結んで開いて

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 一週間後の日曜日、すなわち遠藤たちの所属している軽音楽サークル『Coda』の夏季定期演奏会、通称夏定が行われる日が訪れた。『Coda』では毎年夏定と冬定という定期演奏会を横浜のレコーディングスタジオの一番大きい部屋を貸し切ってライブを開催している。以前は、他のサークルのように合宿を行っていた時期もあったそうだが、今はサークルの規模の縮小に伴い、夏定と冬定に部員の関心が移っていった。部員は個性派ぞろいで、他にも趣味を腐るほど持っていたりするので、単に金欠が災いして合宿に参加できない、と話すものもいる。遠藤にしても、友人に影響されてロードバイクを買ってしまった手前、細々とであるがサイクリングを楽しんでいる。

 その日は朝からライブの設営準備に部員が駆り出されていた。一限が始まる一時間前にはスタジオに集合しており、こういう行事になると起きて来れるのに、どうして授業には出て来れないのだろうか、という日本中、いや、世界中の大学生が考えを巡らしたかもしれない至上の命題が、やはり彼らの頭の上にもぷかぷかと漂っているようだった。変にテンションが上がっているせいか、単に寝不足のせいか、部員たちは妙に浮き足立って見える。照明道具や機材を運ぶ足取りも、どこか軽快過ぎる。遠藤は、そんな部員たちの状態を見て、気を引き締めた。少し、注意したほうが良いだろうか。

 ドラムセットおよび各アンプと返しと呼ばれる演奏者用のスピーカー等々の搬入が終了し、PA卓や照明卓から電源供給用のコードをはじめ、様々なコードが床に張り巡らされ始めた。機材担当の部員がスタジオのスタッフと打ち合わせをしている。早くも一番最初のバンドのセッティングが始まり、照明もある程度の暗さまで落とされた。やっとライブっぽさが出てきたなと遠藤は思った。

 スタジオ受付のすぐ横にあったラウンジで部員の何人かが煙草を吸っていたのを見つけたので、そちらまで歩いて行った。寝癖で髪がぼさぼさな片瀬の姿も見える。

「おはよう、拓哉」遠藤は煙草に火をつけて一息ついた。

「おう」片瀬は振り向きざまに応えた。「一年生、まだぎこちなさ抜けてねえよな。なんつーか、まだお互いに探ってる……みたいなさ」

「それは俺も思ってた。この時期だったらそろそろ馴染んできてもいいころだとは思うんだけどね」

「俺たちの頃はどうだったっけ?」片瀬はまだ眠そうにしている。

「確か……、そうだな……。あ、ほら、八月の前半に泊まりで熱海に行ったじゃん? あれ以降割と打ち解けたと思うんだけど」

「あー……。熱かった印象しかないわ」

「合宿がないのも寂しいって話になって、一、二年で急遽開催されたやつだよ」

「お前としゃべるようになったのもあれが初めてだったかな」ようやく寝癖に気が付いて、片瀬は頭を掻いている。「誰が言い出したんだっけ?そんなこと」

「あれ企画したの俺なんだよ?」話を聞いていた同期の倉持が会話に入ってきた。

「おはよ。お前そういうキャラだったっけ?」片瀬が訊く。

「んー。あの頃はみんなと仲良くなりたくって必至だったみたいなとこあったからねー」倉持は喫煙者ではないが煙は平気らしく、三人で下級生の準備を見守る格好となった。

「てっきり片瀬が暇持て余しすぎて発案したもんだと思ってた」遠藤は灰皿で煙草の火を消しながら言った。

「お前は俺をなんだと思ってるんだ」

「器用なヤンキー」

「かっこわるいね、それ」

「そんなボロクソ言うなよ……」片瀬は再び新しい煙草に火をつけながら言った。

「一年のこの時期くらいにこんなこと言ってたらそれこそぶん殴られそうだよな」

「片瀬はずいぶんと丸くなったよねぇ、ほんとうに」倉持は腕組みしながら呟いた。「アルマジロみたい」

「アルマジロ?」細く煙を吐きながら片瀬が訊く。

「うまいのかうまくないのか」遠藤が呟く。

「敵に遭遇するとアルマジロって丸くなるじゃない。あれも防衛機能の一つだけど、片瀬の硬い防御そっくりだし。あ、底が知れないって意味ね。それに寝てばかりなのも似てるし、穴掘っちゃうから害獣として認知されることもあるらしいし。つくづく似てると思うな」倉持はからっとした笑顔を見せた。

「お前そういうの専攻してたっけ、動物とか」

「いや」倉持は即答した。「そもそもうちに医学部はあっても獣医学部はないし」

「ナショナルジオグラフィックとか?」遠藤が訊く。

「まあ、そんなとこ」

「いちいちよく覚えてるな。俺ああいうの見てもへぇーってなってそのあとすぐ忘れちゃうわ」

「意識してないからじゃない?」倉持が眉を寄せて指摘する。

「というよりあんまり真剣に聞いてないんだと思うけど」遠藤も便乗した。

「どういうこと?」

「だって今の倉持の例え話で特に怒りもしなかったし。俺なら少し怒ってるよ」

「鈍感なんじゃない? もちろんいい意味でね」

「なんかすっきりしねえな」

「鈍感さがちょうどいい具合だと、コミュニケーションがうまく取れるんじゃないかな。俊敏すぎても周りの鈍重さに疲れちゃうし、鈍すぎても周りにストレスを与えることにもなる」

「ライブ前にしては高尚な話題だな」片瀬は変に納得している風だ。

「いや、あほだろ」遠藤がすかさず訂正する。

「おっ、女性陣のお出ましだ」倉持が、喫煙所とは反対側に目を向けて言った。

 遠藤と片瀬も振り返ってそちらを見る。重厚感のある二重の防音扉が開かれて、女子が何人か入ってきたところだった。湊や日向子の姿もある。

「女子もおめかしが整ったみたいだし、そろそろ準備してくるよん」倉持はそう声をかけて女子と入れ替わりでスタジオを出ていった。おそらく、チューニングやエフェクターなどの確認に控室に向かったのだろう。

「あいつモテそうだよな」ふと、片瀬が呟く。

「同感。俺たちにはないムードっていうか独自の雰囲気みたいなものを持ってるよな」遠藤は正直に思ったことを言った。

 遠藤と片瀬は、スタジオの一番端っこにある喫煙所から離れて、観客のためのフロアへと移動した。

 湊はキャミソールにカーディガンを羽織り、下は七分丈のジーパンというラフなスタイルだ。日向子は薄ピンクのワンピースを着ている。お気に入りなのか、この前の打ち合わせの時の色違いのようだ。とても可愛らしい。

「おはよーございます。今日はとってもライブ日和だね」湊は背負っていたバッグをスタジオの片隅に降ろすと、そう言って笑った。

「まあ晴れてよかったよな。雨だと機材持ってくるのすごい手間だし」遠藤が頷く。

「傘ってすごく原始的なのに、未だに雨具として使われてるってあたしすごいと思うな。もっとこう、画期的な雨具って開発されてもいい頃じゃない?」

「たとえば?」片瀬が面白そうに訊く。

「うーん……そうね……」湊は少し俯いてから、「透明な卵みたいな膜の中に入って、歩けるようなの……とか?」

「どうなってんのそれ」遠藤が呆れ顔でいう。

「ガチャガチャのカプセルみたいにさ、プラスチックでもなんでもいいけど、その中に入って歩けるんだよ! ほら、水面に浮いてる透明なボールの中で遊べるアトラクションあるでしょ? あんな感じで」湊はどうやら考えながら話しているらしい。

「呼吸するのに穴開けなきゃいけなかったり、歩行の安定性確保しないといけないし、というか何より雨の日にそんなのが町中を転がってたら、邪魔で仕方ない」

「家から出なければいいのでは」日向子がぼそっと呟いた。

「日向子ちゃん、それ本末転倒」

「あ、わかった」片瀬が目を見開いて言う。「今の傘の問題点ていうのはよ、要するに全身を雨から守り切れないってとこにあるんだよな。上半身は守れても、横殴りの雨に対しては、下半身は防御できない。傘以外の雨具もあるけれど、雨合羽とかは見た目がダサいし、着脱も容易じゃない。そこでだ、傘を思い切って機械仕掛けにするんだよ。多少重くなるのは仕方ないから、斜め掛けみたいにするか、柄の部分を伸縮自在にして、杖みたいに地面をつけるようにしてもいい。肝心の機械仕掛けだけど、傘の一番外側、つまり多角形とみなした時の辺にあたる部分だな。ここに空気を出すためのスリットを入れる。現状の生地の部分を二重構造にする。空気は傘の柄の部分に微小な穴を幾つも開けておいて、そこから取り込めるようにする。すべての辺から空気を放射状に排出できるようにすれば、足元も濡れないんじゃないか?」

「おお……割といけそう」湊は完全に面喰っている。

「空気のバリアを作るわけだな」遠藤が補足する。

「それだと、とてもじゃないですけど重すぎませんか?」今まで黙っていた日向子が初めて口を開いた。

「杖みたいにして支えるのじゃ不十分か」

「機動性がなさすぎます」

「杖の先端を小さい車輪にすりゃいい」

「階段はどうするんですか?」

「ああ……そうか。えーっと……、車軸の手前あたりに、スプリングを仕込んでおくってのはどうだい日向子ちゃん」

「なんだか滑稽ですね」

「だめだこりゃ」片瀬は両手を挙げて降参した。

「日向子ちゃんって、意外といろいろ考えてるんだね」湊が感心したように言う。

「意外って失礼ですよ、湊さん」

「ごめんごめん、そういう意味じゃなくて」湊は苦笑しながら言った。「普段からあんまりしゃべらない印象あるけど、必要がないからそうしているだけなんだなあと思って」

「いえ、単に人付き合いが苦手なだけです」そういうと日向子はステージのほうを所在無げに見つめた。ほとんど機材のセッティングなどの準備は終了していた。

 遠藤は、やはりこのどこか掴みどころのない、大気のような女の子に惹かれている自分を意識せざるを得なかった。人の目に触れるには、この子はいささか魅力的すぎる、と思う自分は何様なのだろうと遠藤は自嘲気味に一人笑った。

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