天才の片鱗
7
柳仁志准教授は、午前十一時ジャストに自宅で目を覚ました。柳の背丈には多少不釣り合いな、小さめのベッドから抜け出ると、部屋のカーテンを開けてからキッチンへ行き、やかんに浄水を注ぎ込む。ガスコンロに火をつけたあと、洗面所に行き、洗顔と口内洗浄を同時に済ませる。ちょうどそれが終わるころには、やかんに入れた水が沸騰する頃合いで、冷めないうちにインスタントコーヒーを淹れる。ミルクと砂糖をたっぷり入れカフェオレに変化させる。尋常ではなく甘ったるいカフェオレを飲みながら、煙草に火をつける。ここまでの一連の流れを行うことが、柳にとっての目覚めであった。なので、正確には、柳が瞼を開けたのは、午前十時五十五分である。
柳は朝にめっぽう弱い。およそ、健康的と称される一般人が起床するであろう時刻には、まだ遠く夢の中にいる。生まれてから大学院生までは、何とか健康的な時間(柳にとっては不健康な時間である)に起床することができていたが、大学院を卒業し、そのままM大学の理工学部の助手になってからというもの、手伝っていた准教授の影響も相まって、柳自身が准教授になった今でも、基本的に起床するのは午前十一時である。
担当している講義がすべて午後からであるということと、柳が居を構えているワンルームマンションが大学から車で二十分ほどであるという比較的恵まれた立地が、それを可能にしている。遅くまで夜更かししているせいで、朝起きれないというわけではなく、きちんと夜一時には就寝しているのであるが、朝七時なんかに起きてみると、その日一日が丸つぶれになるような睡魔が断続的に訪れ、とてもではないが仕事にならないのであった。柳自身、この体質で一時期悩んだこともないではないが、早々にこの体質を受け入れ、自分の限られた稼働時間内で作業効率を高めることに努めた。その結果、三十五歳の若さにして、准教授の職に就くことができたのかもしれない。
M大学の授業開始日は、ちょうど一週間後の月曜日。柳はこの日、というより、夏休み中も大抵は大学の研究室に行って論文を書いていたり、受け持っているゼミの実験の監督などをして過ごしていた。夏休み中に実験をしている学生たちは、そのほとんどが大学院進学を進路希望先として第一候補に掲げており、大学院入試において少しでも知識をつけておきたい、といった感じで、例年熱心に取り組む姿勢が見受けられる。この点において、柳は、昨今の大学が就職予備校と化しているという揶揄を切り捨てることができた。
確かに、文系学部においては、その傾向は完全には否定はできないであろう。三年生になった途端、今まで遊び呆けていた連中でさえも、ちらほら企業へのインターンシップに参加したりして、全身真っ黒のリクルートスーツを身にまとい、その表情はさながら死地に赴く兵士のようでもある。その様相は四年生になると本格的に学年に広がり、新卒のカードを失うまいと、皆が躍起になる。これは、もはや現在の日本の社会構造的には根本的には変えるこのできないシステムで、このシステムに適合しないものは言ってしまえば社会からドロップアウトを要請されるわけだ。柳は、このシステムの是非については特に意見があるわけではないが、あの忌々しいリクルートスーツを着てなるものか、という大変わがままでかつ崇高な理由で、大学院進学を決めたのだった。
たとえ、きちんと就職活動をして会社に入ったところで、朝起きることがままならないのだから、そういった身体的な理由でも院進学を選んで正解であったのだろう、と柳はカフェオレを飲みながら思った。いつまでも成長は望み薄である。
今日もいつも通りのスケジュールで大学に行く予定であったが、柳のカレンダーには予定が一つ追加されていた。柳の従妹はM大学に通っていて、今日はちょうど図書館に用があって大学に出てくるから、もし柳が大学にいるなら久々に話がしたいということで、一時から三十分ほどの時間を取れるように、昨日のうちから、学会に提出する書類をおおかたまとめておいたのだった。
シャワーを軽く浴びてから、真っ白なシャツに袖を通し、ベージュのパンツを合わせる。柳はいつもこういったカジュアルスーツスタイルで出勤している。かっちりしたスーツスタイルがあまり好きではないので、自然とこの格好に落ち着いた。服を選ぶ時間を割きたくなかった柳は、普段着もほとんど変わらない。
一通りの身支度を終えて壁掛け時計を一瞥する。午前十一時四十分。柳はマンションを出ると、すぐ近くの月極駐車場に停めてあるダークグレーのインプレッサに乗り込んだ。
大学までは、自宅前を伸びる環状線をひたすら二十分車を走らせればついてしまう。カーステレオからは、今はやりのポップスやアイドルソングが流れていたり、交通情報やニュースをパーソナリティーが伝えている。柳にとっての主なメディアは、昔からラジオである。映像で情報を伝えられない分、そこから出てくる情報には、聞き手に伝えるべきものを伝えようという工夫が感じられる。それと、耳だけしか塞がれないので、とても効率の良いメディアだと柳は常々思っている。
ほとんど信号に引っかかることもなく大学に到着すると、理系学部が集まる東側の区画の駐車場に車を停めた。夏休みであるので、本来はちょうど二時限目が終わり、キャンパス内が学生でごった返す時間帯だが、学年歴的にはまだ夏休みなので、人影は少なかった。
学内にある林の中を抜ける小径を通り、少し薄暗い研究室棟にたどり着く。柳の研究室に行くまでの廊下には、各々の部屋からの明かりが漏れている。
柳はふと、自分の研究室の前に小柄な女性が立っているのに気付いた。
「仁志さん、おはようございます」日向子は深々とお辞儀をした。
「やあ林くん、おはよう」柳は手を挙げて答える。「約束は一時じゃなかったかな?」
「はい、一時で合っていますよ。図書館での用が早く片付いたので、ここで待ってました」
「今日はそれほど忙しいわけでもないからね。いいよ、入って」柳は研究室のドアの鍵を開けて、日向子を部屋の中に通した。今でも研究室の鍵はアナログである。
「それにしても、林くんっていうのはちょっとないんじゃないですか? 昔はあんなに名前で呼んでたのに」日向子は目を細めて柳を見た。来客用のソファを置けるほど研究室は広くはないので、二つあるうちの少し小さめのデスクチェアに日向子はちょこんと座っている。
「流石にこの年になってまで、年頃の女の子を下の名前じゃ呼べないよ」柳は苦笑しながら言った。「しかも大学内じゃ余計にね」
「それは認めます。でしたら、せめて年頃の女の子に、コーヒーの一杯でも出してくれると、仁志さんの誠意が形になって見えるんじゃないでしょうか? 先生」
「君には敵わないな」柳はコーヒーメーカーに水をセットした。「で、何か用でもあったの?」
「いえ、特に用はありませんよ。ほんとに、気まぐれです。ここに来ようと思ったのは」
「君のことだから何か相談でもあるのかと思ってたけど、見当違いだったか」柳はすでに机の上に出していた煙草に火をつける。今日四本目の煙草である。
「そうなります」
「へえ」柳は美味そうに煙草を吸いながら、無関心を装った。「じゃあ僕のほうからデートのお誘いでもしようかな」柳は待ち合わせの目的を話し始めた。
「デート?」日向子は目をぱちくりさせている。
「今月末の日曜日に、丹沢で大規模な加速器の運用公開試験があるんだ。LHCっていうのを、日本語で大型ハドロン衝突型加速器って言うんだけど、陽子線っていう、水素の原子核である陽子を加速させたビームを正面から衝突させて、極めて高エネルギー下での素粒子反応を見ることができる代物なんだ。ほら、CERNが世界一巨大なLHCを持っているでしょ? よく大きさを山手線と比較されるやつね。今度丹沢の地下にできたLHCは円形じゃなくて直線なんだ。ILCってやつで、日本で実験ができるっていうのがやっぱり何よりの利点だと思うんだ。CERNで行っているプロジェクトのほうはそのままあっちで継続して、こっちは国内の機関として独立してやるんだそうで、これから、ほかの国でも続々と国内用のLHC、ILCが作られる。なかなか面白そうだろう? 僕が話をつければ一般人でも見学できるだろうから、良かったら一緒にどうかな? 一生のうちそうそうこんな経験できることなんてないと思うよ」
コーヒーメーカーのドリップが終わったので、柳は二人分のコーヒーを淹れた。小さい冷蔵庫から牛乳とシロップを取り出して、自分の分はカフェオレにする。
「月末の日曜日ですか」日向子は俯いて考えている。
「都合が悪いかな」柳はコーヒーを日向子に手渡して言った。
「サークル定期ライブがちょうどその日にあるっていうことを抜きにしても、絶対に世間の女の子は行かないと思いますよ」日向子は熱いコーヒーをちびちび飲んでいる。
「僕のことが苦手とかそういう理由かな」
「苦手だったらここにわざわざ来ないでしょう」
「うーん……。まだ残暑が厳しいから?」
「そんなんだから、結婚できないんですよ。先生」
「どういうこと?」柳は本気でわかっていない様子で首を傾げている。「君の言うことはたまにひどく難しい」
「仁志さんには知の偏りが見られます」
「そりゃ、専門家だからね。それぞれの分野にはそれぞれの専門家がいる。万物に通じるには人生は短すぎる」
「話聞いてます……?」相変わらずの柳に苦笑してしまう日向子である。
日向子は柳の従妹にあたる。日向子の母親、幸子は、柳家の三姉妹の一番下であり、順当に三番目に結婚した。父親は市役所の職員であり、行政事務を生業としている。公務員は勤め先によって残業の有無などが異なるが、日向子の父の職場はゆったりとしているようだ。休日は専ら趣味の読書に当てている。柳家の二番目の娘である智子は、大学時代に知り合った男性と若くして結婚、その一人息子がM大学准教授柳仁志である。母親の姓を受け継ぐというのは、その頃ではまだ珍しかったものの、夫の山田哲也が、自らのありふれた姓に辟易していたことが、柳の姓を継いだ要因の一つである。役所に提出した婚姻届けの世帯主は、柳智子になっている。
「それに、文系の私を連れて行ったところでお話にならないと思いますよ。それこそゼミ生の皆さんと一緒に行けばいいじゃないですか」
「君の意見はいつも正しい」
「ありがとうございます。ほかに用がないなら、このまま帰りますね」日向子は飲み干したコーヒーをステンレスの流し台に下げた。
「うん。ありがとう。久しぶりに君の顔が見れただけでも嬉しかったよ。親戚の集まりっていうのはどうにも顔を出しにくくてね」
「私も全然行ってないですよ。一人暮らしなので」
「あそう」柳が呟いた。
「それでは」
日向子は立てつけの悪いアナログなドアを静かに開け、去って行った。
実のところ、柳は本当に彼女が来るとは思っていなかった。彼女はあまり用もなく行動するタイプの人間ではなかったはずだ。少なくとも、大学に入る以前までは。やはり、時の流れというものは、いとも簡単に人の性格や行動性向を変えてしまうものなのであろうか。たった二年という柳にとっては、もはや長いとも感じなくなった時間。人の心はわからない。柳はそう思った。
自分が変わっていないという証拠があるわけではない。
もしかしたら自分でも気づかぬうちに変わってしまっているのかもしれない。
そうだとしたら、自分を変えるものは果たして何であろうか。
近頃は、研究や論文など自分の仕事に熱心に打ち込んでいたため、他のことを考えている余裕もなかった。いい機会だ。たまには思索に耽るのも悪くはないだろう。柳は、五本目に煙草に火をつけて、思考の海へと舟を漕ぎ出した。
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