予知の前触れ

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 人生の夏休みと揶揄される大学生活においても、体裁上、ここはちゃんと休んでいいですよ、と夏休みと春休みがお節介にも設定されている。この夏休みオブ夏休みをどう過ごすかには、やはり学生の技量が試されるといったところだ。熱気渦巻く自室で、扇風機に母音を吐き続けているのも癪なので、日向子は、今日も図書館に足を運んだ。

 大学図書館という施設は、実に素晴らしいところである。まず特筆すべきは蔵書量だ。近所の区立図書館とは比べものにならない。文庫で出ている小説は、最近のものは少ないにしろ、読書に困ることはなさそうで、しかも、自らの興味関心にかかわることだけではなく、大学図書館ならではの専門書がずらりと並んでいる。中学校や高校のちんちくりんな図書館では得ることのできなかった知識が、ここには数えきれないほど眠っているのだ。知の探究ということにおいて、退屈することはおそらくないだろう。入学からの一年間、日向子は暇を見つけては図書館に足しげく通い、その読書欲、知識欲を満たしてきた。その努力が成績に反映されることはなぜかなかったのだが、成績という概念は日向子にとっては、極めて些末なことにすぎなかったのである。取り立てて努力するほど、成績は悪くなかったからだ。彼女の成績表には、「優」の字が整然と並んでいる。

 今日は何を読もうか、と本棚の前で思案していると、市川湊が同じ棚にやってきた。

「あ! やっぱり日向子ちゃんだ。元気してる?」

 声量を抑えて話しかけてきた。

「湊さんこんにちは。わたしは至って健康ですよ」日向子も小さい声で応じる。

「図書館に来ると毎回日向子ちゃんに会うよね。といってもあたしはあんまり来ないんだけど」

「資料集めですか。精が出ますね」

「そうなの。来期のゼミで発表するやつの資料をね。メディア論を扱ってるんだけど、マスメディアとパーソナルメディアが社会に与えてきた影響っていうの? おおざっぱにいうとそんな感じかな」湊はとても眠そうな顔をしている。

「それなのになんでまた小説コーナーに? さてはサボってますね」

「休憩しないとやってらんないよ……。こっちは暗譜で忙しいっていうのに」湊は一つ、大きなため息をついた。

 それでは休憩時間も倍かかるのではないかと思ったが、口には出さない。

 市川湊も遠藤と日向子が所属する軽音サークルの部員である。確か、遠藤先輩の幼馴染だったかな、と古い記憶の引き出しを漁る。彼女は、日向子とは正反対の活発で、明るい性格の持ち主だ。サークルでは主にシンセサイザーを担当している。遠藤修介、片瀬拓也、市川湊、林日向子は同じバンドを組んでいるが、お互い無理に予定を合わせて遊ぶといったことはしないのが常であり、その拘束の緩さが、長くやっていけるコツというか秘訣である、と各々が暗黙に了解していた。

「ライブまであと二週間切ってるし、発表なんてしてる場合じゃないと思うんだけどなあ」

「けど案外、楽しそうですよ?」

「予定が詰まってれば割と思考停止で動けるから、意外と楽ってだけよ。日向子ちゃんはしっかりやってる?」

「もう覚え終わってますのでご安心ください」あくまで毅然とした態度で日向子は言う。

「流石だねぇ。言っておくけどあたしの完成度は期待しないでね」

 舌を少し出したおどけた表情でそう言いながら文庫本を一冊手に取ると、湊は専門書コーナーの方へと戻っていった。大丈夫かなあの人……、と日向子は一抹の不安を覚えた。

 最近CMが流れるまでの話題になっているSF小説が図書館にはまだなかったので、記号論理学の本を少々借りたのち、大学生協の本屋へと赴いた。

 店内へ入ると、まだ新しい紙とインクのにおいがかすかに感じられた。日向子はこのにおいともう一つ、古本ならではの特有のにおいがとても好きで、日々そのにおいを嗅いではしみじみと悦に入るのだった。そういうわけで、彼女の自宅の本棚には、新品中古を問わず、壁一面を覆い尽くす本棚がある。ただ、トイレに行きたくなってしまうのはなぜであろうか。確か現象の名前はついていたはずだが、なぜそうなるかはわかっていないらしい。原因究明を急いでほしい日向子である。

 小説の棚のほうに歩いていくと、話題のSF本として特設コーナーが組まれ、本がタワー積みにされている。こういうのを見ると、一番下の土台から本を取り去って、タワーを崩してしまいたい衝動に駆られる。そんな些細な破壊衝動を持ち前の理性で制しつつ、その一番上から本を手に取った。

 刹那、体に電撃が走ったかと思うほどの衝撃を受けた。ひゃっ、と一瞬声をあげてしまったので、店内にいるほかの客からじろじろと見られている。

 既視感だ。

 しかしそれは今まで日向子が経験したことのないほど鮮明で、現実感のあるものだった。

 普段見るような類のものではない。あるはずのない記憶がしっかりと頭の中に植え込まれたようなそんな感覚。

 その世界では、今私が手に取った小説が、SFいう扱いではなかったものの、同じくタワー積みにされていた。わたしは、それをレジに持っていくと、なにやら静脈認証をするような機械に手をかざした。と同時に感熱紙のレシートが自動的に吐き出され、買い物が終了した。その後、大学生協を出て校門のほうに歩いていく。すると、同じサークルの一個上の先輩である遠藤修介が、所在無げに突っ立っているのが見えた。授業もとっくに終了しているこんな時間に、何をしているのだろうと不審に思ったが、とりあえず声をかけてみる。

「先輩!」聞こえていないようだ。

「修介先輩!」手を振りながら叫んだ。

やっと聞こえたらしく、振り返ってこちらを見る。わたしを認識したのか、小走りで駆け寄ってくる。

「お久しぶりです。そういえばキャンパス内では会わなかったですね」

「キャンパスも違うし学部も違うから、こんなもんだと思うよ」

修介の顔には、明らかに驚きの色が滲み出ている。いきなり名前を呼んだのはまずかったか。

「先輩は今日は何しにこちらへ?」

「特に、用っていうのはないんだけど。そっちは?」

「私も特に。ちょっと図書館になかった本を買いに生協まで行った帰りです」

わざと素っ気なく答えた。

 大学に入って以来、ふとした仕草や態度が男子大学生の琴線に響くようで、変に好意を持たれることが増えた気がする。誤解しないで頂きたいが決して自画自賛ではない。私はそんな無粋なことはしないし、じろじろ見てくるけしからん輩が増えたというだけのことだ。

 その後、何故だか学生街に飲みに行く場面までが、頭の中を駆け巡った。

 文庫本に手を触れた瞬間、そんな光景が超スピードで再生された。


 ふと我に返ると、手に取ったはずのSF小説が床にあった。驚きのあまり落としてしまったのかもしれない。二、三秒しか経ってないようで、その間を不審に思ったのであろう、棚を整理していた店員に大丈夫ですか、と当惑した顔で尋ねられた。

 少しボーっとしていただけです、と苦しい言い訳をしつつ、店員に遠慮されながらも床に落としてしまった本の代金を支払って本屋を出た。

 今のは果たして何だったのだろうか。

 まるで、何かがきっかけで予知能力を獲得してしまった、SF小説の主人公みたいではないか。わたしは主人公というよりは、むしろそのサポート役というか、たまに出てきて重要なアドバイスをして去っていくような、補助役的立ち位置のほうが好きであったので、あまり嬉しくはない。もう暗くなったキャンパスに出ると日向子はゆっくりと歩き出した。警鐘を鳴らすかのごとく脈打つ鼓動のリズムに逆らうようにゆっくりと歩いた。そこで初めて日向子は自分が酷く動揺していることを実感した。

 前にもこのようなことがあった。いつだっただろう。

 何か見てはいけないものをのぞき込んでしまった気分。

 何か別のところとつながったような。

 そう、リンクだ。許されざるリンク。

 日向子にはまだ、本能で実感している、この感覚や気持ちを表現するに十分な整理が行われていなかったし、潜在意識という大海の奥底に沈殿した記憶が、変化した海流によって、少し巻き上げられた程度にすぎなかった。

 しかし、この時点ですでに、車輪は回り始めていたのである。まだ透明ながらも堅殻な軸を中心にして。

 日向子が本屋から出て校門のほうに歩いていると、遠藤修介が突っ立っていた。どこを見るというでもなくぼんやりとしている。

 このとき、ふわふわとつかみどころのない疑念が日向子の中で確信に変わった。まさしく、先ほどの予知夢ともなんとも言い難い映像の場面が、今、目の前に再現されている。日向子にとってそれは怪しむことよりも、なんとも面白いことが起きるものだと好奇心を優先させるのに十分であった。

 このあとの出来事が、フラッシュバックの通りに進んでいったことは言うまでもないが、日向子は、それよりむしろ別のことを考えていた。ヴィジョンの利用の仕方によっては、もっと毎日を楽しむことができる。そのためにはまず、このヴィジョンが、どのような条件下において発現するものであるかを調べ上げなければならない。原因には、必ず結果があるのがこの世界の大原則であり、それが証明できないものは、魔法やら怪奇現象やらの胡散臭いグループにまとめて括られてしまう。かの有名なヴィトゲンシュタインも黙ってしまうだろう。

 そんなこんなで日向子は自らの好奇心を満たすため、ヴィジョンのサンプル数を増やすため、しばらくはヴィジョンを見ても、特にいつも通り自由気ままな生活を継続することにした。

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