形勢は斯くも脆し

     12


 伊勢崎は男を追い詰めていた。ぐるりと日比谷公園内を一周追い回した後、その男は野外音楽堂のステージ手前で息を切らして座り込んでしまっていた。幸いにも本日は特に催し物はなかったようで、あまり人もいない。

 伊勢崎は背広の内側に手を伸ばしながら、へたりこんだ男にじりじりと近づいた。

「待て、伊勢崎。撃つな」すぐに昭が後ろから追いついてきた。肺をひゅうひゅう言わせながら息を整えているが、年齢を考慮すると流石である。煙草を吸っている雨宮や早坂はもしかしたら昭より体力がないかもしれない。

「他の仲間の居場所を吐いてください。さもないと撃ちますよ」伊勢崎は男の後ろに回り込み、背広で隠す形で背中から銃を突きつけた。

「な、何なんだお前ら! お前らだけじゃない。文科省の連中だって……。俺が一体何をしたっていうんだ。SILC研究所? 戯言もいい加減にしてくれよ。俺にだって家族がいるんだ」男は銃を突きつけられてパニックになったのか、早口で捲くし立てた。

「あんた、ここまで来てしらばっくれるって言うのかい。そりゃあ、言い訳をどうこう言うのはあんたの勝手だが、余計に苦しむだけだと忠告しておくぞ。私たちだってこんなやり方別に望んでやってるわけじゃない。しかし状況が状況だ。こうせざるを得ないんだ。素直に喋ったほうが時間の無駄にもならずに済む……」

「だから、本当に何も知らないって言ってるだろう? お前たちは警察か。善良な市民にこんなことして許されると思ったら大間違いだぞ。弁護士だ、弁護士を付けろ!」男は脂汗を垂らしながら抗弁するだけだった。

「こりゃだめだな、とりあえず署まで連行する。話はそれからだ、いいな」

「俺の話を聞け! 冤罪だぞ。これはれっきとした――」

 次の瞬間、男がカッと目を見開いた。

 かと思うと、口から血を吹きだしてその場に倒れた。首からも、大量の血液が流れ出て、一面に広がり始めている。

 何が起きた?

 昭は男から伊勢崎に視点を変えた。

「動かないでくださいね、室長」

 返り血を浴びた伊勢崎。顔を半分血に染めながら、その表情はピクリとも変わらず、冷たく刺すような視線が、減音器のついた銃口と一緒に昭に向けられていた。

 伊勢崎……?

「もうすぐ、誰か追ってくるでしょう。あなたは何も見ていない。そういうことにしておいてください。あなたには死んでもらうわけにはいかないんです」

「お前、自分が何をしているか分かっているのか」ドスの効いた低い声で昭は威嚇する。

「何をしているか? ええ、わかっていますよ。室長を裏切って容疑者を殺害してあなたに銃を向けている」

「内通していたのがお前であると気づけなかったのは私の責任だ。今からでも遅くない。自主しろ」

「何を言い出すかと思えば……。全権者とは比べものにならないくらいのお花畑な脳みそしてるんですね。私が内通している? スパイだと言うんですか。全く失礼な、低く見られたものです」伊勢崎は冷徹な笑みを浮かべながら昭を罵倒した。

「お前の事情などこっちは知ったことではない。銃を下ろせ」

「命令できる立場にあると思っているんですか。私はあなたに銃を向けている。この場を見逃してくれさえすれば、あなたに危害を加える気はないです。さあ」

 じわっと、こめかみのあたりから汗が顔を伝うのがわかった。部下を目の前にして、私は恐怖している。死に直面した者のみが感じ取れる、彼岸の死の香り。

 伊勢崎が裏切り者だった。考えろ。どういうことだ。

 なぜ今まで気づかなかったんだ。直属の部下というわけではなかったが、特査の一員だったことには変わりない。

 自分の能力が足りなかったのか。

 いや、それはいい。悔しいが、こいつは私の性格を理解して精神的なショックを与えようとしている。現に私はかなり気落ちしている。

 だが今は、こいつを捕らえることを一番に考えて行動するべきだ。

「十秒待ちましょう。逃すか撃たれるか、ご決断を」伊勢崎は早くしてくれと言わんばかりにめんどくさそうに言った。「十……」

 少し雨宮に似てきたかもしれない、と昭は思った。何もあいつは悪影響だけを周りに振りまいているわけではない。

「九……八……」

 早坂の影響も受けたのだろうか。特査に入ってきた当初は、今のように適切な判断を素早く発言できるほどに頭の回転が速くなかったように思う。

「六……五……」

 伊勢崎がこちらに向ける銃口を見つめる。全く手の震えもなく、見ているだけで吸い込まれそうになる。

 ふと焦点を伊勢崎の後ろに合わせる。

 合図を受け取り、諦めたようにため息をつく。

 昭はその場に座り込んだ。

「……四……三」伊勢崎は座り込む昭にすっと照準を合わせ続ける。

「申し訳ない、伊勢崎。お前は良い刑事になると思ってたんだが」

 そう言い放つ昭に、伊勢崎の顔には初めて疑念が浮かび上がる。

 昭は改めて顔を上げて、伊勢崎の目を見た。

「さよならだ」

 驚愕の表情を浮かべたのも束の間、昭に向けていた銃の引き金に力が入る。

 一発の銃声。

 サイレンの音が遠くに響いている。

 伊勢崎の持っていた拳銃が音を立てて落下した。当惑の表情を浮かべながら、肩を撃ち抜かれた伊勢崎はゆっくりと倒れた。赤い赤い鮮血を流しながら。

 その後方から早坂が駆け寄ってくる。

「お怪我はありませんか」早坂が訊ねる。

「問題ない。……それより腰が抜けてしまってな。手を貸してくれ」

 早坂が手伝い昭を何とか立ち上がらせた。

「何故撃った」伊勢崎が右肩を抑えながら言った。「いや、何故撃てたんだあなたが。確証はできなかったはず」

「救急車は既に呼んであるわ。簡易的に止血するから黙りなさい」早坂は軽蔑とも嘲笑とも違う煮え切らない視線を伊勢崎に向けていた。「話はあとで聞く」

 昭は一言、苦しそうにしている伊勢崎に向けて言った。

「もう、お前は特査じゃない。私たちの、平和を望む人類の敵だよ」

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