第二章 躍動する思念
天国か地獄か
1
随分と長い旅をしていたような気がする。
落下が果てしなく続き、それはやがて感覚を麻痺させる。
宙に浮いているようだ。
圧力を感じさせない支えによって固定されている。
いや、もしかすると無重力なのかもしれない。
どことなく、居心地がいい。
けれど、俺はここを知らない。
知っているはずがない。
ふと、いつの日か見た夢を思い出した。
毎日のように通っているM大のキャンパスで、サークルの後輩の林日向子と遭遇する夢だ。
別になんてことない夢で、覚えている方が不思議なくらいの平凡な夢。
あのときも、こんな心地良さを確かに感じていた。
ここは、なんなんだろう。
何があった?
暗闇?
そうか、停電があったんだ。
遠藤は少しずつクリアになっていく思考の糸をたぐり寄せ、考え始める。
あたりはまだ真っ暗だ。
自分が目を開いているのかもわからなくなる。
少しづつ五感が戻ってくる。
背中に圧力を感じた。
どうやら仰向けに寝ている状態のようだ。両手を横に伸ばしてみたものの、壁があって寝返りも打てないことがわかった。
酸素カプセルにでも入れられているのだろうか、と遠藤は考えた。
両側の壁を撫でるようにして触っていると、右手に突起物のようなものがあたった。
押し込んでみると、カチッと音がして右側の壁から光が漏れてきた。
空気の抜ける音。
と同時に、視界が白い光に覆い尽くされる。
「おはよう。修ちゃん。」
声がした。それも、聞き慣れた声。
目が光に慣れてきて、少しずつ輪郭がはっきりしてくる。
ピントが合う。
市川湊の顔がそこにはあった。
「……湊?」
「まだ寝ぼけてるの? そろそろ行かないと遅刻しちゃうよ?」
「うーん」遠藤は頬をパシッと叩いてから眠気を飛ばした。起き上がって伸びをすると、少し意識がくっきりしてきた。
ライブハウスで演奏しているときからの記憶がない。
脇にはベッドみたいなカプセルがある。
ここで眠ってしまったのだろうか。
部屋を見渡しても、来たことがないことしかわからないが、おそらく控室か何かだろう。
湊がいることだし、また世話を焼いたつもりでいるのだ。遠藤は少しにやりとした。
部屋には遠藤がたった今まで入っていたカプセルのようなものが二つ、一面ガラス張りの窓と並行して並んでいた。カプセルと垂直方向にはクローゼットのような扉がある。部屋はきれいに整頓されていて、その他の雑多な小物や家具は置かれていない。まるで極度のきれい好きな人の寝室のようなところだと遠藤は思った。窓の反対側にはドア。横開きの自動ドアらしい。音もなくドアが開いて、エプロン姿の湊が部屋を出ていった。向こう側の部屋はリビングのようだ。
窓の外の景色にはほとんど見覚えがない。ぎっしりと立ち並んだ高層ビルは淡い朝日を反射して燦然と輝いている。その間を縫うようにして高速道路のような幅の広い道路が架橋され、四方八方に伸びている。道路と交差するようにして線路も同じように架橋されているのが見えた。横浜も地上からの景色と上から見るのとでは随分と印象が異なるらしい。
「早く支度しなよー」ふと、湊の声がドアの向こうから聞こえてきた。
思わず、何のだよ……と口にする。
枕元に目を向けると、黒いフィルムのようなものが壁一面を覆い尽くしていた。よく見ると壁にはめ込まれたパネルのようだ。ここでライブハウスの映像でも見れるのだろう。
自動ドアを開けて部屋を出ると、リビングダイニングのような部屋に出た。
どこだ、ここは?
しっかりとしたテーブルと椅子が備え付けられ、キッチンカウンターもある。完全にマンションの一室のような作りだ。
しかも驚くべきは、湊がテーブルでトーストを食べていることだ。何をしてるんだこいつは……。
「湊、ライブはどうなったんだ」恐る恐る遠藤が訊ねる。
「ライブ?」湊はぽかんと口を開けている。格好もカーディガンではなくてパーカーを着ている。
「さっきまでやってただろ。今が何時か知らないけど、ライブやってる最中に俺倒れただろ? その後はどうなったんだ、みんなは?」
「……一体どうしたの?」湊は不審そうな顔でこちらを見ている。
「どうしたのってなんだよ」
「ライブって、学生気分じゃないんだから……。まだ寝ぼけてるんじゃないの?」茶化すような声で言った。
「はあ……?」
「調子悪くて休むなら連絡くらい自分でしてよねー。あたしももうこれ食べたら出かけるから」そう言ってトーストを食べ終えると、キッチンで口をすすいでどたばたと玄関に駆けていく。
「おい……ちょっと待てって!」
「ほんと今急いでるから帰ったらにして!」
遠藤が止めようとしているうちに湊は出ていった。
いったい何の冗談だというのか……。
他の皆はどこにいるのか。
今いるのはライブハウスではないのではないか……。
遠藤は一旦先程の部屋に戻り、状況を把握するために部屋の隅々まで調べてみることにした。今のところ、どう考えてもライブハウスではないどころかただのマンションであった。
部屋の中で一番目を惹くものと言えば、壁一面を覆う黒いパネルのようなものだ。正確にはカプセルのちょうど上の部分から天井までがこのパネルで覆われているが、ここがライブハウスの控室のような一室ではないという疑惑が浮上した今、このパネルの使い道がわからない。調べてみる価値はありそうだ。なんだか脱出ゲームでもしている気分である。
遠藤がふとパネルに手を触れた瞬間、パネルは黒色から一転して白へと切り替わった。
「うおっ!」予想外のことに遠藤は思わずのけぞって手を引っ込めた。
続けてパネルの中央に文字が表示される。
『個人認証を開始します。太枠内に手をかざしてください』
プロジェクターではなかったものの、パネル全体がモニターの役割を果たしているようだ。透明感のあるブルーを基調とした太枠が表示される。
遠藤は恐る恐る右の掌を広げて、パネルに触れる。
『……生体認証完了。おはようございます、遠藤様』
電子音と共に太枠が消えて、次々と画面にガジェットが現れてゆく。
「コンピュータか? これ」いわゆるデスクトップに近いデザインの画面が表示され、遠藤は呟いた。
よく見ると、画面の右端のところにOSのヴァージョンに近い文字列が並んでいるのが分かる。
『Zecharia.vol2.08』
「ぜかりあ……?」
『はい、遠藤様。何か御用でしょうか』洋画の吹き替え音声に似た男性の声が部屋に響く。
遠藤様?
こんな機械をいじった試しなどない。
それに、今この機械、ゼカリアという名前が付いているらしいが、自分の声に反応したということは音声認識の機能が備わっているようだ。
いずれにしても現状が分からず、身に覚えのないものを下手に触るのも良くない気がしてきた。それ以上の操作を止めて、あらゆる可能性についての検討を始める。
まだ外に出ていない時点で考えられる可能性。
一つは、全部茶番、ということ。
これはちょっと厳しいけれど、まだ一歩も外に出ていないからありえなくはない。湊か片瀬あたりが立案でもしたのだろう。このゼカリアとかいうコンピュータだってできないわけじゃない、と思える。シートに見えるようで実は隙間なく壁に埋め込まれた薄型テレビで、生体認証や音声認識なんて言うのは嘘。確かに今やスマートフォンである程度の音声認識や指紋認証が実現しているのだから不可能ではないだろうが、いたずらというのであればそれっぽい映像を流しておけば、何が起こっているのかわかっていない状態でそれを識別する術はないかもしれない。ゼカリアとの対話だって、部屋にマイクを仕込んでおいて声を聞き取り、ボイスチェンジャーを使って誰かが別室で淡々と話す声を薄型テレビから出力すれば済む。
しかし、そこまでして茶番を行うほどの理由があるだろうか。そんなドッキリなんてテレビ番組でもお金がかかってまずやらないのではないか。金のかかるいたずらなんて、片瀬は絶対に承服しないだろう。あいつなら、そんな面倒くさいことよりうまいものでも食いに行ったほうが有意義だ、俺は実益しか求めないタイプなんでね、なんて言うかもしれない。
二つ目の可能性は、本気で考えるのが自分でも馬鹿馬鹿しい気もしたが、それほどに今自分のいる場所は現実とかけ離れているのは確かだと思える。
このマンションの一室のどこを見ても元の自分の部屋にあったようなものも見つからない。窓の外に見える景色も見覚えがない。何より高層ビルの数が異常だ。何か人口が爆発的に増えるような、一人っ子政策の逆バージョンのようなことでも起こってここまで建物が必要になったのかもしれないし、真新しい光景ばかりで未来に来たといった方が納得できる。気が動転しているだけかもしれないが。
しばらく部屋を探索してみたものの、明らかに見たことがない電気製品が多すぎることがわかった。それらのメーカーは良く馴染みのあるもので、大手家電量販店に行けば絶対に目に入る名前がたくさんあったものの、目新しいものばかりだ。
いつまでもこのワンルームマンションのような部屋にいても埒が明かないので、外に出てみることにした。もしかしたら見たことのある景色が見つかるかもしれない。それに湊がいるという事実のおかげで、他にも知り合いがいるかもしれないという希望を持つことができた。
玄関口で見つけたカードキーと思わしきものを持って廊下に出た。外の空気は意外にも湿気があり、暑いと感じる。違和感を覚えてふと自分の体を見てみると、初めて半袖を着ていることに気が付いた。気絶する以前は着ていなかったものだ。
廊下の端にある階段の踊り場に黒スーツの男女二人組が立っているのが見えた。顔を上げた拍子に目が合うと、こちらに向かってずんずんと歩いてきた。
「遠藤修介さんでお間違いないですね?」女の方が訊ねる。
「は、はあ」目覚めてから初めて他人に声をかけられたせいか、動揺が隠せない。
「私たちは政府直轄の機関で夢人監察官をしております、早坂と雨宮です。先程関係機関よりあなたを迎えに行くようにとの指示を受けてこちらに伺った次第です。施設までご同行願えますか?」早坂と名乗った女は口角をあげて言った。後ろの雨宮という男はそっぽを向いていかにもめんどくさそうにしている。
ご同行?
遠藤は背中にじわっと汗が滲むのを感じた。
「えっと、ムジン……? よくわからないんですが……」
「状況が把握できていないのはこちらは理解しています。そのご説明もありますので一緒に来ていただけますか」
「あの……これって任意ですか?」
「はい、一応法律上は任意同行という形になります。」早坂は冷たく言い放つ。明らかにこちらの意思を言外に否定したものの言い方だ。
どうする……?
把握できている状況が少なすぎる点を考慮すると、自分に接触してきた人物に話を聞くのが一番手っ取り早いのかもしれない。この早坂という女はムジンがどうとか言っていたが、何か情報を得る上で重要なことな気がする。
「どれくらいかかりますか?」
「それに関してはお答えできません。奥様にはこちらから連絡しておきますので心配は無用です」早坂が言う。雨宮というもう一人の男は一言も喋っていないが、おそらくこの女の部下なのだろう。
「奥様?」
「あぁ……そうですよね。その点も後ほど、ゆっくりと」
「ここがどこで、さっきまでやってたライブがどうなって、っていう話もですか」
「構いません。私たちでご説明できる範囲であればお答えします」
「何が何だかよくわからないんですが、少しでも何が起こっているのか教えていただけるのなら、行きましょう」できるだけ波風を立てないように遠藤は言った。
「ご協力感謝します。任意同行という形ですが、中には抵抗される方もいらっしゃいますのでありがたいです」早坂は初めて緊張を解いたような顔をした。「下に車がありますのでそれで」
一行がエレベータで一階まで降りると、マンションの正面に黒塗りの車が見えた。形はセダンとほとんど変わらず、よく警察が乗っているようなものと同種であるように思える。
早坂が運転席に乗り込むと、雨宮が後部座席に座るよう遠藤を促した。
乗り込もうとすると、突然全身に衝撃が走った。
「――っ!」
脳天まで電流が駆け巡るような感覚。
息ができない。
視界が真っ暗になり、すぐに遠藤は膝を折ってその場に倒れた。
「うわぁ痛そう」雨宮がスタンガンをポケットにしまいながら呟いた。
「雨宮君、受け止めてあげたらどうなの」早坂がそっけなく言う。
「いやぁ慣れていなくって、こういうの。ドラマみたいにクロロホルム吸わせてとかじゃダメなんです?」
「あんなの危険すぎて話にならないでしょ。早くその子乗せて。見られると困るよ」
「りょーかいです」雨宮は遠藤を後部座席に寝かせると、助手席に乗り込んだ。
車はすぐに発進し、白昼の住宅街を走り去った。
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