探偵へのメッセージ
4
神原優子はこの前の玉突き事故のことについて調べていた。大学は後期に入り、通常ならば授業が少しばかり入っているのだが、神原は後期、大学に休学申請を出していた。Coda以外に彼女は新聞部に入っていて、ジャーナリストを志しているのだ。しかも、彼女は現役で大学に入っているわけではなく、同期より二つ年上の身である。大学を休学していることはCodaのメンバーや他のサークルの友人には一切言っていない。普通の学生という立場でいたほうが、何かと動きやすいということが最近になってようやくわかってきたのだった。
件の事故は世間ではすっかり報道されなくなってしまった。まだ発生してから一ヶ月も経過しておらず、事故の当事者たちの語る話の特殊性から事故当時はワイドショーでも特集が組まれ、一時期はなかなかに世間を賑わせたものであった。テレビなどのいわゆるマスメディアで報道されなくなると、雑誌やネットでは政府が何らかの形で事故原因に絡んでいてすぐに圧力をかけたとする陰謀論のような意見も散見された。神原はその様子を一応情報としては流し読みしていたものの、本気にしてはいなかった。
だが先日、ルポライター志望の友人から久しぶりに連絡があった。連絡と言ってもあちらから一方的に一通の電子メールが送られてきただけであって、最初はそのメールが悪戯なのかわからなかったが、神原は結果的に無視するわけにはいかなかった。
優子へ。
あなたにこのファイルを託します。
迷惑をかけることになって本当にごめんなさい。
でもあなたしか頼れる人がいなかったの。
これを受け取ったらすぐに今いるところから離れて。
そうじゃないと危険が及ぶわ。
優子がこれをどうするかは自由。
でも、誰かがやらなきゃいけないことよ。
わたしは優子の幸運を祈ってるわ。
それじゃ。
メールには文書ファイルが二つ添付されていた。一つはまだ編集可能な状態のまま保存されている。内容はだいたいこんな感じである――。
このメールを送ってきた知人の女性は、伊勢佐木町のアパートに住んでいた。隣の部屋に高エネルギー研究の会社に勤めている男がいて、そこから情報を引き出す必要があったからだ。今になって思うと彼女はいつも危ない橋を渡っていたのだろう。そしていつしか彼女とその男は懇意になった。彼女がそのように誘導したらしい。無事に情報を引き出し、アパートを離れる準備をしていた矢先、隣の男が何者かに殺されるという事件が発生した。第一発見者は彼女自身であった。部屋に争った形跡はなく、凶器も見当たらなかった。匿名で通報をしてそこを去ったのだという。
のちに彼から受け取ったUSBの中のファイルを調べていると、隠しファイルがあることに気づいた。そこにはまず常人であれば相手にしないような計画が書かれたファイルがあった。そこには、別の世界からの攻撃によってこの地球は支配される、遠藤修介という男を探してこの事実を伝えろ、という内容が書かれていた。どうしたものかと思案しているうちに、例の大規模な玉突き事故が発生したのだ。
これによってそのファイル内の計画の存在を仮にも信じざるを得なくなった彼女は、このファイルの危険性を認識した。そして、常に尾行されていることも気づいたのだった――。
神原はそんな危険なファイルをよりにもよって一人任されてしまったのだ。突拍子もない話の中に知った名前が出てくるということは、もしかしたら事態はかなり切迫しているのかもしれないと思った。その後メールを寄越してきた知人に返信しても返ってこず、電話も通じなくなっていた。
そして昨日の停電である。一番話をしなければいけなかった遠藤修介が気絶したまま一日が経過した。おまけに林日向子も同様に気絶したままだ。この一ヶ月で身の回りに色々なことが起きすぎていた。休学申請をしたのはまさかこのためだったのだろうかと思えるほどのタイミングである。
穏やかな晴れの日の昼下がり。無線LANの完備されている喫茶店でノートパソコンを叩き淡々と作業をする神原の正面には、片瀬拓哉が落ち着かない様子で座っている。彼はどこかから情報を聞きつけたのか、はたまたただの同期としての人選なのか、神原に相談があると申し出てきたのだ。まあ、前者である確率は非常に低いと予想されたので、特に危険性はないという判断の下、今日はその件で二人だけで会っていた。
「片瀬君が相談なんて珍しいね。何かあったの?」大学で主に使用している、好印象を与えるには最も効果的な表情を作って神原は言った。一部の人からは怒りを買うようであるが。
「急に呼び出してすいませんっていうか……。そういえばあんまりこうして喋ったことなかったよな」喋り方がぎこちない片瀬。
「そうだねぇ。特に喋る機会もなかったし、わたし結構サークル掛け持ちしてるから、そのせいかもしれないなぁ」
「ごめんごめん。そうそう、湊のことって何か聞いてます?」
「湊ちゃん? わたしは特に何も聞いてないかなぁ。メグもただ心配だねって言ってるだけだったし」神原は少し苛立っている自分に気づいた。
「そっか……。何にもなければ別にいいんだけどさ」そう言ってアイスコーヒーを一口飲んだ。「煙草吸ってもいい?」
「いいよ」ノートパソコンから目を離さずに神原は言った。
だんだん、片瀬が何を言いにきたのかということから話が逸れているように感じた。こいつは今日、わざわざ二人きりで何を話に来たのだろう。予想していた話としては今出てきた市川湊についてのことであるが、どうもすっきりしない。というよりも、神原自身、湊の動向については特に把握できるような余裕などなかったので、何もしていない。本当に何も知らないのだ。片瀬はわたしが知っているように思えたのだろうか。外側からは湊と親しい人物の一人とカウントされている可能性もある。
深く煙を吸い込む片瀬に、しびれを切らして神原は言った。
「今日は何をしに来たわけ? わたし忙しいんだけど」
片瀬は不意を突かれたように大きく咳き込んだ。
「大丈夫?」
「いや……、その、神原さんってそんな声出すんだなって……」途切れ途切れに片瀬は言った。
「もっと聞きたいことがあるんでしょう? 片瀬君が湊ちゃんのことを気にしてるのはわかるけど……」
アイスコーヒーを飲んで少し落ち着いた片瀬が言う。
「わかってたか……。って、え? バレてるの」
「見てたら分かる」
「うーん……。まあいいや」片瀬は煙草の火を消して言った。「本題はさ、ちょっと信じられないかもしれないんだけど、俺見ちゃってさ」
「見た? 何を?」初めて神原は片瀬を見た。
「この前の停電の日あっただろ? ライブが中止になって、撤収作業が半分くらい終わった頃だったっけ。ライブハウスから出てすぐのとこで一服してたんだけど……」片瀬は目撃したことの詳細を語りだした。
片瀬の話を要約すると、ライブハウスからほど近い路地裏で、黒服の男数人と倉持が話しているのを見たということだ。こんなときに誰と話しているのか気になったものの、陽気に話しかけられるような雰囲気ではなかったため、できるだけ近くの物陰に隠れて話を聞いた。すると、断片的にだが危なっかしい単語を耳にしたという。ファイル、ムカン、遠藤修介、侵攻計画……。
「なんでそこに遠藤君の名前が出てくるの」すでに小賢しい表面上の装飾を止めた神原は率直に疑問を訊ねた。
「わかんねえよ……。神原さん、普段はそんな感じなんだ……」失望の色を隠せない、といった表情だ。
「女の子は誰でもこれくらいやってるよ」
「そうなのか? 本当に?」片瀬は泣きそうな顔をしている。
「今はその話じゃないでしょ。そのあとどうしたの?」
「なんかやばい感じしたからさ、見つかる前にすぐライブハウスに戻ったよ。未だにあれがなんだったのか、よくわかんねえんだ」
「倉持君ねぇ」神原は頬杖をついて考えた。
片瀬が偶然耳にしたこれらの単語は、かなり重要なものかもしれない。今までいろいろな人脈を使って調査をしてきたが、中々上層に浮かび上がってくる情報というのはなかった。あっても、そこから核心へと繋がる糸口というものがないものばかりで、餌をまかれているような感覚でもあった。もし、片瀬が見聞きしたことを誰かに悟られていなければ、こちらとしては危険もなくスムーズに真実へと近づけるのではないかとも思う。ファイル、遠藤修介、侵攻計画……。これらの単語はまさに神原が掴んだ――もとい押し付けられた情報と完全に一致しており、倉持が何らかの形でこのことに関わっているのはまず間違いないだろう。こんな近くに関係者がいるとは考えもしなかった。
しかし、今後調査を進める上で果たして倉持に直接話を聞いてしまっていいものなのかどうか、そこが悩みどころである、と神原は思った。本人に聞いたところで、知らないと言われたらそれまでだ。倉持が関係者であることをこちらが知っているが、本人にはそのことを気づかれていないという優位性が保てなくなる。いかにこの優位性を保持したまま情報を引き出すか、難しいところである。
「そんなことなんでわたしに?」ふと我に返り素朴な疑問をぶつけた。
「ジャーナリスト目指してるって聞いてたから、それだけ」
「本当に?」
「……ていうのもあるけど、何となく神原さんが一番客観的に物事を見れるんじゃないかって気がしてさ。よくいるだろ? クラスの中でどっか一歩引いた感じで見てる人。神原さんがそんな感じだったってだけ」
「うわー……そういうこと普通本人に言うかなぁ……」
「陰でこそこそ言うよりいいだろ」そう言って笑う片瀬。
いまどき珍しい性格なのではないだろうか。自己のすべてを晒していく、悪く言えば考えなしと言われるのだろうか。でも、確かに、みんながみんな素性を隠しながら表面を撫で合うコミュニケーションは双方にとって息の詰まるものだ。友達には友達がいるとはよく言ったものだが、個人間における関係性が希薄になった今だからこそ、そういう逆のベクトルを持つ人は何かと人を惹きつける。
「とにかく、このことは誰にも言わないように。いい?」
「心当たりでもあるのか」
「そういうことはこっちの仕事だから、片瀬君は下手に動かないこと」
「わかった」人に話せた安堵からか、もう落ち着きを取り戻している。
動機はなんであれ、まず最初に自分のところへ話を持ってきてくれて本当に良かった、と神原は思った。これは僥倖と言う他ないだろう。別の人に話していたら、倉持の耳に入ることは必至で、片瀬の身にも危険が及んだかもしれなかったからだ。
片瀬とは喫茶店で別れた。こちらとしては情報提供料という気持ちでおごってあげた。片瀬はもう少し喫茶にいるつもりらしかった。彼にも考える時間は必要だ。今のところ危険はない。
神原にはまだやることはたくさんあった。柳教授にも会いに行かなくてはならないようである。説明するのも面倒であるが、こればかりは仕方がない。身元を晒すことになるのは危険であったが、もう後には戻れない。直感的に神原はそう思った。
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