板挟み

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 一定のBPMを保ってタンタン、と靴が床にあたる音が室内に響いている。

 伊勢佐木町の一件から一週間が経過しようとしていた。

 美波は自分のお気に入りのロック・ミュージックを脳内で再生しながら書類を整理していた。貧乏ゆすりではないが、観測する側からすれば、彼女がイライラしているように見えるだろう。雨宮がこれを平民揺すりとひそかに呼んでいることを美波は知っていた。どうせ、平民からも強請って金を取るようなきつい性格、だとかを揶揄しているつもりなのだろうが、今はもう気になりもしなかった。

 特査が会議室兼仕事場として使用している部屋では、すでにホワイトボードに関係資料がぎっしりと貼り付けられており、雨宮や伊勢崎のデスクにも書類の束が積み重なっていた。それは、捜査一課の大部屋の隣に位置するこの部屋に、頻繁に追加の資料が届けられるせいであった。

 伊勢佐木町で発見された死体の司法解剖が終わり、雨宮がその概要を説明した。刺し傷が認められたものの、脳内に不審な内出血が確認されたという内容で、美波としては、あまりそのことについて気にしていなかった。

 というのも、ここ一週間、同じような状態で遺体が発見されるということがすでに八件も報告されていた。美波たち特査は、この事件の類似性を重大視し、これ以上件数が増えるようであれば、特別捜査本部の設置を捜査一課に具申する腹積もりであった。

 だが依然として、どの事件に関しても犯人に繋がるような物的証拠は現場には残されておらず、また殺害方法もまちまちであり、唯一の類似点と言えば、被害者全員が既婚未婚を問わず一人暮らしをしているということだけだった。

 雨宮のパソコンからメールを受信したことを知らせるメロディが流れる。

「あ、また小倉さんからだ」雨宮は溜息を洩らした。

「司法解剖の結果?」美波が訊く。

「えーと……、ああ、そうですね」雨宮が目を細めて言う。「直近の、川崎と厚木、鎌倉の三件についても、最初の被害者同様、脳内に出血があるそうですよ」

「小倉さん、ついに呼び出してこなくなりましたね」伊勢崎が一瞬顔をこちらに向けて言う。

「そうだねえ。検死報告書等々の書類は、あとで届けさせるので少々お待ちください――か」

「毎回こんなんで呼び出されてたらこっちが回らなくなるわ」美波はすでに平民ゆすり、もとい貧乏ゆすりをやめて自分のPCに向き合っている。

「今日は早坂先輩休み取るって言ってませんでした?」伊勢崎が思い出したように言った。

「そのはずだったんだが、ここまで書類が溜まってたら、片づけないわけにもいかないだろう。私は一応お前たちの上司だ」

「模範的行動でとてもいいと思います。尊敬します」雨宮は不敵な笑みを浮かべて言う。

「お前はそういう態度を改善しないと友達無くすな、いずれ」

「そうですよ雨宮先輩。女性には優しくしなくちゃですよ」無邪気に伊勢崎が笑う。

「目下検討中です」雨宮は作成中の資料から目を離して答えた。

 柳仁志准教授は、早坂美波の元恋人である。この事実を知っている人物はそう多くない。警察の中でも誰にも喋ったことはないのだ。美波に過去の色恋にそこまで執着する性質は備わっていないので、本来であれば、元カレのことをどう言われようと、どこ吹く風といった感じなのだ。なのにこの雨宮に言われると無性に腹が立ってくる。彼からすれば、美波のような少し取っつきにくい女上司と打ち解けるための手段に過ぎないのかもしれないが、それもこれも、雨宮と柳が出会ってしまったことがいけないのだ。

 雨宮は仕事からの帰り、M大学近くのBARで一人酒を煽っていた。そこは雨宮が大学時代からせっせと通い詰めていたBARで、マスターともよく話をするようになっていた。その日もカウンターでマスターに警察の組織についての愚痴を散々喋っていたところ、隣に座っていた男が声をかけてきた。

「すみません。ぶしつけですが、警察の方ですか?」男が控えめに訊いた。

「ええ、まあ……、そんなところです」アルコールが回っていたからか、雨宮は正直に言った。

「というと、神奈川県警の?」

「そうなりますね。何か?」

「いえ、以前県警の方と少し関係があったもので」柳もだいぶ酔っていた。通常であれば自分の周りのことはあまり話さない人物である。

「関係っていうと、ご家族とか? あ、でもいま過去形でしたっけ」

「まあその、いわゆる恋人と申しますか」柳は、察しの良い雨宮に恥ずかしそうに言った。

 なんとも奇妙な邂逅のあと、柳が昔交際していたのが早坂美波であること、雨宮が今現在美波の部下であること、この二つの情報が滑らかに共有された。年こそ離れていたが、雨宮の人懐っこい性格と酔いの力も相まって、二人はすぐに打ち解けた。

 そんな、美波にとっては考えうる限り最悪な出会いが偶然にも生まれてしまったわけである。

 職場にプライベートなことを持ち込みたくない美波は、ひょんなことで雨宮に弱みを知られてしまった。それが、ここ一年程からの雨宮の態度に表れている。しかし、雨宮もただ個人的に楽しんでいるだけのようで、警察関係者には一切そのことを話していないらしい。そのせいで、逆に怒るに怒れない雰囲気になってしまった。仕事だけでもストレスがたまるのに、美波としては目の上にたんこぶができた感じだった。

 これからのことが全く予想できない。

 一連の殺人事件にしてもいまいち腑に落ちない点がある。

 解決するのだろうか。

 柳仁志とのこともある。

 雨宮のせいだが、ここ最近になって急に柳とかかわりそうになる機会が増えたように思える。こっちは必死に忘れよう忘れようと努力しているのに、当の本人はどこ吹く風だ。

 これもまた、解決すべき一つのことだろう。

 人は変化を望まない。

 少なくとも、望む傾向にはない。そこには、苦労が付きものだから。

 美波は、特に、苦労を嫌がっているわけではない。

 本当に?

 どうしたい?

 どうなりたい?

 このまま、何か、自分の手の及ばぬところで、解決されればいい。

 あまりにも傲慢な思考が浮かび上がってきたところで、美波は脳内回線をシャットダウンした。己の醜悪さが表出し始めていたので、とにかく落ち着きたかった。美波はPCをスリープ状態にしてから、部屋の隅に置かれている灰皿へと移動して煙草に火をつけた。

「美波さんなんか変じゃない? 最近」雨宮が隣のデスクの伊勢崎に小声で訊く。

「最近目に見えてイライラしてるというか……。そんな感じですよね」伊勢崎も無声音で応じる。

「そんなストレスフルな顔してる美波さんもまた素敵だよな」雨宮は少しにやついて言う。

「ちょっと……、聞こえますよ」伊勢崎はは目線だけで美波のほうを伺うと、ばっちり目が合ってしまった。「こっち見てますって! 雨宮さん仕事仕事」

「はいはい」雨宮も頷きながら美波のほうをちらと見たが、彼女はすでに窓から外の景色を眺めていた。どこか、その横顔が悲しげに見えた気がした。

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