追跡

     9


 文部科学省。日本の一行政機関であり、その目的は教育・生涯学習・スポーツの振興や科学技術の発展、ひいては宗教に関する行政事務まで幅広い。そんな文化の発信局とも言える機関に、悪意のある者が侵入していることに誰一人気づいていないのだ。彼ら以外は。

 無事特査は文部科学省へと到着したが、神原優子を見つけられずにいた。暴走していたと思われるバスは文科省近くの道端に寄せて停めてあったが、運転席の窓が割れていたり、乗客はというと最前席で気絶している倉持を除いた全員が死亡した姿で発見された。倉持は転移しているだけで、健康的な問題があるわけではなさそうだったが、何故他の乗客が全員死んでいるのかということが謎であった。

 雨宮はすぐに鑑識に連絡した。本庁から来るそうで、これは管轄を無視できる特査であるから要請できたことだった。

「できる限り現場の保存に努めてくれ、って」電話を切って雨宮が言う。

「誰かはここに残っておいた方が良さそうね」美波が呟く。

 伊勢崎と昭室長は文科省の入り口へと近づいている。文科省内部に異変が無いか様子を見に行ったのだろう。

「このバス結構目立つはずですよね」雨宮が疑問を口にした。

「窓が割れてたら普通何かおかしいとは思うわね」美波は周囲を警戒しながら返事をした。

 昼時なので、社員証を首から提げた背広姿のサラリーマンが多い。注目を集めていることには変わりはないものの、一応乗ってきた車には赤灯を付けているので不審には思われないだろう、と美波は思った。それより懸念しなければいけないのは、このサラリーマンの雑踏の中にタルトピアからの工作員が紛れ込んでしまっている可能性である。工作員である疑惑のある職員の名前と顔は事前に頭に叩き込んである。しかし、これだけの人の中から見つけるのは困難を極める。それらしい人物は見当たらない。

「到着してまだ時間が経ってないんじゃない?」

「そしたら、十中八九神原はこの中ですね」文科省のビルを指差して雨宮は言う。「勝手なことしやがって」

「おい、待て!」

 雨宮が悪態をついたとき、ビルの入り口の方で声が上がった。

 振り返ると、スーツの男が鬼の形相でビルから出て走っていくではないか。その後ろを伊勢崎と昭が走って追いかける。声の主は伊勢崎であったようだ。意外にも、歳であるはずの昭も走り負けてはいなかった。

 スーツの男はバスを視認すると、こちらを避けるように方向転換して駆けていく。美波はこの男に見覚えがあった。間違いなくリストに入っていた男の一人だ。

「二人はここで待機しててください! 中からまだ出てくるかもしれないのと倉持君のことがあるので」伊勢崎は大声でそう叫びながら、スーツの男を追いかける。昭室長もアイコンタクトで、待機の念押しをして去っていった。

「おいおいおい」雨宮が慌てた表情で美波を見る。「あれ絶対追いかけたほうが良いですって。室長持たないですよ」

「私が行くわ」美波が上着を脱いで雨宮に渡した。「倉持君とか、色々よろしく」

 美波はホルスターの小銃を確認して走り出した。

「美波さん!」雨宮が途方に暮れた顔で名前を呼ぶも、その背中はどんどん遠ざかっていった。

「冗談じゃねえって……」思い切りサラリーマンたちの注目を集めていることに気づいた雨宮は、胸ポケットにを探り煙草を取り出した。

「……切らしてるじゃねえかよ」

 仕方なく雨宮は乗り捨てられているバスの近くで待機することにした。ぼんやりと逃げていった男のことを考える。

 必死に逃げていった男。だが、雨宮がその男の顔を遠目で見たときには、焦燥とも違う何かやり遂げたような達成感の中、逃亡していくような余裕が感じられたのだ。逃げていく、ということはつまりタルトピアの工作員としての人格がいまだにあの男の中に留まっているということではないか。もし、工作員が転移を完了させて彼に正常な人格が戻っているとすると、自分の感知しない所で汚名を着せられているのだから、この一年半の間にとっくに逃亡を図っている可能性が高かったはずだ。さながらゴールデンスランバーと言ったところだろう。

 しかし、今まさにこのタイミングで逃亡しているということは、工作員が中に入っていることの反証になりえそうだ。何らかの理由でタルトピアへと転移することができずにいるのか、はたまたずっと工作員として潜伏し続けることが当初からの作戦だったのか。

 だが、と雨宮は疑問に思った。この文科省のビル内から出てきたのは何故だ。昭室長と伊勢崎はまだ文科省内部まで入っていなかったはずである。それなのに奴は外へと出てきた。誰が奴を外に出したんだ?

 そんな疑念を胸に、雨宮は文科省の入り口を見た。

 他のサラリーマンに混じって、こちらに直進してくる女がいた。

 目が合うと、両手を上に挙げて歩いてくる。

 神原優子だ。

 雨宮はすぐにホルスターに手を伸ばした。

 雨宮がそのままの状態でいると、神原は最終的に雨宮の目の前まで近づいてきた。間合いには入っていない。

「どういうつもりだ」どう切り出せばいいのかわからず、雨宮はほとんど考えずに言った。

「どういうつもりも何も、私は被害者よ」頭の後ろへと手をやって神原は答えた。

「被害者? 馬鹿を言え」

「本当よ。まずはその物騒なものから手を離して欲しいんだけど」神原はため息をついた。

 神原が銃を持っていないということはまずないだろう、と雨宮は考えた。であるならば、この優位は渡してはならない。近接戦闘で勝てる相手なのかは判断が付かない。

 神原は雨宮の表情の曇りを読み取ったのか、後ろを向く。

「動くな」雨宮がけん制する。考えるより先に銃を抜いていた。

「銃は腰にあるわ。勝手に取って頂戴。私は敵じゃないって言ってるの。気が済むまで調べてもらってもいいけど」

 雨宮は神原のペースに乗せられているようで気乗りしなかったが、片手で銃を構えたまま、もう片方の手で神原のリボルバーを押収した。あまり目立つわけにはいかないので、今神原を調べることはやめようと雨宮は思った。

「手、降ろしていいかしら」

「ああ」いまいち底の見えない女だと雨宮は思う。「知っていることを全部話せ。今何が起きているんだ」

「私が奴をおびき出したの」神原は目を逸らす。「こっちが文科省に到着したときにはまだあなたたちは来ていなかったようだったから、一人で中に入った」

「お前が奴らに通じていたスパイだったと認めるってのか。被害者ってのは何だ」

「人質よ」

「人質?」

「ええ」神原は観念したように言葉を紡ぎ始める。「そもそも、私がこの件に関わることになったのは、伊勢佐木町の事件がきっかけだったわけ。あなたたちも知っているように、犯人の手がかりが全く無く、刺殺された遺体だけが発見された事件。その事件が起こったアパートの隣の部屋に住んでいた私の友人は、一通のメールを私に寄こした後に失踪した。そのメールの内容が内容だっただけに、すでに工作員によって殺されたものだと思っていたのよ。私は彼女の仇を討つつもりで行動していた節があるから、周りが見えなくなってきていたのは確かだった」

「具体的には接触があったのはいつだ」

「つい最近よ。私が海外にいたのは、最初はただ単に自分の身の危険を感じたから。国外へ出ると随分とストレスが緩和されるものよ。特に先進国ではなくて発展途上国が一番紛れ込みやすかった。一ヶ月ほどは本当に日本での生活や身分、立場を忘れて生活することができたの。このままここで一生過ごすのも悪くないって。でも、そんな生活をしててもやっぱり、ふとした瞬間に彼女のことが脳裏に浮かんだ。いつかは確実にどうにかしなければいけない問題だったし、私に良くしてくれる人たちに身分を詐称し続けるのも辛かった。そんなときよ、一通の封筒が私のもとに届いたのは」

 警戒をしつつも雨宮はじっと動かずに話を聞いていた。昼時のオフィス街の騒々しさの中、神原と雨宮の周りだけ色彩の温度が下がっているような哀愁が漂い始めている。

「友人の拘束されている写真の裏に、日付と場所がメモされていた。ここに来なければ、彼女は死ぬぞって脅しね。私まで行ったら相手の思う壺だとは考えたけど、親友を放っておくなんてできっこないのよ、私みたいな似非探偵じゃそこまで冷徹に考えることはできなかった。結局ハーグまで出向くことになった」

「ハーグ……。オランダか」雨宮はオランダの位置を思い浮かべた。

 神原は工作員が去っていった方に顔を向けた。

「さっき走っていったおじさんが心配ね。後から追いかけたお姉さんは武術には長けてるのかしら」

「何の話だ」

「私もびっくりしたのよ。工作員をこの文科省から炙り出して、いざ自分も外に出ようかと思ったらあの男がいるのだもの。咄嗟に隠れたわ、私が見つかったら親友の命が危ないもの」

「あの男?」雨宮は首を傾げた。

「あんたの特査に所属してる男。伊勢崎とかいったかしらね」そう言って神原は頭を掻く。「あいつが、私がハーグであった男よ」

 雨宮はその言葉を聞きながら、全身から血の気が引くのを感じた。

 伊勢崎は休暇中にどこに行っていた?

『――僕ですか? ちょっとした旅行に』

 特査を納得させるために倉持と遠藤が施したリンクを、伊勢崎だけはしていなかった。遠藤の体力の消耗も考慮し、上司の三人が納得しているのだから、自分もそれに従うまでだ、と――。

 雨宮はすぐに美波に電話をかけたが、繋がらない。

「不本意だが」雨宮は携帯をポケットにしまう。「ここはお前に預けた。別に信用したわけじゃないからな。現場保全に努めろ」

「もう逃げも隠れもしないって。その必要もないんだから」神原は弱弱しく頷いた。

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