居心地の悪い場所

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 それはそれは、居心地の悪い場所でした。今までは、こんなことを感じたことはなかったのに。

 一年半、たぶんこれが最後になるだろうと思い、八次元へと出立しました。私は、私が今持っているこの記憶、文学的に言えば魂が経験したことを基に話しているわけですが、記憶とは不思議なもので本人の意思に依らず階層的に保存がされています。なので夢人の多くは、八次元空間にふわふわと漂っている記憶の表層を上から眺めながら、別宇宙の自分を探して転移するのです。その光景はさながら空に散りばめられた星屑を見ているようで、私としてはもうそれだけで心の器に蜜が満たされたかの如く幸せいっぱいなのです。しかし、大抵の夢人にはこの光景は意識して見ることができず、見ていても覚えていないという嘆かわしい事実が判明しました。ああ、もったいない。

 そんなほとんど私だけのお楽しみの空間とも言える場所に雲が出てきたのが、丁度全権者が私たちから技術提供を受け、大型転移装置を運用し始めた時期と重なったのです。宝石箱のように、本当に色とりどりの星々が煌めいていたのです。それは、人が一生を過ごして経験したことの蓄積で、多くの刺激的な経験をしている人ほど濃い色で輝いているのだと私は解釈しています。そこに、突如として靄がかかったみたいに、視界が不透明になりました。

 私はこの空間に身を置きすぎたのかもしれません。言ってしまえば、物質としての肉体で動かない、ヴァーチャル空間と揶揄されればそれまでです。本来なら、そんな肉体という束縛から解き放たれた場所なら居心地が悪いはずがないのです。こう言うと、少し宗教臭いでしょうか。

 しかし『彼』が居座るようになり、人々のSエネルギーに深層深くまで手を突っ込んで次々と自分の駒として使役しだしたことは分かりました。私にはその様子がまるで、腕を何度もワインレッドの血で染めながら、心臓を抉り取っているようにしか見えませんでした。もちろん、躰は存在しないので本当にそうしているわけではありませんが、八次元空間は人間の本性がそのまま感じ取れる場所です。心の底から吐き気がしました。見ているだけで、自分の心臓を生温い手で撫でられているような。見たってことはあんたは目が付いているんじゃないかって? そんな揚げ足取りみたいなこと言っちゃだめですよ。私はただ感じ取っているだけなのですから。こうやって、比喩を多用してもなお正確に伝えることが不可能な場所ということです。次元が違うのですからね。

 『彼』は悪意に満ちていました。悪意というのは、善意に比べ周囲に影響を及ぼしやすい厄介な存在です。悪意を持っている本人にとっては正義に過ぎないから。あくまで、客観的に、第三者的に見て悪意と言っているのです。

 『彼』の悪意は簡単に支配欲と片づけてしまえるほど単純なものではないのが私にはわかりました。単純な支配欲であれば、これはもう古代から人間が持っている欲望の一つで、私にも、あなたにも、潜在的に持っているものの一つです。人類は歴史を繰り返しながら、独裁や悪意のある君主制に対抗してきたことは今更言うまでもありません。

 しかし、彼は違いました。私もそれを最初に感じ取ったときは信じられませんでしたが、基本的に彼は自分がどうなってもいいと心底考えていたのです。その思考回路が私には全く理解できませんでした。確かに、輪廻を信じている人間からすればSエネルギーはまさに生まれ変わりを証明するもので、魂自体がなくなることはない、だから自分は消えることはないと考えることはできますが、多少の記憶の継承はあるにしても生まれ変わった先で元の自分を自覚することは不可能です。

 それに、私には『彼』が誰であるか分からなかったのです。『彼』は普段なら普通に見ることのできる表層部分も高度にプロテクトしており、悪意を発しているのが『彼』でなかったら、私はその存在にすら気づくことができなかったかもしれません。そこで初めて、私は居心地が悪いと明確な嫌悪感を抱いたのです。

 この八次元空間は、私の歴史でもあります。私が一番早く生まれた宇宙がイレーネでした。宇宙転移技術が発達している宇宙に最初に生まれ落ちたのはかなりラッキーでした。そうでなかったら私のこの地位というのはなかったも同然で、ただの平凡な女の子として日々を過ごすことになっていたと思います。……今考えれば、それだけの人生もまた幸せなのでしょう。勉強して、恋をして、仕事をして、結婚して、老いていく。人生は考え方次第でどうとでもなるというのは、ただの希望的観測ではないと私は信じたいのです。夢人として与えられたこの持て余すほどの力で、私は一生かけてもできないほどの他人の人生を疑似体験しました。ある時は戦争に参加した一兵士の死に際をなぞり、またある時は助産師として新たな命を取り上げる瞬間を。

 タルトピアでの私とリンクしたのは彼女が中学三年生の時。彼女のいる宇宙は既に見つけていて、あまりにも彼女の精神状態が悪くなってこれ以上はちょっと、というところで私がリンクを開始しました。彼女のSエネルギーを休める必要があったからです。今もまだ彼女には眠ってもらっていますが、もうすぐ完全に回復するはずです。当初、私は余計なことを、と言われるかと思っていたのですが、彼女は私に感謝をしてくれました。本当は、こういうことでささやかな幸せを感じているだけで充分だという気もしましたけれど、与えられた能力を活用するべきだと考えました。

 ケーレスにリンクしたのは彼女が高校生になる頃でした。私は基本的にイレーネの人格を主としていますが、リンクを行うと少なからずリンク先の人格に影響を及ぼすというSエネルギーの特性に漏れず、ケーレスの私はある程度のコミュニケーションを取るようになりました。何せ、幼少期にほとんどの親類を亡くしていたのであまり自分から話すことに積極的ではなかったのですね。それが彼女の知識欲に繋がったわけで、本が好きだと気づかせてくれたのは私であった、というのはこういうわけだったのです。

 八次元空間は今なお悪意に満ちています。戦闘技術を持たない私にできること。それは、知識と夢人としての力でできる限りAAOのサポートをすること。幾ら人生経験を積んだからと言って、どれほど人よりも高い知能を有しているからと言って、所詮人ひとりにできることには限りがあるというのもまた現実なのです。有能なリーダーがトップに立ち、指揮系統を整え的確に人を動かすことで目的を達成できはしますが、リーダー一人では何もできないのです。

 私はそんな、人ひとりの力の脆さ、弱さが大好きなのです。人は弱いから誰かを頼り、脆いから強くなろうとする。それでこそ人間だと、私は、学びました。

 だからこそ私は、今、彼らを助けるのです。

「八次元空間への強制介入を試みます。今打ち込んだこの文章が遺書にならなければいいのですが」

端末を切り、林日向子は自己の深くへと進み始めた。

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