エピローグ

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 台風一過の夜。渋谷スクランブル交差点。足元のコンクリートにはどこからか流れ着いた落ち葉がぴたりと張り付いている。赤色のLEDが青に変わり走り出すと、四方八方から人並みが交差する。これだけの人が行き交う中よく誰もぶつからないな、とぼんやりと思う。

 交差点を渡り、道玄坂を上っていく。時刻はすでに夜八時を回っているというのに、この街は人で溢れかえっている。

 なるほど眠らない街と揶揄されるのも納得だ。会社帰りのサラリーマン、客引きの若い男性、風俗街の角で何をするでもなく手当たり次第に人にガンを飛ばす男、露出の多いハイヒールの女、夜の風に当てられた若いカップル……。それぞれにこの街に来た目的があり、それぞれに人生がある。

 裏手に入り傾斜のきつくなる寸前のオープンテラスのブリティッシュバーに入った。店内は間接照明が多用されており、周辺の路地とは対照的に落ち着いた客層になっているらしい。

 席に着くや否や、向かいの彼女が口を開く。

「十五分遅刻」むすっとした顔で、湊は俺に文句をつけた。

「悪かったって。連絡した時間よりも仕事が長引いちゃって」両手を合わせて謝る。

「次はそういうことも連絡してよね」そう言いながら湊は三分の一程度になっていた生ビールを飲み干した。「ぷはぁー。うまい!」

「お前なぁ……」待っていられずに注文したものが生ビールというあたり、湊も何だか大人になったなぁと一人笑みがこぼれる。

 社会人になって三年。そろそろお前にも部下ができるんじゃないか、なんて直属の上司におちょくられたりもする。東京で働くようになって、一人暮らしも始めた。大学生になったときも高校との時間の流れ方の違いに驚いたけれど、社会に出てさらにいっそう日々がスピードを上げて過ぎ去っていく。でもそれが不満というわけでもなくて、できることが増えていく楽しさも知った。社会人といえども、嫌なことばかりではない。

 湊はというと、独立系のイベント企画会社で働いている。風通しがよく、コアタイム制を導入しそれがきちんと機能しているそうで、ライフワークバランスが叫ばれる昨今では、時代の潮流に乗っているのだろう。彼女も彼女で楽しそうだ。

 視線が合ったウェイターを呼んで、ジンライムを一つと生のおかわり、フィッシュ&チップスを注文した。

「だいたいね、修が昼間サボってるから残業する羽目になるのよ。メリハリつけなさいって何回も言ってるでしょう」

「そういう簡単な話じゃなくて……」

 これ以上反論すると彼女の機嫌を損なうのが分かっていたので、苦笑いでごまかす。こんな風に呆れながらお説教モードになっているときは湊は機嫌がいいのだ。

 天井近くの角に設置された液晶テレビでは、サッカーの中継ではなく国営のニュースが流れていた。『東名高速で追突事故、重軽傷者二十名』とテロップが出ている。

「そういえば、おばあさんは元気? 何年か前に高速で事故に巻き込まれかけただろ」

「おばあちゃん? 元気も何も、こりゃあと二十年は安心だってくらいピンピンしてる。私が一人暮らしし始めてからうちの親と暮らし始めて色々話は聞くんだけどさ、お母さんの家事を片っ端から奪っちゃうんだって。笑っちゃうよね」

 しぶといばあさんだな、と鼻を鳴らしてジンライムを空きっ腹に流し込む。

 原因不明の追突事故。それも同時に海老名SAあたりで起こった比較的規模の大きい事故だ。誰からもアルコール反応は検出されず、その不可解さが一時期ワイドショーを賑わせたと記憶している。死者が出ている中、偶然にもその付近を走行中だった湊の祖母の車は、運良くと言っていいのかはわからないが事故を回避した。自分の身近な人の心配をするのが人間の性だ。こればかりはどうしようもないことだと割り切った過去の自分を思い出す。

 学生時代は湊や片瀬、神原や園、倉持らとよく遊んだ。同じ軽音楽サークルに入っていたからだが、そこまではしゃぎすぎない人間が集まったグループだったのだろう。ライブのモッシュにも俺たちは自らは入っていかなかった。

 こんな調子で、過去のことを振り返る機会が増えた。それは、どんどん大人になっていく自分を、まあまあ焦るなよとなだめるために。時の速度に引っ張られる自分を、今という時に留めるために。そんな効果を期待しているが、その度にふとした違和感に襲われるのもまた事実だ。

 何か、重要なことを忘れていやしないだろうか。

 そんなことを、時々思う。

 時々、胸がズキンと痛む。

 平穏な暮らしを特にありがたがることもなく享受している俺たちは、何か見落としていないか。

 そう考える瞬間は、もしかしたら誰にでもあるのかもしれない。

 幼き日の約束。友人との決別。最愛の人は今はもう過去……。

 みんな、大切なことを忘れて、それでも小さい手のひらでまた拾い集めて。

 その繰り返しが、人生なのかもしれない。

 湊と駅で解散した後、しばらく渋谷の空を眺めていた。よく晴れている。台風の後だから、東京にしては空気が澄んで星の瞬きも見えた。

 みんな、この星屑のように、ある時は輝いて、ある時は光さえ見えないこともある。

 視界を交差点に戻しても、それは変わらない。道行く人の表情は、暗かったり明かるかったり、様々だ。

 ふと、交差点の反対側に、ある女性の姿が目に留まった。

 黒髪のロング。背中には弦楽器を背負っている。ソフトケースのメーカーからしてベースだろう。

 一言でいえば美人だ。

 その女性と、目が合った。

 鼓動が、速くなる。

 脳裏に記憶がちらつく。

 なぜだろう、この感じ。

 忘れていること――。

 もう思い出せないこと――。

 女性はこちらを認識すると、一瞬だけ微笑みをその顔に湛えた。

 信号が青になる。

 スイッチを押したように人並みで溢れる。

 俺は反対側まで無意識に走っていた。なぜなのか、わからない。頬を、暖かい液体が伝う。

 そこにはもう、その女性の姿はなかった。

 彼岸と此岸。

 彼我の星屑。

 俺たちはどうしようもなく小さいポケットに、大切なものを詰め込んで、落とさないように必死に歩いていくしかない。

 たとえ儚く、散りゆく命だとしても。



                                   (了)

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彼我の星屑 和泉 夏亮 @izumi0609

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