研究員の憂鬱
5
数日後、雨宮は科捜研にいた。先日の遺体の検死結果が出た、という報告を受けたためである。神奈川県警本部メインエレベータで一階まで降り、入り口とは反対側にある地下専用エレベータまで長い廊下を歩いて乗り換える。地下二階から地下四階の全てが神奈川県警察科学捜査研究所だ。現在は普段使いのエレベータが故障してしまっているので、貨物運搬用のエレベータを代用するか、階段を使うかしかなくいささか不便である。今日も、電機会社の職員が修理に当たっていて、「ご協力よろしくお願いします」という黄色の看板が、エレベータの横に立て掛けられていた。
受付という受付もなく、ガラス張りの研究室に挟まれた廊下を突き当たりまで進む。途中、同期で入った鑑識の知り合いが研究員と話している姿が目に入ったが、雨宮は一瞥しただけで、セラミックタイルの敷き詰められた廊下を、音を立てながら歩いた。ノックをしてから部屋に入ると、死体を覗き込むようにしている白衣姿の男性が振り向いた。
「いらっしゃい」小倉は我が家に客人を招くような大仰さで出迎えた。「どうぞそちらに」
研究室にしては珍しく革張りのソファが部屋の奥に置かれている。先ほど死体かと思ったものは、プラスチックで作られた、上半身と頭部の精巧な人体模型であった。雨宮はどさっと腰から座り込むと、鞄から今回の事件の概要を簡単にまとめた捜査ファイルを机の上に出した。
「急に呼び出して申し訳ないですね」
「いえいえとんでもない。同じ建物の中なんです。いつでもどうぞ」
雨宮は、この小倉という研究員には、割と好印象を持っている。無精髭を生やして黒縁の丸メガネをかけているこの男は、風体こそあまり良くないものの、人を受け入れる寛容さと、過干渉を避ける性格が一見矛盾を孕みつつも、適度に溶け合っている。人当たりの良さは抜群であるが、群れたり馴れ馴れしい側面がないため人との距離を一定に保とうとする意思が感じられ、それが雨宮には合っていた。
「結局、外因的な遺体の損傷だけでした?」雨宮は、早速本題を持ちかける。
「そうなりますねぇ、といいたいところなんですが、司法解剖を進めていくうちに、ある内因的な損傷が見られました」小倉はインスタントのコーヒを二人分、机に置きつつ言った。
「内因的な損傷……? 刺し傷以外に死亡の原因があったということですか」雨宮は淹れたての、まだ熱いコーヒを手に取る。
「いえ、それがそういうわけじゃなかったんです」小倉は待ってましたとばかりに否定した。「あの状況、雨宮さんは最初どのようにお考えになりました?」
「一見したところでは、自殺には見えませんでしたね」
「それはなぜ?」
「まず、玄関の鍵が開いていました。自殺であれば、まあ、すぐに自分を発見してもらいたい等々の理由から鍵をかけない人もいるかもしれませんが、大体の場合、密室であることが多いように思います。これはもちろん、すべてを二分できるような条件ではありませんが……。それに、被害者の部屋に落ちていた凶器からは、指紋は一切検出されませんでした。それは小倉さんもご存知ですよね」
「台所には、被害者が日頃使用していたと思われる包丁も見つかっていますしねぇ。あれは外部から持ち込まれたものとみてまず間違いはないでしょうな」
「被害者の部屋がとてもきれいな状態であったのが引っ掛かりますが、被害者と親しい間柄の人間であればこの点は簡単にクリアできますね。どちらにせよ、自殺の可能性よりは、他殺の可能性のほうが高いことは確かだと僕は思っています」
「この条件だけではこれくらいの予想で打ち止めでしょうな。そこで、さきほどお話に戻るわけです。えーっと、この辺りに確か……」デスクの上の大量の紙の束の中から何枚か引き抜いてこちらに差し出した。煩雑そうに見えて、実は彼にだけ書類一枚一枚の位置情報が見えているかのようだ。
「これが遺体の頭部のCT画像になりますね」
机上に並べられたCT画像にはくるみが半分に割られたように、脳内の様子がモノクロで映し出されていた。
「ここを見てください」小倉は、一番手前にあった画像の中のうちの一つを指差す。
「この、後頭部の方、ここって小脳って言うんですけどね、ほらこの白い点分かります?」頭部を上から輪切りにしたものと、横から輪切りにしたものが並んで表示されており、素人にもわかりやすく、順序立てて小倉が説明し始める。
「ぼやけてますけど他よりも白いですね。こっちの写真の白いモヤみたいなのは?」専門外のことを知るのは意外と面白い、と思いつつ雨宮は積極的に質問する。
「さすが雨宮さんですねぇ。勘が鋭いですよ。」小倉はずいぶんと嬉しそうだ。「こっちの写真は今のとは撮ってる位置が違いましてね、大脳が主に映る位置からの画像になります。この白いモヤのようなものは端的に申しますと出血です。ええ。遺体をMRIにもかけてみたんですが、頭部の脳内出血以外には異常は見つかりませんでした。頭部の出血箇所はここの二つだけです。これが死因と見られます」小倉はこちらに向き直ってそう言った。
「被害者はただの脳出血で死亡した、そういうことですか」
「はい。ただの脳出血です――。なんてことはありませんでした」
「……じゃあなんで血まみれの包丁が落ちているんですか? 胸部からの出血も見られたのでしょう?」雨宮は一息で疑問を投げかけた。全く意味が分からない。
「まあ焦らないでください」小倉は雨宮の疑問を片手で制する。
「一般的に脳出血というのは原因が高血圧であることがとても多いです。高血圧の方は、常に血管に高い圧がかかっている状態です。特に、脳のとても細い動脈の毛細血管では、この血圧により動脈壁という圧力に耐えている壁がもろくなってきてしまって、弾性がなくなってきちゃうんですね。それで、いわゆる動脈硬化って言われるもので、血管がこぶ状にふくらんできちゃうんですけど、やがてそれも高い圧に耐えられなくなって破裂、脳出血に至るわけです」小倉は適度に冷めたコーヒを口に含んだ。
「はあ」雨宮は聴覚で拾ったデータを脳内で咀嚼しながら頷いた。
「ここまではよろしいですか?」
「てことは、もともと被害者は高血圧だったと」雨宮が言う。
「それがねぇ、雨宮さん。彼、低血圧なんですよ」
「はい?」雨宮は小倉の意図がわからず少し大きな声が出てしまって俯く。
「例外もありまして、先天的な血管の脆弱性ですとか、過度な感情の高ぶりなど、原因はたくさんありますが、血圧が正常値以下の人でも、脳出血は起こりうるということです。前者のような傾向はみられませんでしたが……。ですから、今回のケースでいいますと」
「力んだり、感情の高ぶりとかで突然血圧を異常に上げる何かがあった……ということですね?」恭しく雨宮は聞いた。
「そこを調べるのはあなたたち刑事さんの仕事ですからね。私にはあまり興味のないことですよ」冷め切ったコーヒを飲み干すと、小倉は自分のデスクの上の紙束を漁り始めている。
小倉の言う通り、被害者は低血圧の人間にもまれに起こりうる脳出血による死亡の可能性が高いのだろうか。それではいったいあの胸部の傷を創出した刃物は何だったのだろう。指紋や何か所有者を限定できるようなものは付着しておらず、刃物自体も大手量販店などで簡単に入手できるタイプのものであった。まだその回答を小倉からは聞けていない。
「刃物についてはどう説明できますでしょうか」
「心臓が停止し、人体の血液循環がほとんどなくなると、その後の損傷による出血というのは通常ほとんどないといってよいでしょうね。しかし、今回の場合は、凶器の刃物が被害者の部屋に落ちていましたので、死ぬ前に抜かれたのか死んだ後に抜かれたのかということは、あの少ない出血量から推察するに後者の可能性がありますが、それだけではまだ何とも言えませんねぇ」小倉は書類の山を漁りながら言った。「ああ、あったあった。これが、一応の報告書と言いますか、解剖の結果です」
「ありがとうございます。一応、小倉さんの私見を聞いておきたいんですが」雨宮は自分の鞄からファイルを取り出して報告書をしまう。
「うーん…。興奮しちゃったんじゃないんですか。いかがわしいサイトとか見てて」
「そんな記録はありませんでした」
少し、質問をした自分を顧みながら、雨宮はため息交じりにそう言った。研究者は皆こうなのだろうか。真面目なのか不真面目なのか判断しかねる。
上の捜査本部に戻る時間までだいぶ余裕があったので、現場にもう一度行ってみるか迷った。
誰がわざわざこんな状況を生み出したのだろう。自殺の線が薄いことは明確になりつつあったが、もし仮に、この状況を創出した者がいたとして、何かそうしなければならない特別な理由があったのであろうか。特に観測できるようなメッセージが残されているわけでもなく、死因のはっきりしない死体だけがぽつんと取り残されている。はたまた何らかの事件の隠ぺいなのであろうか……。
ループする思考回路から逃れるために、雨宮はもう一度現場に行ってみることにした。現場はここから車でそう遠くない。というかとても近い。
小倉に挨拶をして部屋を出ると、雨宮は無機質な廊下を再び音を立てて歩いた。
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