恋慕の情は空へ溶ける
11
スタッフによるマイクテストを終えて、オープニングアクトのバンドが、自分たちのリハーサルも兼ねて全体のサウンドチェックに入った。照明も不備がないか、色々な光の組み合わせを確かめている。この時ばかりは、普段ふざけて茶化しているやつも、空気をあまり読めないやつも、皆一様に黙り込んで作業を見守る。遠藤は、この瞬間に皆の緊張した表情を垣間見るのが密かな楽しみでもあった。一人ひとりの顔から、演奏をミスれないという緊迫感と、この日のために積み重ねてきた努力に裏打ちされた自信、ライブを成功させようという気概が見えるようで、この瞬間が来るたびに、彼は胸の中で騒ぎ出す高揚感を抑えきれないのだった。ライブ中の楽しさはさることながら、これこそ演奏者側の特権ともいえるような、ライブの醍醐味だ、と遠藤は頬を緩ませた。
遠藤は、大学に入学した当初は軽音楽をやるとはっきりと決めていたわけではなかった。そもそも、彼自身中高において、音楽の授業での評定が著しく悪かったし、木琴や鉄琴など打楽器ならばまだマシなほうで、リコーダーに至っては、きちんと空気の漏れ無く穴を抑えないと、人を小馬鹿にしたような情けない音が出て、この楽器は人に吹いてもらおうという気があるのか、と真面目に無機物に腹を立てたほどだ。今になって思えば、ただの駄々っ子で癇癪持ちみたいな変な奴に思えてとても恥ずかしい。
だが、このような彼の未熟な気質は、彼の中で十分に把握されていた。昔は、感情を露わにすることだけしかできず、何かと嫌われたものだ。そこで、遠藤少年は、ある事象に対する己の感情を表に出さず、それをできるだけ自分の殻の内側に閉じ込めるようになった。平常はにこやかで、優しいといった、間違いなく当たり障りのない態度で人に接するようになる。しかし、感情を出さないのも客観的には気味が悪いらしい。遠藤が大学一年生の時に、語学のクラスが一緒だった女の子と付き合っていた時期があるが、あちらからアプローチされての交際だったにもかかわらず、わずか一ヶ月足らずで振られる結果となった。彼女は、いつも優しいのはいいのだけど、何を考えているのか本当に分からない、というような内容のことを言って去って行ったはずだ。
どうやら、年齢が上がって当たり障りない会話の中で、その人の感情がふっと表面化すると、話を聞いている方は心のどこかで安心するらしい。他人の中にも、言ってしまえば心の闇、深淵、グロテスクな感情を発見することによって、自己を正当化、というより自分は異常ではないんだ、という集団の中に自身を埋没させることができる。それが、一種の親近感、安心感につながっているのだ。これは、彼が四半世紀近く生きてきて得た哲学である。今のところ、そういう思考をすることによって、遠藤は自分を未知の思考からプロテクトしている。
そんなことを、サウンドチェックの暗闇の最中、ふと頭の片隅で考えていると、すぐ近くにいた湊の物憂げな表情が目に留まった。最近、湊らしくない陰鬱な表情を垣間見ることが多い気がしていた。幼い頃から今まで、あまり人前で見せる表情ではないことは遠藤は気づいていた。
湊の隣までそっと近づいて、話しかけた。
「緊張でもしてるの」遠藤は前を見たまま訊く。
「ううん」湊も、こちらを見ずに答えた。「そうじゃないの」
「なんかあった?」
「修ちゃんには言っておかなきゃいけないことかなって思うことがあって」少し声を震わせながら湊が言う。
「え、なに、改まって」突然に申し出に遠藤は湊に顔だけ向けた。
「こないだの玉突き事故あったでしょ。海老名のやつ」
「打ち合わせしてたときに話してたあれね」
「そう……」
「インタビューが奇妙だったのは覚えてる」
「死んだの」
「……え?」
「おばあちゃんがね、死んじゃったの」湊は俯いたまま、言葉をやっと押し出すようにして話し始める。「あの日ね、静岡のおばあちゃんがこっちに遊びに来ることになってたの……。お父さんが静岡に単身赴任してるのは修ちゃんも知ってるでしょ? ちょうど休みが被って、せっかくだから会おうってことになって……。お父さんの車で、こっちに向かう途中におばあちゃんを拾ってから来るはずだったんだよね。おばあちゃんさ、おじいちゃんが死んじゃってから、一人暮らしでさ、一緒に住もうって話も出てたんだけど、おじいちゃんの傍にいてあげるんだって聞かなかったの。実際はおばあちゃんすっごく寂しかったんだと思う。おばあちゃんが来る前に電話で話した時もね、楽しみにしてるのが声色からもう溢れるくらい伝わってきてさ……。柄じゃないけど、たまには手料理でも作っておばあちゃん喜ばせてあげようって思って、その日は朝からいろいろ準備してたんだ……。そしたら、テレビからニュースキャスターの叫ぶような声が聞こえてきて……。心配になって電話しても全然つながらなくって……。もうそこからはあんまり覚えてないんだけど、運転してたお父さんは奇跡的に助かったんだけど、助手席に乗ってたおばあちゃんは即死だったって……」
「そんな……」
「翌日さ、打ち合わせあったじゃない。みんなに個人的なことで迷惑かけるわけにはいかないと思って……」
「俺に相談くらいしてくれてもいいんじゃないの」かける言葉が見つからずに、遠藤の口からは棘のある言葉が出た。
「ごめん」
「一人で背負いこむなよ」
もっと他に言わなきゃいけない言葉があるはずなのに、どうしても出てこない。
湊のことは良く知っているはずなのに、こんな大事な時に限って薄っぺらい言葉しか頭には浮かばないことが、遠藤は恥ずかしかった。
「ごめん」ほとんど音にならないほどの声で湊は言う。
「たまにお前がすごく心配だ」
「……なんで?」
「いつも明るくて、お前がいれば場の雰囲気なんて大抵どうにかなるだろ。後輩からもとことん慕われてるみたいだし。でも、たまにそんな気丈さの陰に……、なんかチラつくんだ。――気のせいかもしれないけど」遠藤は自分が伝えたいことの半分も言語化できていないことに気づいていたが、出てこないものはどうしようもないと思った。それよりも、伝えようとする意志を優先した。
「そうなんだ」
「今だから言うんだけどな、こういうこと恥ずかしいし」
「……うん。でも、あたし……、どうしよう。今日まともにライブできないよ」湊は声を押し殺して泣いている風であった。遠藤にもそれが伝わってくる。
なんと声をかけていいかわからなかった。
こんなに湊の気持ちがわからなくなったのは初めてかもしれない。
ふと、体が斜め下の方向へ、ごく微弱な加速度を感じた。
見ると、遠藤のシャツの袖口を、湊が引っ張っている。本当に、手首の力だけで引っ張られている。
そこに、湊の躊躇が見えた気がした。
陰。影。翳り。
彼女は今、何を考えたのだろう。
彼女は今、何を抱えているのだろう。
今の俺にできること――。
PAの合図とともに、リハーサルが始まった。それまで雑談していた部員たちも、一斉にステージのほうへと顔を向ける。
爆音ですべてがかき消された。
日常が。
雑念が。
些事が。
すべて逆方向へのベクトルに切り替わる。
非日常へと還っていく。
横を向くと、俯く湊の奥にいる片瀬と一瞬目が合った。
憤ったような、それでいて悲しげな表情であった。
あいつも、今何を思っているのだろう。
わからない。何も。
遠藤は、すぐ目線を前に戻し、リハーサルを見ることに集中した。
意識の半分以上が、袖口に向いていることは無視した。
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