決意と共に

     12


 停電のあった翌日、大学の学生食堂にはCodaのメンバーが集まっていた。だいたいのメンバーが、修介と日向子が運ばれた病院に朝一で行ってきたものの、まだ二人は目を覚ましていなかった。医師は、最初の診断通り脳内に異常はないものの、若干脈拍が上昇しているということしか言っておらず、結局のところ二人が目覚めない原因はわからないままになっていた。

 片瀬拓哉は病院に寄ってからすぐで学食に来たものの、少しのあいさつを除いて一時間ほど誰とも話していなかった。ずっと椅子に座って、飲料水サーバーから汲んできた水をちびちび飲んでいるだけ。昨日、市川湊と喧嘩してしまったことが、思ったよりも精神的ダメージが大きかったらしい。話していなかったというより、誰とも話したくなかったという方が正しいのかもしれない。そのことをずっと考えていた。

 倉持からのメールで初めて湊の今の境遇を知らされた。ついこの間話していた玉突き事故で身内の不幸があった……。その事実を知らずにデリカシーのないことを言ってしまっていたのかもしれない。そんな状態なら、あの二人が倒れたときに過剰な反応をするのも無理はないだろう。そのことで自分が変に傷つく必要はない。

 そんなことではなくて、そういった境遇をなぜ自分に話してくれなかったのか、この一点のみが片瀬の心の中で引っ掛かっていた。Codaのメンバーの中でも、湊と俺、あと修介と日向子のバンドグループはかなりの仲良しということで通っているはずで、実際それを疑った試しは一度もなかった。

 昨日の、ライブが始まる前の一瞬、修介の手を握っている湊の姿を見たような気がした。あのとき、修介とも目が合った。ほんのわずかな間であったが。やはり、湊は修介に対して幼馴染以上の感情を持っているように見受けられるのだ。修介も修介で、そういう方面には何故か鈍感であるから、何の思惑もなく、幼馴染として彼女が伸ばした手に答えたのだろう。そんなことは百も承知だ。

 だからこそ、悔しい。

 これはたぶん、れっきとした嫉妬なのだろう。情けない。

 今までの人生で、結構な数付き合っては別れを繰り返してきたし、どうすれば女の子が喜んでくれるかなんて言う自己流の方法論もぼんやりとだが持っていた。

 だがこんな経験は初めてだった。

 好きな子を落とすとか、そういう低俗な次元の話ではなかったのだ。自分の中では。

 同じ時間を過ごしていることが幸せであった。

 湊の輝くような笑顔を見るのが好きだった。

 もしかしたら、そんな光景はこのメンバーありきのものだったのかもしれない。

 つい、思考がネガティブなベクトルを向きがちになるのを片瀬は感じた。

 こんなことを考えていては、いつまで経っても湊に顔向けできない。少しでも自分のやるべきことを模索しようと思った。

 ふいに、視界の大部分に入ってくるものが見えた。手を振っている。

「あ、片瀬」倉持がいつの間にか目の前の席に座っていた。顔の前でぶんぶんと振っていた手を引っ込める。「何ぼうっとしてるの?」

「倉持かよ。脅かすなって」片瀬は目を細めた。

「湊ちゃんのこと考えてたでしょ」口角を上げて倉持は言った。

「悪いかよ」

「いーや? 妥当だと思うけど」

「あんまり深く考えすぎも良くないんじゃないの」

「え?」

「湊ちゃんだって、片瀬と仲直りというかけじめをつけたいんじゃないかな。あの子そういうとこちゃんとしてるイメージっていうか」生協で買ってきたチョコを食べながら倉持は言った。

「知ったような口ぶりだな」相変わらず、この男はふわふわしていて掴みどころがない、と片瀬は思った。「一個くれ」

「はいよ」倉持は一粒のチョコを手渡した。

「にっがい」

「カカオ八十%だからねぇ。最近はまっちゃって……ってあれ湊ちゃんじゃない?」

 倉持が見ている方向に顔を向けると、バツの悪そうな感じで食堂に入ってくる湊と目が合った。

「湊ちゃんおはよう」倉持が明るい声を出す。

「お、おはよう」倉持を見た後、片瀬のほうにも向き直って一言。「おはよう……」

「おう……」片瀬はタイミングというか心の準備が全くできていなかった。「昨日はその、すまなかった」

「私の方こそごめん。今はもう落ち着いた」

「倉持から聞いた。祖母さんのこと……。俺、お前のこと何にもわかってないで、行動しちまってたんだ。ほんとに、ごめん」

「そう……。もう話は広まってるんだ。聞かれちゃってたかな……。でもこれは個人的なことだから、みんなに迷惑かけたくなかったの。ごめんなさい」斜め下に視線を逸らして湊は言った。

「まあまあ、湿っぽい話はこれで終わりね」倉持はぱんっと手を打った。「この後人と会う約束なんだけど、二人とも来てくれるよね?」

「約束?」「誰と?」湊と片瀬が同時に言う。

「日向子ちゃんの親戚の、柳仁志教授」そういうと荷物をまとめて倉持は席を立った。「ついてきて」

「わ、わかった」片瀬も準備して湊と共に後に続く。

 キャンパス内はちょうど昼休みで学食に流れてくる学生でいっぱいだった。人波に逆らうようにして倉持たちは理系区画の研究棟へと歩く。

 太陽光の良く射し込む手入れされた林の小径を抜け、研究棟へとたどり着いた。まだまだ気温は低下してくれず、少し汗ばむ。

 研究棟に入り、一行は柳教授の部屋を訪ねた。倉持がドアをノックすると、中からはい、と返事があった。

「先日ご連絡していた倉持です」余所行きのしっかりした声で言った。

「どうぞ」

 通された部屋は雑然としていた。煙草の香りが少し残っている。メインデスクを見遣ると、数本の吸い殻の入った灰皿があった。

「この度はお時間頂きありがとうございます」

「まあ、そう硬くならないで座って」柳仁志教授はワーキングチェアを回転させてこちらに向き直った。「コーヒー飲みたかったらそこのコーヒーメーカー使って」

「あ、私淹れますね」湊が率先して作業に入った。「先生は要りますか」

「もらおうかな。その後に自己紹介をきちんとしよう」柳は優しく笑う。

 片瀬は未だここに自分たちを連れてきた倉持の考えが分からずにいた。倉持が言うには、林日向子は柳教授の姪にあたるということだ。確かに、一日が経過した今でも林日向子や遠藤が目を覚まさずに病院で静かに眠っていることには少し不安なところもあるだろう。

 医師のほうも、なぜこの子たちが目を覚まさないのかその原因が良く分からない、もしかしたら彼らの中の精神的な部分で何か問題が起きているのかもしれないが、私が精神科医であったとしてもこの状態ではどうすることもできないであろう、とだけ言ったのだった。

「改めて自己紹介としよう。私は柳仁志、理工学部の准教授をやらせてもらっているよ」

「どうも今回はありがとうございます」倉持は重ね重ね礼を言った。「こっちは片瀬拓哉、コーヒーを淹れているのが遠藤の幼馴染の市川湊です」

「お邪魔します」片瀬と湊は同時にお辞儀をした。

 湊が人数分のコーヒーを持ってきた。

「今日は、それで、どういったご用件かな」柳は淹れたてのコーヒーを啜った。

「先生の姪にあたります、林日向子さんのことについて詳しくお話をお聞きしたいんです」

「予想はしていたけど……どうしてかな」

 片瀬と湊はこれから何が始まるのか不安げな表情で二人の会話を黙って聞いている。

「はい。昨日の停電の影響か、その原因は定かではありませんが、僕たち軽音サークルCodaの部員が気を失って病院に運び込まれました。ご存知の通り遠藤と日向子さんです。彼らは停電直前までステージ上にて演奏の真っ最中でした。急に照明が落ちて、気が付くと彼ら二人はステージから落ちて倒れていたんです」

「僕のところにも病院から連絡があった。幸い、目立った外傷はなかったみたいだけど」柳は胸ポケットから新しい煙草を取り出して、火をつける。「いくら停電とはいえ、この事故は君たちの監督不行届ということじゃないのかな?」

「その点は……申し訳ありませんでした」倉持は一瞬ペースを落とす。「ですが、私たちとしましても迅速な対応をしたつもりです。市川が救急車の要請をすぐ行った事実を認めていただきたいです」

 湊は、何の話をしているのかさっぱりわからなかった。

「君たちを責めているわけじゃない」

 倉持の言葉を受けて、柳の視線が湊へと移る。

「そうか君が……遠藤君の」柳はしげしげと湊の顔を見つめている。

「修が……どうかしましたでしょうか?」

「ああ、いやね、日向子からよく聞いていたからね。君たちのことは。彼女は早くに両親を亡くしていて、そのあとすぐ祖父母も他界して……。ほとんど僕が親代わりのようなものだったんだ。中学校までは塞ぎがちで無口な子だった。家族団らんで話すようなこともなかったよ」天井へ煙をゆっくり吐き出しながら、柳は続ける。「それで、僕も少しは彼女の性格のことを心配していたんだけど、高校に入ったら割とよく話すようになったんだ。よく話すと言っても、今までがほとんど口もきかないような状況だったから、周りからはごく普通の女子高生に戻ったって感じに捉えられていただろうね。ご両親の影響か、読書も良くするし、成績はだいたいオール五に近いものを毎回取ってきたし、いい子に育ってくれたと今でも思ってる。彼女が大学に入ってから、君たちと出会ってあったこと、話したこと、沢山話してくれた。もちろん、もう小さい頃みたいに一緒に暮らしているわけじゃなくて彼女は一人暮らしをしているけれど、時々会うとそんな話を聞かせてくれた。だから君たちのことは大体知っている」

「そうだったんですか……」湊は日向子の知らない一面を聞くことができて、少し嬉しかった。あれでも喋るようになった方で、よく私たちのことを見ていたという安心感と先輩としての誇らしさがこみ上げてくるようで頬が緩んだ。

「初めて知りました」片瀬も同じような気持ちになっているのかもしれない、とその横顔を見て思った。

「だから、まあ、君たちの関係性を彼女を通して僕は客観的に知っているわけだけど……、まあこの話はよそう」

「あの、私、柳先生にも言っておきたいんですが……私が迅速に行動したっていうのは、別に私が率先してそういうことをやる人だって言うことじゃなくて……おばあちゃんのおかげなんです」湊は物憂げな表情が顔に出そうになるのをこらえて、優しく微笑んで言った。「こないだの玉突き事故でおばあちゃんは亡くなっちゃって、それを私が乗り越えてないときに二人も身近なところで倒れたからもうパニックになっちゃって……。それで拓哉にも当たっちゃって」

 片瀬は開いた口が塞がらずただ湊を見つめていた。

「でも君がすぐ救急車を呼んでくれたことには変わりはない」煙草を一本消費して、柳はそう断言した。

「はい……。でも私もう大丈夫です。きっと日向子ちゃんも修もすぐ目を覚ますと思います」湊は爽やかな笑みを浮かべて柳に言う。

「そう……。これからも、日向子のことをよろしく頼むよ。遠藤君にもよろしく言っておいて」

「わかりました」

 片瀬はふと、倉持を見た。すると彼は微笑みを返してきた。

 彼は、ここに湊を連れてくればこうなることを最初から予期していたのではないだろうか。そして柳教授も、事態の何らかの好転をわかっていながらこの約束を了承したのではないか。片瀬にはそう思えて仕方なかった。もしそうだとしたら、倉持はとんでもなく頭の切れる人物だ。そう思うと、普段の倉持のフワフワしたキャラとのギャップに少しにやついてしまう自分がいた。

「片瀬くんも、よろしく」柳が言った。

「今日はどうもありがとうございました。日向子さんが目を覚ましたら、その時またお会いしましょう」

「はいはい」

 柳の研究室の滞在時間はわずか十分ほどであった。それなのに、わだかまりはもう消えている。湊とも普通に喋れるようになった。

 文系学部の区画まで戻り、その日はそれぞれの用事を優先して解散となった。

 くすんだ茶色の落ち葉が風に揺られて足元を抜けていった。

 その風がとても心地よく片瀬には感じられた。

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