次元の壁を越えて

     2

 

「そこの椅子に座って下さい」倉持は柳に指示した。

 いつもの椅子だ。仕事中はほとんどここに腰かけている椅子。言う通りにした。

 柳は研究所の自室にいた。特査は、一年半前から水面下で進められている計画の最終段階に入っている。タルトピアとケーレスでの同時並行計画を具申したのは柳である。当時はあまり本気にされなかったが、それを特査の長である遠藤昭に信じさせたのは、倉持という大学生であった。

 彼は遠藤修介、林日向子らが突然意識を失った原因、及びここ最近頻発していた交通事故者の記憶喪失などの事案に対しても一つの答えを提示できる、と柳に接触してきたのだった。柳が遠藤から別宇宙に行った旨の報告を受けた後、倉持は実際に別宇宙の柳と会話させてやる、と言ったのだ。学者としての興味か、はたまた日向子を助けたい一心からか、柳はこの話に乗った。

 倉持は柳を椅子に座らせると、柳の頭に手を置いた。

「先生。Sエネルギーの話は理解しましたね?」

「ああ。何となくはわかったよ。要するに、今から君は僕のSエネルギーに干渉して強制的にタルトピアとかいう所の僕のSエネルギーと繋げる、ということだろう?」

「流石ですね。頭が冴えていらっしゃる」倉持は一度腕まくりをしてから言う。「僕もあまり他人のSエネルギーに干渉することはしてこなかったので自信があるわけではありませんが、一刻を争います。……では」

 柳は少し体を硬直させ身構えた。

 倉持が目を閉じた刹那、柳は意識を失った。


     *


 ただ一つの建物もない砂地。向こうには砂丘も見える。

 ここは?

 ここが、倉持の言っていた精神世界なのだろうか。思っていたよりも鮮明に景色が描写されているので柳は驚いた。

 少しの間辺りを見渡しながらぶらついていると、人影が視界に入った。サクサクと足音を立て、近づいていく。

「あなたは……?」

 男は振り返ると、目を細めてから眼鏡を一度取り、またかけた。

《いやぁ驚いた。まさか夢人でもない僕が別宇宙の自分と話せる日が来るとは》

「ということは」

《あなたは僕自身ですよ。柳教授》

 目の前にいるのはまぎれもなく自分自身だった。まるで鏡に向かって話しかけているようだが、鏡の中の自分は予測した動きとは別の行動をとる。

「これがSエネルギー……」柳は心の内にざわつくものを認めた。研究者としての血が騒いでいるのだ。実際にこれが観測されれば、世界は激変する。その未来はまさに予測不可能だ。素晴らしい。

《それで、なんでこんなことが起きてるんでしょう》

「ああ、これは倉持君がやってくれたんです。別宇宙の証明には物的証拠なんて持ってこれないから、実際に見せたほうが早いと彼が」

《倉持……》一瞬眼球は左上を仰ぎ見た。《全権者の下に就いている彼ですね。Kと呼ばれているみたいですけれど》

「それで、あなたにお伝えしなければいけないことが」柳は話を切り出した。

 タルトピアでは倉持が率いる反全権者組織のメンバーが首都圏に集結しつつあった。全国に散らばる反全権者組織は何人かのエリアリーダー毎にまとまっていたが、倉持の働きかけによりXデーを目指し神奈川に集まってきている。

 一方肉体強化に努め始めた遠藤は、雨宮と早坂にSエネルギーを介した情報伝達でこの作戦の全容を伝えた。元々夢人としての能力を持っていたケーレスの遠藤は、倉持と日向子の教えで飛躍的に夢人としての能力値が向上させることに成功していた。まだケーレスの遠藤が主体的に動かなければ他宇宙の自分に対する干渉はできないが、Xデーまでの一年で精神統合には到達する見込みだった。

 柳は夢人監察局局長であったので、作戦情報を伝達すると盗聴の恐れがあったので、むやむやたらに伝えるわけにはいかなかったのだ。それで、少し遅れて倉持の協力によりSエネルギーを介してこうして情報を伝達するということになった。

 話し終えるとタルトピアの柳は言った。

《仕方ないですね。良い状況判断です。Sエネルギーを介しての情報伝達とは考えましたね。夢人は宇宙転移を可能にするということで、その性質上個人的な範囲の人の移動という側面が強い。だがそれは裏を返せば、Sエネルギーを操ることができるということだからね。人のSエネルギーに干渉できても不思議じゃない》

「干渉できても、非夢人のSエネルギーをリンクさせるという点で、やはりパーソナルな側面は変わらないということでしょうか」

《僕は夢人じゃないから何とも言えないなあ》

「あそう」

 沈黙。

「自分と話して初めて分かったけれど、僕と話す人はコミュニケーションに苦労しているだろうね」

《確かに》

 突如、周りの景色が引き伸ばされていく感覚に陥った。

 砂丘だけに関わらず、目の前のすべてが少しずつ歪んでいく。

「これは?」

《恐らくリンクが弱くなっているんでしょう。夢人でない僕たちはこれが限界ということなんじゃないかな》

「そうか」柳はもう少しこの世界に浸っていたいという感情に飲み込まれそうになったが、それをぐっとこらえた。「じゃあ、またどこかで」

《技術提供はしないよ》歪みつつある自分の顔は、それでも少し笑っているように見えた。

 暗転して、白へ。また暗転。

 肩をポンポンと叩かれる感覚が皮膚を伝って脳に届けられる。

 柳が目を覚ますと、横には汗だくの倉持が立っていた。変わったのはそれだけで、後は普通の研究所の一室。煙草の匂いが鼻を掠める柳の部屋だ。

「どうしたの、それ」シャツを汗でびしょびしょにしている倉持を見て言う。

「夢人じゃない人のSエネルギーを……何の装置も使わないでリンクさせるのっていうのは……かなりの重労働なんですよ……ええ」シャツを脱ぎながら倉持は言う。「これ、捨てといてくれます?」

「そこの籠に」柳はしわくちゃの白衣が無造作に入れられている籠を指す。

「ちゃんと伝えられました?」倉持はバッグから新しいシャツを取り出した。

「まあ、僕のことは僕が一番わかっているというか、伝わったみたいだよ」

「これで信じて頂けますね」

「そうだね。疑って悪かった」

「そうと決まれば、向かう所があります」倉持は着替えるとすぐにバッグを背負った。「県警に行きますよ」

「今から?」

「今から」先程の汗だくの表情が嘘のように爽やかな笑顔で倉持は笑う。


     *


 そんなことがあって、倉持は雨宮と美波の待つ県警へと足を運び、同じように遠藤昭にもSエネルギーによるリンクを施した。だがここでタルトピアに繋ぐわけにはいかないので、適当に近くの宇宙の遠藤昭に繋いでおいた。

 昭曰く、『どこに行ってもこの様子だと私はカタブツらしい』とのことだった。兎にも角にも特査の室長を納得させることができたので、やるべきことはやったと言える。その日はすぐに倉持は県警を後にした。

 この時点ですでに、雨宮と美波は遠藤から同様のリンクをされていたので、県警本部に入るのも問題は起きなかった。雨宮は終始納得のいかない様子だったが、美波の説得もあり特査は全面的に協力する体勢になった。伊勢崎は、遠藤が立て続けに二人のリンクを行ったことによる体力の消耗を考え、リンク自体は遠慮した。上司の三人が納得しているのだから、自分もそれに従うまでだ、と。

 雨宮の出迎えにより、特査の部屋まで案内してもらい、今日に至る。唯一、美波は柳がくっついてきていることに対して不平を言っていたようであったが。

 それ以来、倉持がいなくとも柳は足繁く特査に通い、作戦を煮詰めることにしたのだった。姪っ子の日向子はまだ病院に居るわけで、実体として助かったと感じることができていないのも事実だ。その焦燥、早くこの一件を終わらせたいという想いが、柳自身を動かしているのだと信じることにしたのだった。

 今日も、特査では会議が行われている。今会議室にいるのは特査の四人と柳だけだ。倉持は用があるとかで来ていない。

「年度末の休暇中も、特に異常は認められていない」昭が深みのある声で言う。

「交代で休暇を取ったにせよ、少し心配でしたよ」と、雨宮。「美波さんはデートですか?」

「馬鹿なことを言わないの」柳を見ずに美波は言った。「実家に戻っただけよ」お母さんの様子が心配だったから」

「伊勢崎は?」

「僕ですか? ちょっとした旅行に」伊勢崎ははにかむ。「これお土産です」

 伊勢崎はデスクの上に綺麗に包装された箱を取り出した。

「これ……、東京バナナじゃん」雨宮が文句を言う。

「ちょっと旅先で時間が無くってですね」申し訳なさそうに伊勢崎はもう一箱同じものを取り出した。「皆さんでどうぞ」

 雨宮が雑に包みを開けて、一つを口に放り込んだ。

「それで、関係部署との調整は済んだのか」昭が確認する。

「はい。全て滞りなく進んでいます。文科省の内部データは小倉さんから融通してもらいましたし、ホシが誰であるか、何名ほどいるのかということはほぼ確定しています」早坂が報告する。「伊勢崎には今文科省への侵入経路について探りを入れさせています」

「入れそうか」と、昭。

「はい。侵入自体は問題はないと認識しています。ただ一つネックになると予想されるのは、身柄を拘束したまま目立たずに文科省から出られるかというところです」

「ふうむ」伊勢崎のお土産を口に含みながら昭は考える。

 文科省へと乗り込んでいく際、気づかれてはすぐに転移されてしまうという問題点が計画時に持ち上がったが、これも倉持によるSエネルギーへの干渉で聞きだせる見込みがついた。ただ、倉持一人では効率が悪く彼への負担が強いということもあり、二宇宙同時並行の作戦の重要性がここでも出てくることになる。すなわち、タルトピアでの制圧作戦が成功すれば、こちらが使える夢人の手駒を将来的に増やすことができるということだ。ケーレスには人命にかかわるような戦闘は発生しない見込みだったので、転移されたとしても工作員の身柄を拘束しておけば良いという算段だ。

 全ての作戦が成功した暁には、文科省やこの警察組織上層部に紛れ込んでいるであろう工作員たちに全てを吐き出させ、一連の悪事を世の中に公表すると同時に、Sエネルギーの存在を自然な形で発表することができる。

 それだけに、この作戦は失敗が許されないものであった。もし失敗するようなことがあれば、ケーレスもタルトピアも共倒れだ。イレーネも無事では済まないだろう。これだけの大事であるのにもかかわらず、工作員が紛れ込んでいる可能性だけでは動かせる人員がかなりの数制限されてしまっている。あくまでも秘密裏に作戦を実行しなくてはならない。

「そういえば、片瀬くんとかはどうしているのかな?」ふと思い出したように柳は訊いた。

「ああ……」美波は思い出して少し俯いた。

「この一年半、彼らのことをほとんど聞いていないけど」

「遠藤修介の周辺人物は、無事に大学を卒業したそうです。内定先も皆決まって、四月一日から新たな道を歩むそうで……」

「知らせてはいないのか」柳は珍しくきつい口調になった。

「……はい」早坂はぽつりと答えた。

「柳さん」昭が割って入る。「分かってあげてください。いくら何でも彼らにはこの現実は厳しすぎるでしょう。それぞれの人生がかかった大事な時だったんです。遠藤君の躰も一般の病棟からは移しました」

 一年半前、片瀬らには意識不明の状態が続いていると伝えたが、彼らはやはり疑いの目を向けてきた。面会謝絶になり、自分の目でその状態を確かめられないのだから当たり前だろう。そして、遠藤修介の死というものが彼らに伝えられることとなった。

「だからと言って……」柳は眼鏡の奥から昭を鋭く睨みつけた。「遠藤君自身は了承したんですか」

「ああ、というより、彼が申し出たことなんだ、これは」

「はい?」

「『これ以上彼らを巻き込むことはしたくない』。そう彼は言っていたそうだ」

 流石に、柳も口を閉ざす他なかった。

 まだ社会にも出ていない青年にそこまで言わせてしまうこの世界。柳は、憤りや不満が胸の奥で膨らんでくるようだった。

 突然、携帯電話のコール音が室内に響いた。

「あっ、すいません」雨宮が電話に出る。「はい、こちら雨宮」

『あ、雨宮さん? 神原です』

「神原さん? 神原って、神原優子か」雨宮は電話の主に驚いた。

 特査のメンバーが一斉に動き出す。

 何故なら彼女はこの一年半、加速器研究所の男性が殺された事件の容疑者として指名手配を食らっていたのだ。

「てめぇなんで俺の携番知ってんだ」

『倉持さんに教えてもらって……すよ。いざって時に掛け……うに』電話の向こうからは風の音が入り込んでいてとても聞き取りずらい。

「どこにいやがる」雨宮は早坂に目配せして、メモの準備を頼んだ。

『私の指名手配なん……取り消してください。……襲撃を受けました。今は倉持さんと一緒ですが、彼は今タルトピアかイレーネに飛んでいるので話が……せん』

「倉持が? 襲撃を受けた?」雨宮の復唱する声で全員の動きが止まった。

『このままとりあえず文科省に向かい……。同時並行作戦開始です。繰り……ます。同時並行作……始です! 至急行動を開始してください!』

 電話はぷつりと切れた。

「ちょっと混乱しててよくわからないですけど、神原が乗っているバスが襲撃を受けたみたいです。作戦開始しろと」

 すると、また雨宮の携帯が鳴った。メールを受信したらしい。

 ファイルが同封されている。開くと、座席に横たわる倉持の姿と、車内の死体、割れた窓ガラスなどの写真だった。

「これは……」昭は絶句した。

「マジっぽいですね……」雨宮が呟く。

「室長、行きましょう」早坂が昭に詰め寄った。

「ふむ……」昭は腕を組んで目を閉じた。

 少しの間があった後、怒号が室内に響き渡った。

「特命対策室長として命ずる。只今より文部科学省への潜入及び対象者の身柄の拘束を旨とする作戦を開始する! 速やかに行動に移り、協力機関への迅速な連絡をつけろ」

 柳は、盆と正月が一度に来たように忙しない特査の部屋を見て、一人考え込んだ。

 なぜこのタイミング……?

 最初からこちらの作戦は筒抜けだった……?

 内通者がどこかにいる……?

 疑問符が頭を駆け回るだけで、これといった答えが見つからなかった。

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