異物の接触
12
湊と別れ、遠藤は病院へと向かった。通院が目的ではなく、タルトピアへと戻る決心をしたのだ。宇宙転移が行われた後、この躰を保護してもらうのには病院で気を失うのが一番であると判断したからだ。
病院の入り口で、番号をコールした。
「準備はできているか」辻元は開口一番そう言った。
「はい。今病院に居ます」
「殊勝な心掛けだな」
「気絶するとろくなことがないので」遠藤は雨宮に気絶させられた時のことを思い出した。
「そうか」電話の向こうで咳払いが聞こえる。「今から転移の準備をする。五分待て」
「早いですね」
「俺がタルトピアに伝えに行くわけじゃないからな。適材適所ってやつだ。伝達係ほど俺はすぐに転移できない」
「辻元さんは」遠藤は訊ねる。「僕の父親についてどう思っているんですか。その、タルトピアの父のことですが」
「どうも思っていない。ただの仕事上の上司に過ぎない」
「あの人がやろうとしていることは何なんですか」
「復興、だろう。そのための全権者だ」
「そうですか」遠藤はここでも、少し妙な空気を感じた。
全権者という名前はついているが、考えてみれば事実上の独裁国家ではないのか。そのことに薄々気づいている人々も多いだろう。いくら様付けして呼んでいても、この辻元という男も不満を持っているのではないだろうか……。
「もう切るぞ。五分後、正確にはあと四分三十秒後に転移は起こる。倒れるのだからあらかじめ寝ていたらどうだ」そう言って辻元からの電話は切れた。
助言通り、近くのベンチに横になった。
空が青い。
網膜に焼き付けるように、じっと空を見つめてから遠藤は目を閉じる。
すぐに、眠気のようなまどろみに落ちる。
宇宙転移もこれで三回目なので、もう慣れたようなものだった。
視界が黒から白、また黒へ戻る。
落ちる。落ちる。落ちる。
完全な黒に戻れば、無事に転移が完了した証であると遠藤は直感していた。
しかし、いつまでたっても視界が黒へと戻らない。
灰色のような、ぼんやりとしたところで停滞している。頭がぐるぐるとまわっているような、三半規管の乱れのような、気持ち悪さが続く。
問題が起こったのだろうか。
不安になり、目を開けようとするが、開かない。腕のほうに意識を向けようとしても、全く知覚できない。まだ感覚が戻ってこないのだ。転移が終わっていない。
やがて灰色に覆われた視界が明度を落とし、漆黒へと還っていく。
恐る恐る目を開ける。早く柳の顔を見て安心したかったが、それを我慢して少しずつ体を動かす。
かろうじて開いたまぶたに、桃色の光が射す。思わず目を閉じた。
目の前に手をかざして視界を確保する。躰の制御には問題はないようだ。タルトピアから戻ってきたときは、しばらく安静にしていたから気が付かなかったが、転移後しばらくはうまく躰を動かせないらしい。
ふと、おかしいと思った。
帰る先はタルトピアのはずだ。夢人監察局の柳局長の部屋奥のカプセル。てっきり目が覚めた後に、空気の抜ける音と共にカプセルが開いて柳局長とご対面、という光景を思い浮かべていただけに、遠藤には少し焦りが生じていた。
暖かい照明が部屋を包み込むように均一な明るさで広がっている。見覚えのない部屋であったが、どこか落ち着く、不思議な安心感があった。それがどこから来るものなのか、遠藤にはよくわからなかった。
人の気配がした。遠藤は横たわっていたベッドから起き上がると、その気配のする方へと歩み寄る。
白いソファに深く腰掛けて、一冊の文庫本を読んでいる女性の横顔が目に入る。艶やかでいて絹のようにさらさらとした黒髪と、桃色の灯りに照らされた頬が透明感を感じさせる。
「あの……」一度咳払いをして、遠藤は声をかけた。
女性が振り向く。その動作に合わせて、髪がふわっと揺れた。
「遠藤修介さん。わざわざ来ていただいてありがとう」
遠藤はその顔に見覚えがあった。完全に一致しているわけではないが、大人になればこういう顔つきになるだろうという推測を当てはめれば、まず間違いないのだろうと思えた。
「日向子ちゃん……?」
「お久しぶり……というわけではないですね。あのライブが中断されてからまだ一週間と経っていないのですし」日向子は微笑んだ。
「本当に、日向子ちゃんなの……?」
「そうですよ? 先輩は相変わらず鈍感ですね」
「何か、その、大人びたような感じがするんだけど……」
「とりあえず、こちらに座ったらどうですか、先輩」
遠藤は日向子に導かれるまま対面するような形でソファに腰掛けた。
日向子の顔を見るが、どこから見ても日向子本人だ。遠藤はそう直感する。一目見たときの違和感を強いてあげるなら、目元が少しきりっとした点か。そのせいか目力が増して大人っぽい印象を受けているのかもしれない。
「大変でしたね、先輩も」日向子は半分呆れた感じで笑った。「今までの人生で一番濃密な時間を過ごしているのではないですか」
「あ、うん。それはそうなんだけど……」どことなく現実感のない日向子に対して遠藤は戸惑う。
「何でもおっしゃってくださいね。先輩の質問への回答は完璧にしてありますから」
「何でも?」
「何でも」
「うーん」困り果てた遠藤は質問を重ねた。「まず、君、というかあなたは本当に日向子ちゃんですか」
「さっきも答えましたよ、それ。私は正真正銘林日向子です」
「その顔つきは?」
「ここはタルトピアでもケーレスでもありません。イレーネです。イレーネにおける私林日向子は二七歳ですから、表情が大人びているのも納得していただけると思います」
「ここがイレーネだって?」思わず遠藤は大声を出した。「いい加減に疲れた」
「そんなこと言わずに」
「ってことは、日向子ちゃんは転移ができるの?」
日向子はすっと立ち上がり遠藤の隣へと腰掛ける。
「ちょっと」
「良く気が付きましたね」日向子は微笑んだまま言う。「平凡な日常が壊されてストレスが溜まっているのはわかりますが、聞いていてくださいね。相槌も忘れないように」
「わかったよ……」
「最初にイレーネ、と聞いて先輩は少し顔をしかめましたね。何故ですか?」
「タルトピアがイレーネからの侵攻を受けて壊滅的になってるから、だと思うけど」
「具体的にはどのような侵攻がされているのですか?」
「タルトピアの地球の人々に強制的にイレーネから工作員が転移して破壊活動が行われた結果、タルトピアは地球規模で甚大な被害を受けたんだ。だから、どうにかしてそれを止めなきゃいけないってことになって、みんな頑張ってる」
「イレーネから侵攻されているという根拠はあるんですか?」間を置かずに日向子は質問する。
「は?」
「根拠ですよ根拠。先輩がその特異な体質を活かして止めるべきイレーネの侵攻というのは本当に存在するのでしょうか」
「いきなり何言いだすの……」
「先輩は、突然見知らぬ世界に来て、そのまま相手の言うことを信じているんですか、と聞いているんです」
「それは……」遠藤は返答に窮した。
日向子は首を傾げている。
言われてみれば、日向子の言うことは間違っていないかもしれない、と遠藤は素直に思った。タルトピアに来てから知らないことだらけで、ほとんど人に頼ることしかしてこなかった。もしも、夢人監察局が自分をマークしておらず、その保護を受けられなかったとしたらどうしたのだろう。あのマンションの一室で、妻ということになっている湊と訳も分からないまま過ごすことになっていたのだろうか。可能性としてはありえない話ではない。
今まで人を頼ることができたのは、ひとえに自分が宇宙転移に柔軟に対応しうる特殊な体質を持っていたからにすぎない。保護をしてくれたりこの世界のことを色々と教えてくれる人は、この特異体質によって何らかの利益を得ることを期待しているから、そうしたのだ。どこの世界に行っても、結局は人と人の関係である。今まで生きてきた世界でも、良い人もいれば悪い人もいる。騙し騙されれする世界だってあるに違いない。人は人間関係において、ギリギリの駆け引きを常に行っているのだ。全ての人が善人とは限らない。
「先輩には、その特異体質を充分に生かすため、また一歩間違えれば大変なことになるという責任感というものを持っていただきたいのです」
「何となくそれは感じてきたかな……」
「宇宙転移なんてことが個人という単位でできる代わりに、それなりのリスクもある、ということです」日向子は端末に命じてお茶を準備させた。「コーヒーのほうが良いですか?」
「それでいいよ」
「先輩が気になっていることの一つ目、ここイレーネは一体どんなところなのか」
「正解」
日向子は軽くイレーネの地球環境の厳しさについて語った。遠藤は壁から伸びてきたアームから慣れない手つきでお茶を受け取って、ちびちびと飲んだ。
「それじゃ、外は猛吹雪なわけ?」
「そうです。生身の人間が長時間活動できるような気候ではありません。それでも、人類は持ちうる技術力で生活環境を整えてきました――。話を戻しますよ。これは先輩にとっては酷な話かもしれませんが……」一度唾を飲み込んで日向子は話す。「タルトピアでの極東の全権者である遠藤昭氏、あなたの父親は危険な存在です」
日向子がそう言い終える前に、遠藤は思っていたことが胸の中から急に実体化したような居心地の悪さと、ある種諦念のようなものも感じた。
やっぱりか、と。
この光景は見たことがある。日向子の話口調、家具の配置、壁から伸びてきたアーム、桃色の照明――。
「そういうことだったか」遠藤はすべてを思い出したように言った。脳内を爽やかな風が吹き抜けていくようだ。
ようやく、自分の置かれた状況を理解できたのかもしれない。
「だから、先輩は鈍感だって言っているんです」遠藤の言葉をすぐに解釈した日向子は言った。「私は彼と一種の協定を結びました。私と彼、というよりはイレーネとタルトピアの間、といったほうが正しいですが」
「証拠は」
「あ、先輩さっきの根に持ってますね」日向子は口を開けて笑った。
遠藤は日向子のそんな姿を見るのは初めてだったので、とりあえず注視してみる。
「じゃあ、証拠を見せましょうか」
日向子は座っていたソファを飛び越えて部屋の壁に手を触れた。数秒ののち、壁面の一部が暗転し、スクリーンの機能を果たし始める。日向子が指で何度か壁を撫でると、一枚の集合写真が表示された。皆ドレスコードに従ってのことか、スーツやドレスを着こなした男女数名の姿がある。日向子は写真中央で躰を半身にして映っていた。
「これはイレーネにおける夢人委員会のパーティーの写真です。世界に対して夢人の能力を駆使し多大な功績を挙げた人間のみが加入を許される世界組織のランキングで、私は一位になりました。ほら、メダルを掲げているでしょう?」
「うーん」遠藤は日向子の言葉に先程から踊らされているような気がしてならなかった。いつもはこんなに喋らず、何か質問を投げかけてもスルーされることだってあるのに、今対面している日向子はそんな素振りも見せない。まるで別人格と話しているみたいだったが、先輩と呼ぶ声は日向子そのものなのも確かだった。
「夢人委員会は実質的にイレーネの地球を陰から支える超国家的な組織です。ランキング上位になればなるほど、世界に対する影響力も強くなります」
「それじゃ――」
「事実上のトップなんですよ、私は」
「これは信じていい情報?」訝し気に遠藤は訊ねる。
「それは先輩が判断してください。これからは自分で選択して決断していかないと」日向子の顔から笑顔がすっと消えた。「馴れ合いはこれくらいにしましょう、先輩」
「そうだな」遠藤の表情は、既に一介の大学生のそれとは明らかに異なっていた。陳腐な言葉を使えば、覚悟を決めた顔、だろうか。
「昭氏は当時、宇宙転移技術の研究開発に関わっていました。と言っても、彼自身が研究者であったということではなく、政界で宇宙転移技術の可能性を主張する一派に属していたそうです。長年の主張が認められてか、研究開発はケーレス同様、国が主導し極秘に行われるようになりましたが、いざ転移技術を確立してもそのことを公にするどころか自分の息のかかっている範囲で隠匿したのです」
「俺の親父が?」
「直接の親御さんではありませんけどね。タルトピアの先輩は、そんなことは見ず知らず、政界にいる父が鬱陶しくて仕方がないという様子だったそうですが」
「もっとこう、エリートだったりしてないの? タルトピアの俺は」
「平凡ですね」
「あそう……」タルトピアの自分に思いを馳せるよりも、遠藤は本当の父親のことを思い出していた。
意外にも、込み上げてきた感情は怒りではなく哀しみだった。
いや、それにも満たない哀れみだ。単に、情けないと思った。
「どうしました?」日向子は呆け顔の遠藤に声掛ける。
「俺が一喝入れてやらなきゃだめみたいだな、こっちのクソ親父は」
日向子はあっけにとられたような顔をした。
「あ、言葉が汚くなっちゃったか」
「それはいいのですけど……」
「俺の親父は、ケーレスの親父は刑事なんだ。まあ、知ってるよね。碌な時間に帰ってきた試しがない。小さい頃から今まで親父に遊んでもらった記憶もない」遠藤は視界のある一点を見つめながら、父・昭との日々を回想する。「小学校で作文とか書くでしょ、『ぼくの・わたしのじまんのお父さん』みたいなタイトルのやつ」
日向子は頷きもせず、ただ黙りこくっている。
「書くことがなさ過ぎてさ、今思えば担任の先生はコメントに困ったんだろうけど、『毎日家にいないほどいそがしいぼくのお父さんは、みんなのあんぜんを守っています』とか書いたよ。まあ、そんな家庭を顧みない親父だった」
「全権者としての昭氏のことは先輩はどう思われますか」
「まだ、刑事のほうが百倍マシだよ」遠藤は凄みのある声を出す。「親父と協定を結んだ手前、俺にそのことを話すのは守秘義務を破ることになるってことでしょ」
「あ、ええと……。そうですね」急に日向子は威勢が無くなった。遠藤にはそう見えた。
「その守秘義務っていうのは、正しくは何て規定されてるの」
「イレーネ・タルトピア間の技術協定の守秘義務に関する規定はこうです」遠藤の強い言葉に気圧されながらも、日向子は正確に記憶の引き出しから秘密保持条項を淡々と読み上げた。それは、日向子の行為をどこからも違反行為とするようなもので、抜け道はないように思われた。
「もう私は先輩に話してしまいました。後戻りはできません。遠藤昭が何を考えているか、どういう人間か、これから何をするつもりなのか、全てを把握することはできませんが、私は先輩に対して協力するつもりです」
「全知全能に近い頭脳、じゃなかったのかな」からかうように遠藤は言った。「それについては後々話すとして、ここらで作戦会議だ」
「作戦会議?」急にやる気を見せた遠藤に、日向子はおかしくなって口の端を上げた。
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