夢人であるということ

      10


 一時間後。

 こんな話があってから、ふと遠藤は雨宮にされた仕打ちを思い出した。急に緊張がほぐれ、それと同時に胸がむかむかしてきたのだ。

「ほんとにしっかりしてくださいよまったく」遠藤はもらった煙草をぷかぷかさせている。

「わかったって。もうそろそろ行くんだろ? 精神を落ち着かせないとよぉ」雨宮は頭を掻いている。

 さっそく宇宙転移の準備をする、ということで柳は書斎の奥の部屋へと引っ込んでしまった。端末の調整に一日かかるらしい。それまでに、この世界の真の姿を目に焼き付けなければならない。

「そういえばこっちじゃ煙草ってレアものなんですか?」遠藤は早坂に訊ねた。先程の会話から気になっていたからだ。

「そうね。売ってないわけじゃないけれど、そんなに大っぴらには売っていないし、一箱一五〇〇円するわよ。私禁煙してたのに……、局長貯めこんでたのね」

「一五〇〇円……。喫煙者には世知辛いですね」

「WHOが規制をかけてるのよ、世界的に。少しでも多くの人が生き残らなければいけないとかいって。お酒とかその他諸々の嗜好品も規制対象。それでも買う人はやっぱり買うし、転売なんかも横行してるから、結局は自分たちが私腹を肥やしてるだけなの。こんな世の中になっても最後は自分がかわいいのね。嫌になるわ」

「そんなことがあるんですね」半分ほどになった煙草を見ながら遠藤は言った。

 この世界に来てまだ一日も経過していないが、それでも自分の全く知らない所に来てしまったということを様々な、細々したところからも感じる。よく観察してみると、早坂と雨宮が着ているスーツも通常のものと形が少し違って燕尾服を軽くイメージさせるようなラインになっているし、今くつろいでいるロビーも、元の世界ではあまり見ない構造で、どこか落ち着かない。しかも、先程の話では親父が日本のトップに君臨しているという突拍子もない事実も聞かされたばかりだった。そうなると必然的に自分は全権者の息子ということになるわけだが、あまりそのような良い待遇を受けているような感じはしなかった。元の世界ではそこまで親父とは仲が良かったわけではないし、別段仲良しというわけでもなく、ごく普通の平均的な家庭のはずだ。この世界での俺と親父の関係はどのようであったのだろう。この頭の中に眠っているはずのもう一人の自分は、一体何を考えてどう生きていたのか。それを知るためにも、これからもっと良く自分の目で見て、肌で感じ、声を聴く必要がある。

 だが、これでやっと遠藤は頭の中を整理する時間を持つことができたと言える。今までは状況把握だけで精一杯であったし、今でも自分がこの世界の命運を握っているなんて絵空事ではないかと思ってしまう。現実を咀嚼し呑み込めたかと言われれば、半分もできてないと答えるだろう。俺じゃなくったって誰だってそうなるはずだ。

 それに、柳にはあんな義を重んじるような、正義感に溢れるセリフを口走ってしまったが、自分でもよくあんなことが言えるな、と一歩引いた今では思う。外面や体裁を整えるということはやはり社会で生きていくには大切な技術の一つだし、今までの人生四半世紀も生きていない短い時間の中でさえ、その重要性は身に染みて解っている。年齢が上がるにつれて、表面的な付き合いというのは増加し、会話は淡泊なものになっていく。それが大人になること、洗練されていくことだという向きもあるかもしれない。それで社会が円滑に回るのであれば、なおさら必要性は高まる。

 だが遠藤はそんな冷淡さが耐えられないでいる。柳にああいうセリフを言ったのは、確かに半分くらいは本心だ。これから現実を見てくれば、その思いも強くなるだろう。凄惨な被害状況、書き換えられた海岸線。人々の生の声。

 だがしかし、もう半分ほどはそういった方が明らかに効果的であるという打算が含まれているのだ。頭の中で表層的な表現を嫌いつつも、それが実生活に対して有効であるから仕方なしに使うという矛盾を抱えているということを、ここにきてはっきり意識するようになった。

 他の人はどうやって処理しているんだろう。折り合いをどのようにつければいいのか。

 そもそもそんなことを考えもしない人もたくさんいるだろう。

 それは、考えないほうが明らかに楽だし、このように思い悩まなくて済むからそうしているということもあるだろう。精神衛生的にはそうしたほうが良いに違いない。社会で生きていく上で、考えるべきことは他にもっとある。

 少なくとも、まったく異なる世界に来てこういったことを考えることができていること自体に感謝すべきなのかもしれない。

 この思いさえも自らに対して、世界に対して欺罔的かもしれない、と遠藤は思った。

「遠藤君。これからどこへ行くつもり?」早坂は自動販売機で買ってきた缶コーヒーを飲んでいる。

「そうですね。海面上昇で水没した場所とか、できるだけ一目見て被害が分かる場所とかでしょうか」

「僕らで連れ回しましょうよ。何も知らないんだし」雨宮が提案する。

「それが一番手っ取り早いかもしれないわね」

「名付けて、危機感煽りフルコースで行きましょう」

「そんな心象悪くすることばっかりしないでくださいよ。僕の中でまだ雨宮さんの評価はマイナスですからね」

「え、そうなの」

「そりゃそうでしょうよ。第一印象最悪」

「社交性って言葉がこいつの頭の中にはないの。それを覚悟した上で付き合わないとやってなんないわよ」

「それはあんまりじゃ」雨宮は口をへの字にしている。

「あ、あと、もっとこの世界の自分のことが知りたいです」

「データベースにほとんどのことは記録されてるから、見せてあげようか」

「そういうことじゃなくて、自分が生活してたとことか、育った場所とか……。なんて言えばいいのかわからないですけど」

「生きた証をその目で見たい……ってわけかい」雨宮が言う。

「そうなりますかね」

「わかった」早坂が答えた。「とにかく、そういうことも含めて、三日もこっちにいないでも状況は把握できるわ。明日朝一で車を出すから、できるだけ多くのものを見ておいて欲しい。最後にはレポートも提出してもらうから」

「れ、レポートですか……。ちょっとできるかどうか」

「遠藤君、君もちょっと社交性足りないって言われない?」

「一回も言われたことないです」

「まあ、それは冗談として。準備しておいてね」

 はい、と良い返事をした遠藤。

 この人たちはなぜここまで陽気に振る舞うことができているのだろうか、と遠藤は疑問に思った。そんなに世界が終末的なことになっているなら、ジョークの一つも出やしない気もするのだが……。そもそもこの人たちは元々こういう性格なんだろうか。

「早坂さんも、雨宮さんも、どうしてそんなにあっけらかんとしてられるんです?」

「あっけらかん?」雨宮は豆鉄砲を食らったような顔をしている。

「柳さんもそうでしたけど、親類が意識不明になってたり、その……こんなことになってたら犠牲者が近くにいてもおかしくはないんじゃないかなって」言葉を選ぶように遠藤は慎重に言った。

「ああ、そういうことね。私も雨宮も大切な人を亡くしている、って回答でいいのかしら」

「――ごめんなさい」

「いいのよ、別に。犠牲者が多すぎて、ずっと気に病んでるわけにはいかないの。心理状態が悪い人には専用の施設からカウンセリングを受けられるようになってるから、みんなそういうのも利用しながら乗り越えてやってるわ」

「そんなに……簡単なことなんでしょうか」遠藤は元の世界で湊に言われたことを思い出していた。「市川湊ってご存知ですよね。なんかこっちじゃ僕の妻になってるみたいですけど」

「知ってるわよ。あくまであなたの配偶者っていうデータ上のことだけれど」

「こっち来る前に、少しあいつと話したんですよ。どうやら交通事故で湊のおばあちゃんが亡くなってたみたいで。その交通事故がニュースとかワイドショーで報道されてたんですけど、事故の当事者たちが口々に白昼夢を見たって証言してるんですって」

 早坂と雨宮は同時に顔を見合わせた。

「その事故が起きた場所は……?」早坂は恐る恐る質問した。

「だいたい、海老名とか言ってたと思います」

「近い……」

「ひょっとしたら、僕の他にも夢人の能力がある人は大勢いるんじゃないかって。それと、そんな現象が起きたのってやっぱりSエネルギーが関係しているんじゃないかなって」遠藤の表情に陰りが見えた。

「何が言いたいんだよ」雨宮はしびれを切らして訊いた。

「こうやってSエネルギーの研究をすることも有用なことだと思うんですけど、それがきっかけというか、間接的に人を殺めてるってことはないのかなと……」

「こいつ……」

 立ち上がって遠藤に近づこうとした雨宮を早坂が制する。

「それは私たちも同じよ。遠藤君」

「同じ?」

「わからない? 私たちは何も悪いことなんてしていないのに、世界はこの有様なの。さっきの話を聞いててわかってるものだと思ってたけど」

「そんなこと言ったら、僕がいた世界の人たちなんてSエネルギーの存在すら知らないで、他の世界に何の影響も与えてないじゃないですか。先に接触してきたのはそっちじゃないですか」遠藤は憤慨して言う。

「それは……」早坂は言葉に詰まった。

 やり取りを見ていた雨宮は少し冷静さを取り戻して言った。

「なあ、遠藤君。滑稽な話だと思わないか」

「滑稽? 人が死んでいるんですよ」

「異世界同士で人を殺し合って、何の得になるんだ? 向こうの世界には自分と同じ人間がいるんだぜ? 意味が分からないと思わないか」

「ええ……、それはそう思いますけど」

「俺らからしたら、元々仕掛けてきたのは向こうなんだ。何度自分が向こう側に行ってふざけんじゃねえぞ、てめえらはてめえらの世界で生きてりゃいいだろって言いたいと思ったか。向こう側の頭を殺してやりてえよ」雨宮は大きく息を吐いた。

 遠藤は触れてはいけない所に触れてしまった気がして黙っていた。

「それでも、そんなことがすぐにできるわけじゃない。適合者夢人だってそんな何人もごろごろ出てこない。俺は一連の大厄災の中で妹を失った。そんなに素直じゃなかったけどな、大事な家族の一人だった。渋谷で起こった大規模テロに巻き込まれて死んだんだ。スクランブル交差点で大爆発だ。遺体も残っちゃいなかった。なんで妹が、なんで俺たちがってなるだろ? そういう痛みを胸の奥にしまって、俺たちは理不尽な戦いをしてるんだ。この気持ちが分かるか」雨宮は強く握りしめていた手の力を緩めた。

「雨宮。そこら辺にしておきなって」

「……すいません。軽い口をきいて」

「悪いな……柄でもなく怒ったりして。でもな、俺らもお前の気持ちが痛いほどわかるんだよ。だからこそ、この不毛で何の意味もないことを止めさせなきゃいけない。お前にはその価値があると思うんだ」

「……はい」遠藤は複雑な心境の中返事をする。

「雨宮らしくないぞ気持ち悪い」早坂が明るい声で言った。

「うるさいっすよ早坂さん。たまにはこういう男らしい口上を垂れておかないとだめなんすよ」

「わかったわかった」そう言って早坂は缶コーヒーを飲み切った。「そういうことだから、今日はもう解散。 ゆっくり休みなよ」

「ありがとうございます。なんだか、あなたたちのこと勘違いしてました。これからよろしく頼みます。僕やれることは精一杯やります」吹っ切れてクリアになった表情で遠藤は言った。

「おう」

 二人は制御室を抜けてどこかへいってしまった。

 これでよかったのかもしれない。

 胸の中で燻って有害なガスを出しているよりは、ぶつかって正解だった。

 明日は、この世界の現実を網膜に焼き付ける日だ。

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