K

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 執務室には張り詰めた空気が充満している。その中には、今ではもう珍しい紙の本が発する鼻をつんと突く黴の匂いや、一世紀前までのお香と呼ばれるものの匂いも含まれていた。これらの装飾は、この部屋の主の趣向に基づいて収集されたものである。唯一現代的なものと言えば、デスクに埋め込まれているネットワーク端末だけである。ゼカリアに接続されており、一声で操作をすることができる。AIが組み込まれているのだ。

 Kはこの日、端末に直接の呼び出しを受けてこの執務室にすっ飛んできたのだった。特に急な仕事も抱えているわけではなかったのだが、たった一本の電話を事務の女にかけさせて呼びつけられたのだから、よっぽどの案件なのだろうと思った。そうではなかったら、上司の指示でこの男に就いているとはいえ多少のストレスになるだろうという予測もあった。

「それで、何か問題でも発生しましたでしょうか」Kは低姿勢を貫いて訊く。

「遅いぞ、何をしていた」男はKを見ずに言う。

「申し訳ありません。次はこのようなことがないように善処します」Kは深く頭を下げる。何か言っても言い訳としか捉えられないだろう。そういう男なのだ。「全権者様」

「うむ。それで、修介のことだが」

「はい、無事にこちらに転移したようです。まだ世界認識に数日かかるものと思われますが」

「そうか。できる限り急がせるように圧力をかけろ。あの男はもはや私の息子などではない。赤の他人だ。利用できる限り利用し尽くす」

「承知致しました。夢監の特派員にそのように指示いたします」昭全権者の言葉に抵抗するわけにはいかない。「ユーラシア及び北中米地域には報告はなさらないので?」

「するわけがないだろう。いずれはこの私がこの世界の頂点に君臨するのだ。そのために君の上司にわざわざ頭を下げて協力を要請したのだ。それを受諾したのだから、私の目的には最後まで付き合ったもらうぞ」昭は書類に通していた目を止めてチラとこちらを睨んだ。「不平不満は認めない」

「いえ、決してそのようなことは……」

「まあいい。迅速な対応をしろ。今の君の上司はこのわしだ」既に昭はデスクの書類に視線を戻していた。

「はい。仰せのままに」

「そうだ。忘れるところだったが、君の上司のことも話しておきたくてね」今度は眼鏡の度を調節するダイアルを回してこちらに顔ごと向けた。どうやら少し長い話をするようだ。

「何でしょうか」

「依頼を出しておいて何を言うかと思われるかもしれないが、君の上司のことについて詳細に知っておく必要があると感じてな。経歴、能力、その他諸々の周辺状況及びそちらの世界の状況についてだ。契約がもし無効となった場合の、いわば担保のようなものを用意しておかねばならないからな」チェアに反り返って昭は言った。

「そのようなことを私に言ってしまってもよろしいのですか? 仮にも私はここに使者として派遣されているだけの身です。あなたのそのような考えが私たちイレーネ側に伝わることも承知の上ですか」少し語尾を強めてKは言った。

「君がそんなことをするはずがないだろう、K。上司の、しかもこの極東の全権者たる私の命令は絶対だ。口を慎むことだ」

「失礼いたしました」

「その、毎度毎度言っているイレーネとかいう名前が君たちの世界の呼び名ということだが……、どうにも理解しかねるな。世界に名前もくそもないだろう」

「はい。イレーネ内の地球人類はこの世界よりも二百年ほど技術が進歩しています。宇宙転移の技術が確立されてから五年もしないうちに、それぞれの宇宙を別個に捉えて名付ける必要性が出てきたのです。それに、私たちイレーネの人間は元々温厚で理性的な性格です。個体差はありますが、イレーネにおける地球史でも戦争という名が付くような出来事はほとんどないに等しいのです。それは、イレーネの地球が他の宇宙のそれと比べて相当に過酷な環境であるからと分析されています。ですから、あなたたちの宇宙は――私たちはタルトピアと呼んでいますが、人類という同じ種族間で争っているのが私たちイレーネの人々には理解の及ばない感情なのです。計画的に人口を減らすということであれば少し理解できるかもしれませんが」Kは最小限の息継ぎで説明した。

「君たちには独占欲、支配欲というものがないのかね。資源が乏しいからこそ、そういう概念も生まれてくるのは当然のように思われるがな」

「あることにはあります。ですがそれがパーソナルな領域からはみ出て他人のスペースへと浸食していくことは決してありません。遺伝子レベルでそういう思考はなされないように進化しています」

「それは人工的な進化か?」

「可能ですがそんなことは考えても実行しません。今現状の自然的な進化がイレーネの地球環境を生き抜くのに最適であると考えられているからです。現在は火星にも人口は増えていますが、過酷な環境には変わりありません」

「火星か……夢のような技術力だな」昭はKの言葉を鼻で笑った。「だが私が求めているのは夢ではない。実体を持った現実だ。そんな夢のような話はまだこの世界では無理だろう。それを可能にするための世界統合だ。私が全地球人類の全権者になり人類を発展させるのだ」

「承知しております。それと、私の上司……いえ、元上司ですね、イレーネ統括局長の話は私の口からは申し上げられません。というより、部下であった私でもあの方についてはあまり知らされていないのです。ですから、どうかご了承ください」

「ふん。そんなことだろうと思っていた。君たちは怒りの感情がない代わりに人を怒らせる技術だけは立派なようだな。もういい」

「失礼します」一礼だけしてKは執務室を出た。

 別に怒りの感情がないわけではないのだ。人間というもの、喜怒哀楽は誰しもが持っている基本感情だ。負の感情が高まってくると、人類全体としての利益が損なわれるという思想が前提となって、私たちイレーネの人たちは日々努力し発展してきたのだ。そこをあの男はわかっていない。タルトピアに来てからというもの、自分の中の負の感情が物凄い勢いで増幅しているのが分かるようになったのだ。精神的ストレスが肉体にまで影響を及ぼすような値を示しているに違いない、とKは思った。このまま何の対処もしないままでいると、こちらの体がもたない、何か手を打つ必要がある。

 しかも、運の悪いことにタルトピアでのKの身分は反全権者組織のリーダーという肩書を持っているものだった。最初は代理の者を立てるつもりでいたが、昭全権者はその立場を逆に利用して奴らの監視に当たれ、という指示を出してきた。ここでKは図らずも板挟み状態となって、初めてここまで高度な心的ストレスを感じているのだ。そこには底知れぬ恐怖と、生まれて初めて感じる明らかな敵対心というものが確かに存在しており、Kはその存在を内包して宇宙を行き来する羽目になった。

 全権者委員会極東支部のビルの中を、Kはエレベーターで降りた。ビルを出てすぐに、排気ガスの匂いが鼻を掠める。ここの空気は本当に汚い。ガスマスクを着用していないのが嘘のようだ。この体は、この空気を何年も吸って生きてきたのだから今更気にするほどのものではないのかもしれないが、我慢ならない。Kの行き来しているもう一つの世界であるケーレスのほうがよほどマシである。

 車に乗ったKは再開発された市街地を通り抜けると、瓦礫のまだ残る旧市街へと出た。その一角に被害を免れた強化コンクリート造の建物がある。反全権者組織の現在の拠点だ。この先を三十分ほどまっすぐ行くと、道路が水没してしまっていてもう先には進めない。海岸線がそこまで迫ってきているのだ。もはや砂浜という砂浜は消滅し、コンクリートが徐々に時間をかけて浸食されていくのみである。この拠点からも海岸線を見ることができる。

 そんな荒廃した風景を見たのもタルトピアに来てからのことだ。建物が崩れている風景というのはイレーネの過酷な地球でも何度か見たことはあったが、ここまで広範囲にやられているのを見るのは初めてであった。これがイレーネが協力要請に応じてしまった結果なのだということ、原因の一端が自分にあるかもしれないということを、Kは今更ながらに痛感していた。拠点の窓を見ると、仲間がこちらの帰りに気づいて手を振っている。

 こちらも笑顔になって振り返す。

 全権者と通じているということをこの人たちに隠していることも、心を圧迫しているものの一つだった。タルトピアに来てこの躰が属しているグループの人々に会ったときの安心感は忘れられない。目の輝きがイレーネの人のそれと似ていた。平和に暮らしたい、という純粋な思いだけで動いている人の目だった。今もそれは変わらない。しかし、その人たちを他人とはいえ裏切っているのは確かなことだ。

 煙草に火をつけた。

 潮の匂いはここまで漂ってくる。

 煙草も、タルトピアに来て始めたものだ。元々この躰は煙草を嗜んでいたようだが、どうやらケーレスのほうの自分は吸っていないらしい。ストレス緩和のために吸ってみてはいるものの、効果のほどは定かではない。

 ふと、海のほうに顔を向けると、陽が水平線に溶けていくのが見えた。

 融解。

 調和。

 陽が水平線に飲み込まれるまで、Kはずっとその光景を眺めていた。

 十月に入り、これからだんだん暗くなるのが早くなる。

 イレーネでは、いくら技術が進歩しても、そういう自然感覚というのは人々の心に息づいていた。ここで暮らしている人たちにも、一定数その割合はいるだろう。

 先程までの思考を脳内に呼び戻し、再生し直す。他の世界に干渉することが可能になった時代。他方ではその存在すらも認識されていない。純粋に、思考の深層に芽生えつつある気持ちを意識した。

 Kはこの段階になって、ようやく葛藤している自分に気づいたのだった。

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