乳白色で満ち足りる

     9

  

 茜色の日差しが一面の強化ガラスを透過して室内へと入ってきている。部屋の灯りは薄っすらと桃色がかったもので、全体として暖色で統一されているように感じられる。それでいて眠気を誘わない。爽やかな香りを纏った風が時々、揺れるようにして室内をゆっくりと移動するのが肌で分かる。とても居心地の良い空間だ。

 目を覚ました彼女は毎回そんな感想を抱く。飽きることのないようにすべてがプログラムされているせいだろう。人工太陽はフェード効果のように一定時間で照度が変化している。ここには人工でないものはほとんどない。その代わり、不規則は生じない。ストレスが極限まで緩和されるように設計されている。突発的に何かが起こることはまずないと言っていい。それはこの世界の住民が永い時間をかけて選択してきた結果とも言えるだろう。

 久々に長い夢を見ていた。気がした。

 それが夢ではないことは知っているが、そんな気分だ。

 ベッドから躰を起こして自分の手を見てみる。

 指先の皮は暑くない。本来の自分は、音を奏でることはしていなかったのだな、と思い至る。瞬きをして端末を立ち上げた。この動作も久々だ。

 今日はKがここイレーネに帰ってくるという情報が視界に表示される。

 その時が来るまで自分は夢の中で待っていたのだろうか。どうせ、先に戻ってきていても何も起こらない。それが分かっていたからなのか。

 起きてからKの訪問までの三十分、シャワーを浴びて湯船に浸かった。自分の体温に合わせて最適な温度の湯が出る。不愉快は何もない。

 髪を乾かし、AIがチョイスした服装に身を包み、Kの到着を待った。

 時間通り、彼は来た。待ち合わせ時間丁度に着くようになっている。何の不自由もない。

「待ったかな」部屋に入ってくるなり、Kは言う。

 役職は一応設定されてはいるが、そこに所謂上下関係はない。丁寧な語で話すものの、深く気遣う必要もない。

 Kの気遣いはタルトピアやケーレスでのしきたりと分かりながらも、言った。

「やめてそんなの。ここがどこだと思っているの?」

「そうですね。すっかりあちらの世界に馴染んでしまいました」

「K、と呼べばいいのかしら。倉持涼」

「ではそれもここでは取り消しましょう。それではあなたをHと呼ばなくてはならなくなる」

「セクハラのつもりですか? それにしては程度が低い」

「そんな考えをするようになったあなたも、ケーレスに染まったのでは?」倉持はソファに腰を下ろして言った。「林日向子」

「呼び捨てもそれはそれで嫌と感じるようになりました」日向子は目を瞑る。「私にとってこの五年間のケーレスでの暮らしは、実に興味深い変化を自身にもたらしました」

「その変化をあなたは不覚にも喜んでいる」

「そうでしょうとも。イレーネはとても平和な世界です。未だかつて人類がここまで幸福を突き詰め、具現化できたことはありません。全地球人の総意の下、こういう世界が訪れたのです。その結果、イレーネの人類はおよそ闘争本能と呼ぶべきものを失いました。外敵のいない世界において、それはもはや不必要な要素として淘汰されていったのです。多少の遺伝的な操作は初期の段階でこそ確認されたでしょうが、人為的に淘汰の方向へ持っていかずとも結局はこうなったのです。個人のストレス値は常時コントロールされ、正常値を超えてしまうのは年に一回程度。誰もが幸せを享受できる世界」日向子は端末に命じて持ってこさせたホットコーヒーを口に含む。熱すぎず、温くはない。

「あなたは幼い頃からすでに疑問を抱いていた。そうですね」倉持は訊く。

「はい。私はイレーネには五歳になるまで居ましたが、皆一様に笑っている様というのは子供ながらに恐ろしいと感じました。喜怒哀楽という言葉は人間の感情を端的に表しています。怒りと悲しみ、ストレスに繋がるこの二つの要素をできるだけ生じさせない状態に社会を持っていく必要がありました。ただでさえここの地球は他の宇宙のそれと比べても明らかに環境が芳しくないからですね。そういう意味では、イレーネに生まれ落ちた時点で周りの環境に左右されていた、ということが言えると思いますよ」

「そうか。ではケーレスでのあなたの振る舞いも、当然と言えば当然ですね」

「好意を向けられるということはとても良いことですね。少なくとも自己承認欲求が強い個体にとっては最高の処方箋になるでしょう。ですが、そこまで承認欲求が強くない個体からすると、無責任な好意というものは迷惑である、ということも学びました」

「後者はあまり普遍的は意見ではないですね」

「そう。これはあくまでも私が周辺の人々を観察して獲得した知見です。イレーネではまずそんなことは起こらない。刺激というものは時と場合によりプラスの働きもマイナスの働きもします。イレーネは極力その刺激を少なく、あってもプラスに向くようにしてきました」

「それが間違っている、と」倉持は訊く。

「そこまで言うつもりはありません。基本的な方針は変更するべきではないと私も思います。ですが――」

「何を迷っているのです」倉持は笑う。「あなたはケーレスに行き、薄まりつつあるあなたのアイデンティティというものを固めてきたのではないのですか」

「私はそれぞれのアイデンティティを保持しています。決して薄まってなどいません。まあ、それはどうでもいいとして、もう少しだけ刺激の量を増やしても差し支えない、と感じたまでです。彼らは――ケーレスやタルトピアの人々はとても生き生きして見えます。その裏には苦悩や憤怒などが隠れているのでしょうが、私には彼らのほうがよっぽど自由に生きている、そう感じずにはいられなかったのです。たとえイレーネが人類の種の保存を最優先に考えなくてはならないとしても」

「実は……」倉持は照れくさそうに笑う。「僕もそう思っていました。彼らのエネルギーはとても大きい。影響力もそれなりにあるのでしょう。それに、タルトピアでの僕の立場もそれなりに考えるきっかけにはなりました」

「反全権者組織の事実上のトップとは、また厄介な役回りでしたこと」

「今の全権者は私欲にまみれている。僕はそう分析しています。いくら協定によりこちらは技術提供をしているだけと言っても、これでは完全にあの男の言いなりになっているも同然だとは思いませんか」

「私は……よくわかりません」日向子は決まりが悪そうに答えた。「情報としてのタルトピアの知識は持っているけれど、私が実際にタルトピアに行った経験はありませんし、また行く気もありません」

「こちらの独断でよろしいと」

「あなたが望むのなら、倉持。決断を下す覚悟ができているはずです」そう言ってから、日向子は飲み終わったコーヒーカップを下げるよう端末に命じる。

 イレーネは掲げた理想を何としてでも守れるよう、宇宙移転技術が完成しても他宇宙への積極的な干渉行動はせず、監視のみを続けてきた。それは、この禁忌とも言える技術の先駆者としての使命でもあり、一つの宇宙というのはその中ですべてが完結するべきであるという思想があったからでもある。

 事実上、イレーネの地球のトップの座に就いている林日向子はこのような背景を鑑み、種の保存のために動かんとす人類に同調することを選んだ。その明晰な頭脳と他の夢人と一線を画す体質のおかげで、若くして権力を手にした日向子は日々知識を貪欲に吸収し続けた。全知全能に近い知識量を持った彼女は、格差のないイレーネでさえ一目置かれる存在である。

 しかし、日向子は倉持を初めて見たとき、一瞬その頭の回転の速さに驚いた。一瞬と言ってもコンマ五秒もしない間であったが、その間隙を倉持は見逃さなかったのだ。彼はくすっと笑って見せた。日向子がまだ見ぬ可能性を秘めている、とそう直感した。イレーネにも、まだこんなにもこの社会体制に対して静かに牙を剝く者がいるのか、と心底嬉しさでいっぱいになった。ストレス監視の網の目をくぐりながら負の感情を持つという一見矛盾した心理状態を、澄ました顔で維持している若者。すでに倉持は自身のコントロールを完璧にこなしていた、と日向子には分かった。

「もう、僕の腹の底は見えているようですね」倉持はソファから立ち上がる。「そのまま進行すれば、この安寧をぶち壊しにする結果も想定できます。それをお忘れなきよう」

「あなたと、あなたが守ろうとする者たちの幸運を祈っています」日向子は倉持に微笑を向けた。

「ありがとう」倉持は頭に手をやり、髪を撫でた。「さながら、あなたは勝利の女神だ」

「私は、白馬の王子様を待つシンデレラです。何もできません」

「自称すると価値が下がりますよ」

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