてください。私たちが今立っているのはE階と呼ばれておりまして、一つ上が一階、次が二階というふうに番号を割り振っています」

 柳は先程の「二十」という階数の意味がやっと理解できた。一番下のE階を含めると、地上は二十一階ということになる。ヨーロッパでよくある階数の数え方だ。

「一階には休憩室がありますので、どうぞご利用ください」中野所長は淡々と話しつつ、柳の胸ポケットを見た。「喫煙室もそこにありますので、ええ……。当然ながらここは全面禁煙ですのでね」

「それはそれはご丁寧に、どうも」

「では、後ほど」

中野所長は白衣を翻しながら、ゆっくりと立ち去って行った。

「所長はいつもあんな感じですか」

「所長はかなり多忙な御方でございまして……。どうかご無礼をお許し下さい」長谷川は腰を低くして言った。

「そんな、とんでもない。無理を言ってるのはこちらの方ですから、気にしないでください」

「ありがとうございます、先生。おっと、大事なことを私失念するところでございました」そういうと、長谷川はどこからともなく紐のついたカードを取り出した。「このカードを、研究所の中から出るまでずっと、携帯しておいて下さい。エレベータまでの廊下で、私がカードキーを使って幾つもの扉を開けてきたのをご覧になっていたかと思いますが、セキュリティ上、念には念を入れての見学者証明書でございます」

「わかりました。すぐ出せるところに持っておきます」柳は長谷川から見学者証明書を受け取ると、スーツの胸ポケットにしまった。こういった許可証は、まだ子供のころの授業参観を彷彿とさせる。無論(というには、柳は既に結婚を経験しているので少しずれている)、柳には子供がいないが、小学生の頃、生徒の親が入校許可証を首から提げて、教室の後ろのほうから愛するわが子の成長を見届けようと、あわよくばわが子の優れたところを、他の親にも見せつけてやりたいという気持ちを三十パーセントほど顔から漏らしながら、授業を見学するあの行事が嫌で嫌で仕方がなかった。授業参観が心から好きだ、願わくば可能な限り開催してくれと願う純朴で自信に満ち溢れた子供は、おそらくこの地球上を探してもそう数は多くないはずだ。そんな奴は、もともと頭脳明晰で、教科書の内容など一読すればすぐに理解してしまう能力を持った神童であるか、はたまた、それぞれの親が来ていることを良いことに、誰にも気づかれずに悪戯の種をあらかじめセットしておき、他の生徒に恥ずかしい思いをさせようと目論む悪戯の神童かのどちらかだろう、と柳は思った。どちらかというと、なぜだか後者に憧れを抱いていた柳少年であるが、今思えば慣れない悪戯なんかをした日には、顔に笑いが滲み出て、「私がやりました」と言わんばかりだっただろう。

「ほら、柳さん。ぼうっとしてないでもう行きますよ」雨宮がだるそうに急かした。

「え?」

「早くしないとかんかんになっちゃいますって」

「どこに行くの? カンカン?」

「どこって、決まってるじゃないですか。早坂警部補のところですよ」

「そう……」

「あっれ、柳さん、興味ナッシングですか?」

「そういうわけじゃないけどね……、ああ、ごめん。ぼうっとしていたよ。さあ行こうか」

「自分としてはもっと良いリアクションを期待してたんですけど」

「雨宮君が、一人でこんな超重要国家機密の警備をしに来るわけがないだろう」

「あ、確かに」

「建物の警備って普通、団体で行うものだろう? 雑居ビルとか何にもないとこの警備とかは別にしてさ。完全に僕の想像で話しているわけだけど、まあ間違ってはいないと思う。君の上司である美波が来るのは必然なんじゃないかな」

「そうですね……」明らかにしょげた顔で雨宮は答えた。

「で、彼女はどこだい?」

「さっき所長が言ってた休憩室で待ち合わせしてます。行きましょう」雨宮は頭を掻きながら言った。

「柳様。施設のご見学の際は、私に連絡してくだされば、ご解説いたしますので」長谷川はそう言うと、携帯の番号が併記された名刺を渡してきた。

「わかりました。あ、僕の名刺は今ちょっときれてまして……」

「御心配には及びません。柳様のことはほとんど存じ上げておりますので」

「事前に調査されているんですね」

「ご無礼をお許し下さい。上からの命令でして、この研究所に立ち入る人間すべての行っているものなのです……」

「そうでしたか。ちょっとした面会を終えたら、連絡しますね」

 長谷川とはそこで別れ、柳と雨宮は休憩室に向かった。

 エレベータ横に鉄製の螺旋階段が備え付けられており。見上げると、それがずっと天井付近まで続いているのがわかる。きっとメンテナンスの用途も兼ね備えているのだろう、踊り場ごとに階段の左右から足場が気の遠くなるほど伸びていた、というと大げさだが、それぞれ百メートルくらいはあるだろう。ここに来るまでに通ってきた廊下の高さから推測するに、各階の階高はおおよそ五メートルといったところか。階数は二十一だから、天井まで少なくとも百メートルはあることになる。この高さの天井を支えるための巨大なコンクリート造の柱もあちこちに立っている。

カンカンと乾いた音を鳴らしながら、柳と雨宮は非常階段を上がった。自動ドアを通って廊下へと出る。どこの階の廊下も、照明はあまり明るくないらしい。自動ドアをくぐってすぐ右手に引き戸があり、上に休憩室と書かれたプレートが突き出している。

 休憩室は、巨大な地下空間を見渡せる窓ガラスのある、清潔で開放的な空間であった。部屋の中央には窓ガラスの反対側の壁には、ずらりと自動販売機が並んでいる。金額が表示されていないので、無料で飲めるようだ。入り口と面する壁には、奥の喫煙室へと通じる扉がある。コーヒーを片手に休憩室に入ると、美波の後ろ姿が目に入った。

「早坂警部補、ただいま戻りました」

「遅い。所長に伝言しに行くだけでなんでそんな時間かかって……」美波は振り返りざまにそういったものの、柳の姿を見つけて言葉を失った。

「柳さん、連れてきちゃいました」雨宮はいつものにやついた表情で美波を見た。

「久しぶりだね、美波」

「な、なんでここにあなたがいるんですか……。見学者名簿の中にもあなたの名前はなかったはずなのに……」

「あれ? 雨宮君伝えてなかったの?」

「特例的措置ってやつです。僕たち特査の一番上の遠藤警部には許可を取ってあって、早坂さんには秘密にしておいてもらったんです。実際、僕も秘密にはしておいてもらえないだろうなと思ってたんですけど、遠藤警部、ああ見えてなかなか俗っぽいところがあるんですね、そりゃあもうなんていうか、豚もおだてりゃ木に登るといいますか、ノリノリでしたよ」雨宮は至極楽しそうだ。

「君、すっごく失礼なことさらっと言うよね」柳が言う。

「僕なんか言いましたっけ?」

「雨宮君、ちょっとこっち来なさい。柳さん、少し煙草でも吸っててくれますか? ……ええ、あなた結構ヘビースモーカーじゃなかった? どうぞごゆっくり」美波はそう言うと雨宮の背中を押しながら、窓際へと誘った。

「二人とも、仲が良さそうで何よりだね」柳は本心でそう言った。この種のセリフで柳が嫌味を言っていることはまずない。悲しきかな、経験の乏しさがそうさせている。

「柳さん! ちょっと! 助けて下さいよ、僕なんか悪いことしました? ねえ!」

 恐怖におののく雨宮に手を振って、柳は喫煙室の中に入っていった。

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