ずれていく世界
2
柳はエレベータで地上に戻り、新鮮な空気の中で煙草を吸っていた。いつもより長く肺に煙を取り込むと、余計な熱量が吐息と共に躰から出ていくのが分かる。少し落ち着くことができた。
十分ほど前、大規模な停電が発生した。というより、停電の原因はこの施設だ。
美波と久しぶりの再会を果たした後、心身ともに疲れ切った雨宮を励まして実験区画へと向かった。実験開始予定時刻を少し過ぎてから研究所全館にアナウンスが入り、白衣やスーツ姿の人々が続々と実験区画に集まりだしたからだ。ざっと人混みを見渡しても軽く千人以上は居そうである。国主導の超極秘プロジェクトのため、マスコミの姿はない。週刊誌の記者などがたまに嗅ぎ付けてくるそうだが、そういう人物には何らかの対処をしているので問題はないという趣旨のことを長谷川から聞いた。また、携帯機器の持ち込みは許可されていて、研究所のどこにいても圏外になることはないそうだが、この研究所及びSILC計画にまつわる一切の他言無用を関係者全員が事前に書類上で承諾している。こちらに関しても長谷川は「漏えい者には対処いたします」とだけコメントしてくれた。対処が何を指すのか考えたくもない。
SILCの制御は中央にあるエレベータの左側の地底階がすべてその役割を担っていた。関係者はエレベータを挟んで右側の多目的ホールに設置されている専用の巨大モニターでSILCの稼働率など様々なデータを表示できる画面と制御室の様子を、生中継で見学することができる仕組みだ。多目的ホールには見上げるほどのプロジェクタスクリーンが入り口と反対側の壁にのっぺりとかかっており、座席が階段状に配置されていて、映画館さながらの見学スペースである。
階段状になっている通路をよく見ると、継ぎ目に間が空いていることがわかる。多目的ホールの名にふさわしく、ここは真っ平らに変形する床なのだろうか。講演などが行われるときにのみ、床がせりあがる光景を想像する。こういったギミックには目がない柳である。
中野所長が手短な挨拶をしてすぐに実験は始まった。制御室にいる作業員が沢山のツマミやらレバーやらのついた機器をいじると、徐々にSILCが稼働を始めた。今回の実験はかねてからSILCにおける実験として想定されていた電子と陽電子という素粒子同士の衝突実験である。これらが高エネルギー下で衝突すると、ヒッグス粒子とZ粒子というものが生み出されるもののすぐに消滅する。しかしLHCによって今まで確認されているのはZ粒子のみで、ヒッグス粒子が消滅する際のエネルギー量等を測定することによって、人間には見ることのできない暗黒物質の存在により近づくことができるとされている。柳は素粒子物理学は専門ではないが、ヒッグス粒子や暗黒物質に関する論文に目を通したことは今まで何度かあった。学術雑誌に暗黒物質の論文が載る度に、何か禁忌を犯そうとしている様なスリリングな心地がすると同時に、宇宙開発も中々進まないのにも関わらず、宇宙の誕生の謎に迫る技術を開発している現状に眉をひそめることもある。
宇宙はどこから生まれてどこへ行くのか。
人はどこから生まれてどこへ行くのか。
まだ宇宙の真理に辿り着くにはあまりにも人間は幼稚である、と柳は思った。少なくとも、物質的な束縛から自由になる必要がある。その日は、シンギュラリティという観点からしてもそう遠くないだろう。
稼働率が安定した頃、モニターを通した制御室内で慌ただしい動きが見られた。研究員がしきりに機械を操作しては、言い合いをしている様子が外から確認できる。壇上に立っていた中野所長のもとに役員が寄ってきて耳打ちをする。
すると眉間にしわを寄せながら中野所長は役員に何か言いつけて制御室に駆けていった。所長が去った後、耳打ちを受けた役員は電話をかけ始める。何か問題が発生したのかもしれない。
ホール内が少しざわつき始めたとき、緊急の警報が耳をつんざくボリュームで鳴り響いた。
非常灯が点滅する。
皆が不安そうに顔を見合わせる中、鳴り続けていた警報がブツンと音を立てて切れ、ラボの中は真っ暗闇になった。
刹那の沈黙。
直後、困惑の声がどっと沸き、関係者が立ち上がったりホールの外に出ようとする足音が響き始めた。
「皆さん慌てないで落ち着いて行動してください! 只今停電の原因を探っていますので、指示に従って避難してください!」係員の大声が暗闇に響く。
停電だ。
係員の声にすぐには反応せず、押し合い我先にと関係者が非常口へと走る。
「やっぱり無理があったんだ」「俺は帰らせてもらうぞ」「いったいどう責任を取るつもりなのだか」と、群衆がざわめく声が聞こえる。
すぐに予備電源のスイッチが入り、薄暗い照明が点灯した。避難の雑踏を掻き分けて、柳は誘導を率先して行っている役員をとっつかまえて話を聞く。
「何があったんですか」
「後ほどご説明いたしますので、一刻も早く避難をお願いします!」柳だけではなく他の関係者にも聞こえるようなボリュームで役員は言った。「押さないで下さい! 皆さん冷静に!」
予備電源が入り、誘導灯が点灯した今でも、パニックが収まる気配はない。柳は諦めて人の流れに乗ってホールの非常口へと走った。
人波に流される瞬間に関係者の一人ともろにぶつかる。
身なりを整えた大人の女性という印象。研究者特有の空気がないように思え、ひょっとしたら美波よりあか抜けているように感じた。比べてしまうのはなぜだろう。
「すいません、お怪我は」ぶつかった拍子に倒れた女性に声をかける。
頭を押さえている。床に強く打ったようだった。
柳は女性の肩を抱いて、ホールの端へと移動した。
「大丈夫ですか?」もう一度耳元で声をかける。
「いたた……。あ、すいません」こちらを見ずにその女性は答えた。まだ状況が把握できていないみたいだ。
女性の胸元に見学者証明書がかかっているのが見えた。
喜山春子、とある。
「立てますか」
「あ……」柳を見て一瞬動きが止まった。「だ、大丈夫です。立てます」
柳は立ち上がるのに手を貸してやった。周りを見ると、彼女と同じように床に倒れている人が何人か見て取れた。
「すいませんありがとうございます」ようやく立ち上がったが、まだ少しふらついている。
柳は今さっき声をかけた役員をもう一度連れてきて、救護を頼んだ。「この雑踏で頭を打ったみたいで。あとはよろしくお願いします」
そう言って柳は人波へと戻る。
あとで雨宮にでも報告しておこうと思い、頭の引き出しに彼女の名前を保存した。
幸いなことに、エレベータや誘導灯などはラボに備え付けの非常用電源からの供給で生きていた。二基あるエレベータその他非常時階段を使って、避難は進んだ。
そういうわけで、係員の指示でグループに分かれつつ順々に地上へと戻ることができたのである。
柳は一旦車に戻り、ノートパソコンでネットのニュースサイトを覗いてみた。すると、神奈川県中央部において中規模な停電が発生しているという報道がなされていることがわかった。停電の原因については技術的な問題が発生したとだけ書かれていて、政府の方から圧力がかかっているものと思われる。ここの存在をほのめかすような情報もネット上には見当たらない。情報操作は徹底されているようだが、将来的な国際利用を前提に作られているSILCが停電を引き起こしたとなれば大問題になる。本来なら停電など起こるはずもないが、人為的なものでなくとも、国際関係機関からの政府の失態という評価は免れない。
柳は外交のことは全く興味がなかったが、今後の対応の事を考えると少し同情を覚えた。本来は招待を受けた人のみが立ち入りを許可されているこの施設であったが、関係者の中には必死にメモを取る若い人も見受けられた。どうやって許可証を手に入れたのかはわからないが、マスコミが紛れ込んでいたのはまず間違いはないだろう。今思えば、さっきの喜山春子という女性もメモを取っていた一人であったような気もした。
煙草を一本消費したところで長谷川が神妙な面持ちでやってきた。
「この度は誠に申し訳ございませんでした。他の関係者様にもなんとお詫び申せば良いのやら……」深いお辞儀をして長谷川が謝罪した。
「一体何が起こったんですか? ニュースサイトを見たら神奈川県中部、東部に停電が発生しているって記事が出ていましたけれど、何か関係が?」
「はい……。今はセーフティが作動して完全停止状態にありますが、こちらが認識している事実としましては、SILCが想定外の暴走状態になりまして、一時的に停電を引き起こすまでの電気エネルギーを消費したことでございます。SILCの計画段階から電力不足による停電の心配はないのかという指摘は散々受けてきましたが、元来LHCもSILCも、停電を引き起こすような電力を食う代物では決してございません。最大出力でも停電に必要な電力の三分の一にも満たない仕様になっております」長谷川は申し訳なさそうに、同時に不服そうな目をしながら語った。
「正直こういう事故に巻き込まれるのは初めてなもので驚きましたけど、試験運転的な側面もありましたし、今回の件を踏まえて再発防止に役立てられると良いですね」柳は箱から2本目の煙草を取り出しながら言う。「あ、一本いります?」
「いえ、勤務中でございますので……。寛大なお言葉誠にありがたく頂戴致します」長谷川は重ね重ねお辞儀をした。「只今停電の原因を探っておりますので、休憩室や食堂でお休みになっていて下さると幸いです」
「あ、そうですか……。ちなみにこの後どうなるんでしょう? 実験再開の見込みは?」
「申し訳ないのですが今のところありません……。もう既にお帰りになっている方もいらっしゃいますので、私どもには皆様の行動を制限することは叶いません。ただ、もしお帰りの際には一言お声掛けください」長谷川は最後にもう一度深く頭を下げてから、他の関係者の方へと歩いていった。心なしか彼の背中が曲がっているように見えた。
中野所長の姿も見えないので柳は一度帰ることにした。街の方の停電の様子も気になるところである。そういえばこの公開実験と同じ日に日向子の軽音サークルのライブがあったはずだ。そちらの方にも少なからず影響が出ているだろう。一応メールだけでも入れておこうと思った。
林君、お疲れ様。
停電の影響はそちらにも出ているのかな。
こちらは実験中止。今日はもうだめみたいだ。
報告よろしく。
一分もかからずにメールを送信した。愛嬌のある文面というのはなかなか難しい。
携帯の画面から顔を上げると、雨宮と早坂が隣にいた。
「何か」
「何か、じゃないですよぉ柳さん。もう探したんですからね。いつの間にかいなくなっちゃうんですもん」雨宮は頭を掻きながら言った。
「人波に逆らうほどのエネルギーがなくってね」柳は軽く笑った。「仲直りは済んだの?」
「そりゃもう、この通り」早坂を振り返って笑う。
「いつもこんな感じなんです、雨宮君。いい加減どうにかしてほしいんですけど」早坂は不機嫌そうに言った。「柳さん、このあとは?」
「大学に帰ってゼミの子たちの実験を見ないとね。片づけなくちゃいけない論文やら学会の書類もまだ山のようにある」
「そうですか。さっきの事故というか停電なんですけど、幸い大きな破損事故にはなっていないみたいなので、これから警察の方もわんさかやってきて本格的な調査が始まると思います」
「ああ、それならちょっと長谷川さんから聞いたよ」
「そうでしたか」
「君もだいぶ大人になったみたいだね」
「ちょっと……、そういう話はまた今度にしてもらえます……?」早坂は柳の目を見据えて言う。「でもあなたは……そうね、あなたも変わったんじゃないですか」
「そうかい」柳は微笑んだ。
「と、とにかく、事故の処理が片付き次第研究所の方から柳さんに連絡が行くと思います。実験のことは僕たちよくわからないんで、後ほど所長から詳しく聞いてください」雨宮が間に入った。
「怪我人はいないの?」
「負傷者はいないみたいなんですが、招待されてた関係者の中に何人か気を失っている人がいるみたいで……。よっぽど実験中止がショックだったんですかね。今搬送の準備をしているところです」
「そうか……」
「では、気を付けて」早坂が一瞥くれてすぐ歩いていった。雨宮もこちらに頭を下げてから慌てて早坂のあとを追った。
妙だな、と思った。
初めてこのような極秘の実験に立ち会ったわけであるが、まさか停電で中止になろうとは……。
念には念を入れて準備を行っていたはずだ。使用する電力だって最大出力をしたとしても停電を引き起こしてしまうほどのものでは決してないと長谷川も言っていた。そのあたりは警察だって充分わかっているだろう。
空を見上げると、西の方に仄かな橙色が滲んできていた。夕焼けが近い。夏が終わって、これから一段と日の長さが短くなってくる。肌を掠めていく風も、沸騰した水を冷水で薄めたような温さを持っていた。昼間と打って変わって、木々たちも大人しい。対比的に、研究所の入り口付近では大勢の人が出たり入ったりしている。
最後の一本の煙草を取り出して火をつけた。車にもたれかかって思考の海に身を沈める。何か、思い出せそうで思い出せない。重要なことを忘れている気がする。記憶の片隅に押し込められているもの。押入れの奥に入れて、後からいろんなものを押し込んだせいで取り出せなくなったそんな記憶。
少ししか話す機会はなかったが、美波は以前のときよりずっと冷静になった。それが今回の印象だ。上の空というふうでもなく、常にマルチタスクで物事を考えている、柳の目にはそう映った。
この前姪である林日向子に会ったときも、そういえばそんなことを考えていた。高校に入ってから雰囲気が変わったなと感じていた。彼女の両親ともに本は読む方であることは知っていたので、おそらくその影響が今になって出始めたのだろう。知識欲があそこまで彼女を落ち着きのある人格へと育て上げたという観測は間違ってはいないと思う。
自分はどうだろう。柳仁志という人間はあの頃から比べて変わったのだろうか。パッと見や少し話した程度ではとてもじゃないが変わっていないと言われることがほとんどなはずだ。その評価は表面的に言えば平均値である。特に話す態度や表情を変えたということはないし、自分でも変わっていないと言える。だが美波はわざわざそんなことを言ったわけではないだろう。内側の話だ。
美波と別れてから、随分といろんなことを考えるようになった。准教授になってから、研究とは関係のない雑事が増えて、自分のことばかりやっていられる立場ではなくなったからかもしれない。学会に出席しなきゃいけないし、委員会や会議で今までよりも沢山の人と関わる機会が増えた。色々なタイプの人間と接した。考え事は人間のこと、社会のこと、宇宙のことにまで飛躍するときもある。
人は変わる。
学生の頃だって、夏休みを挟んだだけで人柄が変わった人もいた。
自分から変わろうとすることはとても大変なことだけれど、それとは別に気づかずに変わっている部分もあるだろう。それが良い方向の変化でも悪い方向の変化だとしても。
全身の細胞だって数年も立てばすべての個所が入れ替わっている。
それくらい変化というものは日々刻々と行われている。
自分で実感するほどに表面化するのに時間がかかるというだけの話だ。
せめて自分では良い方向に変化できていると信じられることをしていたい、と気恥ずかしいことを思い、柳は一人、少し笑った。
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