白昼に住まう凶器

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 被害者が発見されたのは、猛暑日の続く九月の白昼のことであった。伊勢佐木町の繁華街から、一本裏手に佇むアパートの二階の一室に、うつ伏せで倒れているのを大家が発見し、すぐに一一〇番をしたということらしい。被害者は、大家が一週間ほど出かける用事があったため、このアパートの管理人を一時的に頼まれており、大家が帰ってきて被害者の家を訪ねた際、鍵が開いていて、不審に思ったので中に入ったところ、被害者が倒れていた、という概要であった。

 被害者の部屋には争った形跡も確認できない状態で、傍から見れば二日酔いの男性が布団にたどり着く前にそのまま眠ってしまったような、とても自然な光景であった。部屋のクーラーはつけっぱなしであったので、この季節にしては奇跡的に遺体の保存状態が良好であった。ただ、遺体の左胸部、ちょうど心の臓のあたりからの出血が確認され、発見時には少し腐敗が進行しており、腐敗網と呼ばれる体の変色が見られるなどの理由から、死後五日程度、このままの状態で放置されていたことになる。

 刺し傷が確認されたものの、すぐには事件性が確認できないという、全くもって非論理的な理由で、特命捜査対策室の面々が招集されたわけであるが、雨宮俊は、また特段の理由もなく厄介ごとを回されたな、と内心頭にきていた。事件性がいつ判断されたのかわからないし、凶器とみられる血まみれの包丁は無造作に床に落ちていたのだから、どう考えても殺人事件にしかみえないし、そもそも、事件ではないならわざわざうちを呼ばなくてもいいではないか。どうせ、捜査一課の評価の高い連中は、すぐに解決できるような事件を優先して、捜査に当たっているのだろうと雨宮は推測し、ほとほと腐っているなと心の中でつぶやいた。

 こういう一見して事件か事故かわからないような案件は(どう見たって事件であると思われるが)、捜査一課が最初に捜査に当たるはずなのだが、最近は特命捜査対策室に任されることが多くなっていた。そのせいか、ほかの部署からは通称、”未詳の特査”と呼ばれている。ドラマなどでは未解決事件を次々と解決していく様が描かれたりするものだが、現実は、単純作業の繰り返しである。徹底的に事件の概要を把握し、過去の捜査で抜けている点を調べ直し、未解決の事件を洗いなおし、お蔵入りにするものと、捜査一課のお偉いさんたち(自分も捜査一課ではあるが)に差し戻すものを選別していく。雨宮は、別段、この機械的で地味な作業を嫌いなわけではなかったが、ゴミ箱にちり紙を放り投げる如く、未解決の案件を回してくる、他の部署の態度が気に食わない。誰だって腹が立つと常々思う雨宮である。

 被害者の名前は田村正敏、四十三歳男性で、職業は、高エネルギー科学を研究している企業の一研究員であることが、遺留品などから判明した。遺体には、腐敗や刺し傷以外に目立った外傷は見当たらず(雨宮は昼飯を食べた後だったので、直接見ていないが)、周辺住民への聞き込みでも特に有益な情報は今のところ得られていない。

 錆びれた階段を駆け下りて、規制線の黄色いテープをくぐる。安アパートの前に停めてある、ホワイトパールに塗装されたマークⅩの運転席のドアを開けて車内に戻ると、煙草の匂いが鼻を掠めた。クーラーを最大に効かせているようで、外にいるよりはだいぶましであった。

「被害者見て、どう思った?」雨宮の上司にあたる早坂美波が訊ねる。

「そうですね…職業が職業だけに何とも…。まあ、ただの殺人事件だと理解していますけど」雨宮は胸の煙草に手を伸ばす。「僕たちにこういうのを回してくるっていうことは、上はだいたいのことを把握してるんじゃないですか」

「なによそれ……。それじゃ私たち馬鹿みたいじゃない」短くなった煙草を惜しむように深く吸い込んで美波は煙を吐いた。

「うちのヤマで真剣なのってありましたっけ? あれ?」おどけた口調の雨宮。

「うちの部署には思考回路の単純で馬鹿みたいな子がいるみたいだけどね」煙草の火を消しながら美波が言う。

「怒ってます?」

「そういうことじゃなくて。もっと生活に刺激が欲しいっていうかね、雨宮君、お分かり?」美波は二本目の煙草に火をつけた。「ただただ判然としないヤマばっかりじゃない、特に最近は」

「未解決事件のエキスパートの僕らでも、お手上げですもんね」雨宮の声はまだうわずっている。

「だから、端的にいうと、ムカついてるの」

「俗っぽいですね」

「そういうときもあるのよ……大人は」

「柳さんはだめなんですか」無邪気な顔を美波に向ける。

 あのね、と美波は咳き込みながら、

「次その話をしたら、君の減らず口をこれでもかってつねってやるから」

「優しいんですね」明らかに楽しんでいる雨宮は、センターコンソールにはめ込まれた灰皿で火を消した。

 鑑識による現場検証が一通り終了し、遺体が運び出された後、美波と雨宮は一旦神奈川県警本部に車で戻り、事件の概要を整理することにした。

 幸い、神奈川県警の本部から現場までは、車を使えばほとんど近所であったので、行き返り共に、十分とかからなかった。ランドマークタワーを左手に見ながら、綺麗に区画整備された道を、現場に来た時とは逆に進む。関内駅をはさんで南側に伊勢佐木町の商店街があり、北側には銀行や官庁の庁舎を中心とした小規模な官庁街が海岸沿いまで広がっている。南東の方向に官庁街を進むと、すっかり横浜の観光地として定着している中華街も見えてくる。県庁本部の北側は桜木町駅方面で、ここは三方を繁華街に囲まれた何とも奇妙な立地である。残る一方は東京湾だ。

「生活に刺激と言えば」唐突に雨宮が口を開く。

「もう忘れたの?」まだクールダウンが済んでいない美波。

「最近、俺の友達が夢を見るってうるさいんすよ」

「夢? 夢ってどんな?」

「正確には夢とは言えないのかなあ。僕にもよくわからないですし、あんまりはっきり覚えてないらしいんですけど」雨宮はウィンドウを少し開けた。

「はっきりいいなさい」生温い風が入ってきたので、美波は運転席のボタンでウィンドウをすぐに閉める。

「うーん。俗にいう予知夢ですかね」

「ふーん」美波はほとんど相手をしていない。

「たぶん、寝ているときに見ている夢を、それと同じような状況に遭遇したときに、こう、記憶の片隅から呼び起こされるっていうか。俺は経験したことがないんで全く分かんないんすけど、ゾクゾクするらしいっすよ」

「それって、ただのデジャヴってやつじゃないの?」美波は、左手でクーラーの風量を若干弱めた。「予知夢とはまた違うと思うけどな」

「ああ、デジャヴみたいなすっごく短いやつはよくあるらしいですけどね、たまに、長いのも見えたりするんですって。」友人の不思議体験を話すときの雨宮は、美波の目にとても無邪気に映った。

「予知夢って定義するには、それ相応のビジョンの長さと、内容の正確性が求められると思うのだけど、そこはどうなの?」そんな邪気の無さに構ってしまうのも、美波の性分である。気になることは気になるし、知らないことは知りたい。知識欲はあって損するものではないだろう。

「長くて一分とかですかね。割りとどうでもいいことがあたったりするんですよ、そいつ」本部の駐車場が見えたので雨宮は降りる準備をしている。

「へえ……。そっかぁ……」美波は、自分が体験したことがないので、無意識に唇を食いしばっていた。

「なんですかその顔?」

「こんな顔の総理、いたよね」

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