影は濃く伸びて

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 柳の運転するミニクーパーがアスファルトをこすり続けること約二時間。周囲の景色はその間ずっと、のっぺりとした緑に覆いつくされていた。木々が緑に何度も塗り替えられていく。多少の濃淡は見受けられるものの、夏の日差しで繁茂した木々たちは未だに枯れていく気配がない。窓の外をずっと見ていると、木々が重なって遠くまで続いている瞬間があることがわかる。おそらく、計画的に植林された人工林なのであろう。その人工的な隙間を埋めるように、雑草がところどころに顔を覗かせる。かつての自然と見分けがつくものだろうか。見分けができるのは人間だけで、他の動植物にとっては何も変わらない、むしろ、見分ける必要性すらないのかもしれない。

 九月の最終週、即ち、すでに夏休みは過去の栄光に帰し、絶望の仮面を顔に張り付けた学生たちが、モラトリアムの監獄たる校舎に戻ってくる時期である。だいたいの講義において、初週の出席率が異常に悪いのも無理はない。いっそのこと十月の初めからにしてくれれば、学生の意欲もまだ保たれることであろう。

 その日曜日、柳は、結局ゼミ生たちすら引き連れてくることなしに、SILC研究所へとやってきた。SILC研究所は、栄海原市と丹沢山系の間、かろうじてアスファルトで舗装されている道路を、いろは坂のごとくうねうねと辿って行った先に位置する、加速器研究機構である。茨城県にも加速器研究機構は存在するが、ILCの国内初の運用実験ができる大型の研究施設は、今回のSILC研究所が初めてであった。大型ハドロン衝突型加速器は、現在CERNが所有しているものが世界最大級であり、各国の研究機構がプロジェクトごとに参加して使用している状況である。このILCの建造には莫大な資金が投じられ、国に限らず諸外国よりも一歩先に進んでいるアドバンテージを獲得するために協賛している企業も多くあるそうだ。ちなみにこの機関の創立は世間には発表されておらず、ILC自体もも丹沢山系の地中に埋められているため、航空写真では見つけることが不可能となっている。空から観察しても、ただ青い山の中にぽつんと打ちっぱなしのコンクリート造の建物が佇んでいるのが知れる程度である。

 そんな極秘機関の稼働実験公開の情報が柳准教授のもとにもたらされたのは、何故か。

 それはひとえに雨宮刑事のボロが出たというだけのことである。

 柳と雨宮の偶然にして運命的な邂逅ののち、彼らは割と頻繁に語り合うようになっていた。早坂美波にとってはとてつもない迷惑であるが、当の柳や雨宮たちはそんなことにはお構いなしといった風で、どちらかが暇を見つけては、行きつけのBARに単身乗り込み、そこでばったり会うことができれば、今日あったことについてへべれけになりながら愚痴りあうのであった。ばったりといっても両者にとって行きつけの店であるので、特に偶然性は見出すことはできないのであるが、そこはご愛嬌ということらしい。年齢は柳のほうが断然年上であるけれど、そういう些末な上下関係を気にしない柳と、誰にでも取っつきやすい性格の持ち主である雨宮の、異様なコンビネーションにより実現した関係であった。他の者では成し得ない風変わりな二人である。

 雨宮がマシンガンの如く愚痴やら何やらわからない罵詈雑言の類を並べているところから、柳はこの極秘情報を引き出した。セキュリティソフトがインストールされていない雨宮の口からは、およそ次のようなことが解読できた。

 九月の末に極秘裏に行われるILC稼働実験を執り行うに当たって、厳重な警備体制が敷かれることになった。勿論、稼働実験と公表しての警備はできないので、この研究所に通じる主要な道路は大体が交通事故や下水道の工事、崖崩れ防止のための吹付工等が行われる体で、実質的な交通規制を実施する予定であるそうだ。そこで、私服警官が警備にあたり、一般人の立ち入りを禁止する。ILCの範囲内への一般人立ち入りを全面的に止めることは、ほぼ不可能であると当然予想されるので、研究所がある丹沢山地の山道周辺はできる限り封鎖されるらしい。

 一応肩書き上は捜査一課であるはずなのに、こんな辺鄙なところの、しかも一般人はとても興味を持たなさそうな研究所の警備に回されるとは一体全体何事か。雨宮の愚痴の九十パーセント以上をこの件に関しての不満が占めている。

 柳は心底可哀想だと言うふうに、紙切れのような同情を寄せるほかなかった。

 そんなことだから、本来ならば姪の日向子とて誘うなど言語道断なのだが、柳の頭のセキュリティも相当怠けていることは明らかである。

 車は繁茂の間隙を滑るようにして山奥へとひた走った。途中、本当に吹付工を行っている箇所があったものの、やはり一回車を止められた。研究目的で来た旨と雨宮刑事には話が通っていることを伝え、事前に受け取っていた見学許可書を見せると、警備員は無線連絡を行った後、すんなりと通してくれた。

 公道から逸れて砂利が敷き詰められた私道を低速で流していく。左右の木々が頭上に覆いかぶさるようにして背を伸ばしている。まるでトンネルの中を走っているよう、というより柳は、卒業生を送り出すときに、通路を挟んだ二人がトンネルを作っている様子を思い浮かべた。あれは自分が卒業生になって初めてわかったことであるが、中々の公開処刑である。

 木々のトンネルは直射日光がさえぎられて、地面には雑草の類はあまり生えていない。逞しい幹の林を五分ほど走ったのちに、急に視界が開けて明るくなるところがあった。無事に研究所に着いたようである。

 敷地内には、といってもどこからが研究所の敷地かを明確にする門や塀があるわけではないが、一軒家の住宅ほどの大きさのコンクリート造の建物と、その周辺に駐車場が広がっているだけであった。とても、大量の資金が注ぎ込まれているとは思えない作りである。

 柳は車を降りると、煙草に火をつけて一服した。山奥なので、地上よりかは幾分涼しく感じた。空気が澄んでいるところで吸う煙草は格別だ。柳には室内の煙い喫煙所で一服する気にはなれない人種であった。勘違いされがちであるが、喫煙者にとっても副流煙は大抵嫌なものなのだ、という持論を柳は持っていた。身内の人間であればまだ許容範囲は広がるところであるが、赤の他人ともなると論外と言っていいほどである。それ故に、携帯灰皿は常に持ち歩いている。新鮮な空気を煙草で汚しているじゃないか、という意見が飛んできそうだが、そのあたりは自然の浄化作用に全幅の信頼を置いている柳である。

 煙草を一本消費しないうちに、建物の中から一人出てくる者がいた。こちらへ向かってくるのでどうやら案内をしてくれる者なのかもしれない。

「どうも、ようこそおいで下さいました」初老の紳士が声をかけてきた。研究所にはあまり適合していないように思える。

「おはようございます」

「柳仁志准教授でいらっしゃいますね?」

「ええ」

「お会いできて光栄です。わたくしはこの研究所の警備員兼給仕人の長谷川と申します。どうぞこちらへ」そう言って長谷川は一礼すると、くるりと向きを変えて建物のほうへと歩き出した。

 警備員はまだいいとしても、給仕人とはなんとレトロな職業だろうか。いまどきそのような職業が現存していることに驚きを感じた。ここの外装が西洋の古城のようであればまだ頷けるものの、コンクリート打ちっぱなしの、しかも研究所である。一度人事部と直接お話をしてみたいものだと思いつつ、柳は長谷川の後を追って建物の中に入った。

 内部は外装とは打って変わって、とても豪華な装飾で満たされていた。受付らしいものは全く見当たらず、人の姿も見えない。床は深紅の絨毯で一面覆われており、頭上には豪華絢爛なシャンデリアが威厳たっぷりに吊るされている。窓はそのほとんどにカラフルなステンドグラスがはめ込まれており、どこか教会のような雰囲気を醸し出すのに一役も二役も買っている。この虚構のような装飾は一体誰の設計によるものなのだろう。西洋建築にも造詣の深い研究者でもいるのだろうか。少なくとも研究所、しかも加速器研究所の内部がこのような派手な構造をしている必要性は、限りなくゼロに近い。

 柳たちが入ってきた入り口の丁度正面二十メートルほどのところに、禍々しい蝶番が施された木製の扉が確認できた。長谷川が何の迷いもなくその重厚な扉の前まで歩いていくと、こちらに向き直って話し始めた。

「柳様、これより私たちは国家的な極秘プロジェクトを実行する施設内へと立ち入ります。あなた様がそこで見たこと、聞いたこと、実際に感じたことというのは、公式の記録には一切が記されないものとなります。ですので、実験以後、この件に関わったがために何か万が一柳様に不利益が生じることになったとしても、わたくしどもは手を差し伸べることすらできません。この忠告は研究所に立ち入られる皆様に対して行っているものですので、その点をどうかご了承下さい」

 長谷川はそう言い放つと、扉の前でじっと動かず人形のようになってしまった。柳の返答を待っているのであろう。

 ここまで場所を教えておいて今更こんな重大な忠告をするなんてなんと無礼な、とまでは柳は感じなかったが、そんなことよりも早く中がどうなっているのかという興味のほうが優先されていたので、二秒後には即答した。

「行きましょう」

 長谷川は、体の石化を一瞬で解いたようににっこりと頷き、扉を開けた。

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