好きとか嫌いとか
11
翌日。遠藤がケーレスに戻ってきてから三日目。大学食堂。遠藤は決心を固めていた。タルトピアへ行かなければならない。
雨宮は柳を連れて神奈川県警へと働きかけに行くと約束してくれた。越権行為だか何だか知らないが、これで良かったのだ。一応、雨宮には工作員に察知されないようにあくまで水面下での行動を頼んだが、警察内部に工作員が紛れ込んでいる可能性は高い。その時はその時だ。もう、戻れない所まで来ている、と遠藤は感じた。
今までの人生で、これほどまでに刺激的なことがあっただろうか。人が何人も死んでいるこの状況でさえ、遠藤はそう思わざるを得なかった。自分を中心にして、大きな渦が形成され、沢山の人が動いていく。支配者の心中というのも、似たようなものなのかもしれない。自分の命令ですべての物事が動いていくのは、潜在的には誰もが体験したい感覚の一つであるような気もした。
タルトピアの実の父親、全権者である遠藤昭は何を考えているのか。未だに遠藤にはそこが読めなかった。あの様子では、支配欲に満たされているのはまず間違いないだろう、という憶測は実際に話をしてみて感じたことだった。保護区画外の住民が何の支援も受けておらず、都市の周りは荒廃しさながらポリス的国家の様相を呈していることを、昭はどう思っているのだろう。本当に、あのタルトピアの地球をイレーネからの侵攻から守るつもりはあるのだろうか。
遠藤はすぐに連絡のついたCoda部員らに大学で別れを告げてきたのだった。別れ、と言っても、遠藤自身これから何が起こるのか全く予想が着かなかったので、少し嘘をついた。目覚めてから時々目眩がすることがあり、もしかしたらまた気絶してしまうかもしれない、と。
ただ、片瀬と湊、園には本当のことを言った。この友人たちも、何らかの形でこの件に関わっている。そのことで身の危険が及ぶかもしれない、もし何かあったら、雨宮という刑事に救援を要請するように、と言って電話番号を教えた。倉持と神原には連絡が取れなかった。
「神原さんのことは知ってるのか」片瀬が小声で言った。
「うん。本人から聞いた。倉持のことも」遠藤も小声で答える。
「やっぱり、メグちゃんにも言ったほうが良いと思うわ」片瀬は湊と話している園恵美を見て言う。「知る権利はある」
「これが良く言う、知らないほうが良い真実ってやつなんじゃないのか」
「いや」片瀬は唇を噛みしめる。「それでメグちゃんが傷ついたとしても、このままよりは、ずっと良いと思うぜ。そんな、上辺だけの友達付き合いなんて、本当はするべきじゃないんだよ。少なくとも、俺たちは隠し事をするような友達でもないだろ」
「そういうのは反吐が出る、ってか」遠藤は笑う。「お前らしいよ」
「みんなさ、色んなこと考えて生きてんだよな。最近、そういうのが分かってきたんだ」
「そういうのって?」
「人を嫌うのってさ、一方的なことだろ? 嫌悪ってのは、嫌う方にも覚悟っていうか責任があると思うんよ。普通だったら、人から嫌われたい奴なんていねえだろ?」
「確かに」
「だから、嫌う方はそれなりに嫌う覚悟をしなきゃダメなんだ。それができないんなら、少しでもそいつの良いところを見つける努力をすべきだ」片瀬は少し息遣いが荒くなった。
「無責任にうやむやなまま人間関係を終わらせるのはおかしい、って言いたいのか」
「あー……。たぶん、そういうことなのかもしれない」片瀬は、まとまらなくてすまねえ、と言って笑った。
「メグちゃんに、伝えてくれるか? 本来は神原が自分で言わなきゃいけないことなんだろうけど」
「俺から言っていいのか」
「もう俺は行かなきゃいけないから。俺と湊は席を外すよ。湊には俺から言っておく」
そう言うと片瀬は鼻を鳴らして、少し困ったような顔をした。
「この際言っておくけどさ、湊のことどう思ってんだ」
「湊? 幼馴染として? それとも友達として――」
「ああもう。じれったいわ」片瀬は立ち上がって遠藤を食堂の片隅まで引っ張っていく。
「何あれ」と、園。
「隠し事じゃないの? やだね、いい年して」湊が笑う。
食堂はまだ昼時ほどの騒がしさではない。窓際まで来て、薄っすらと空一面にかかる雲から柔らかな光がおりているのが見えた。
「何だよ急に」続きを促す遠藤。
「まだわかんないのか? 湊はお前のことが好きなんだよ」
数秒の静寂。
「……は?」
「は? じゃねえよ」片瀬は目を細める。「これはお前が三年間、いやもっと長い間かもしれないけど、気づかなかった真実だ」
「え、嘘だろ?」遠藤はまた片瀬の上手くもない冗談の一つかとも思ったが、違った。
「いつ気づくかな、ってずっと言わなかったけどな。お前がよくわかんないことに巻き込まれてこの先どうなるかわからないから」
「いつからだよ……」
「気づかないお前がどうかしてるわ」
それだけ言うと、片瀬は湊と園の下へつかつかと歩いていく。
「悪いんだけどメグちゃん、ちょっと話があるからこっち来て」
「えー? なになにナンパかい?」はにかみながら園は答える。
「そんなんじゃないって。からかうなよ」
いそいそと食堂を後にする片瀬を園は追いかけた。
「二人とも今日はどーするの」扉を半分開けたまま園が訊いた。
「すぐ帰るよ」と、遠藤。
「んじゃ。ナンパされに行ってくる」園はくしゃっと笑って食堂から出て行った。
残った湊と目が合う。先程の片瀬の言葉が耳からこびり付いて離れない。
他でもない、湊が。
他でもなく、俺を。
「修ちゃん」湊がぽつりと呟く。
「な、なんだよ」
「片瀬君から聞いちゃったかな」伏し目がちに湊は言う。「ちょっと外、歩かない?」
大股で歩く湊についていく形で、大学を出て、近くの河原まで出てきた。河原と言ってもそこまで川は大きくないため河川敷のような広さではないが、秋に移ろいゆく自然を感じるには充分な開放感がある。河原まで来るまで、一部の木々の葉が薄黄緑に染まっているのに気づく。夏の気怠さに冬の凛とした寒さを少し混ぜたような、強い風が吹いている。爽やかな秋晴れの空。
「修ちゃん、鈍感すぎるんだもん。ほんとに」
「……ごめん」
「いつから我慢してたと思ってるのって。普通気づくって」
「ごめん」
「あたしくらいしか修ちゃんのこと良くわかってる子いないんだよ? まあ、それ鳴らそうともうちょっと強引にしてれば良かったんだけどね」
「ごめん――」
「それ以上」湊は振り返り、言う。「それ以上言わないで」
「でも……」
「いいの。最初から分かってたことだもん。世の中には、神様が決めた組み合わせっていうか、運命ってあるんだと思う」
湊は足元に広がる小石の中から適当なものを拾って、投げた。燦々と降り注ぐ陽が反射され輝く水面に、小さく飛沫が上がる。
「修ちゃんは、日向子ちゃんのことが好きなんだよね」水面を見ながら、湊は言った。「これから日向子ちゃんを助けに行くとか、おおかた、そんなところでしょ?」
「そんな大層なことじゃ……」言葉を選べなくなって、苦し紛れに遠藤は否定する。
「日向子ちゃんが無事戻って来れるといいな。責任重大なんだからね」
「……うん」
「こんな時に色恋の話とか不謹慎だって叱られるかな」湊は飛沫が上がった場所を見つめて、言った。「ほら、修ちゃんがそんなんじゃ日向子ちゃんは戻ってこないよ」
「なあ、湊」遠藤は久しぶりに湊の名を呼んだ気がした。
「何? 言い残すことがあったら――」
遠藤は、湊の言葉を遮って、後ろから。
肩に手を置いた。
これ以上は、俺にはできない。湊の気持ちには、俺じゃ答えられない。
無責任な行動はしたくない。
無責任? ほら、まただ。
また、自分のことしか考えていないだろう。自分が酷いことをしたくない、そこしか考えていないんじゃないか。
偽善の上に俺の人生は成り立っているのかもしれない。
でも、こういう生き方しか知らないんだ。生き方をコロコロと変えるような、器用な真似は自分には到底できないんだ。
せめて、一度くらいは、自分の心に正直に生きることを許してくれ。遠藤は祈るように上下する湊の肩から手を離した。
無言。
どれくらいの時間が流れただろう。
湊が先に口を開いた。
「嫌になっちゃう」
湊は振り返らない。
湊の体は、震えていた。微かに。
「どうすればいいかわからない」
「日向子ちゃん、無事だといいね」か細い声で湊は言った。
「そうだな」
「すぐ行くの?」
「そのつもり。もうこっちでやることもないかなって」
「あたし、最近情緒不安定気味だったじゃない? あ、修ちゃんは知らないか……」
「何となく、わかる」
「今まで、修ちゃんに頼りすぎてたんだって、ようやく気付いたの」
「重荷に感じるようなことはなかったけど」
「そうじゃないの」湊は遠藤に向き直る。「これは、あたしの問題なの。たぶん。全然成長していないんだなって、やっと理解できた」
黙って遠藤は湊を見る。その瞳は、心なしか潤んでいるように見えた。
「あたし、頑張るね。修ちゃんがいなくても、何でもできるように」
「これで終わりにはならないよな」不安に駆られ、遠藤は言う。
「そりゃ、ちょっと気まずいけど……。修ちゃんが帰ってきた頃には、きっと大丈夫」
「俺も、努力してみる」
「期待はしないよ」湊は微笑んだ。「あたしは――」
突然の強風に煽られる。湊の言葉はかき消されて聞こえなかった。
正しい選択。
間違った選択。
その時にはどちらとも知れない。それでも。
それでも。
これで良かったのだ、と遠藤は心の中で言い聞かせた。
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