ビルの谷間の湿度
8
ビルとビルの間を縫って奥へ進む。夕刻が近いからだろう、この狭い路地には日が当たらない。真昼間でも日照時間は少ないだろう。見たところ生えている雑草と言えば、ビルの根元からドクダミが数本程度顔を覗かせているのみだ。人通りもなく、薄暗い。
「尾行は確認した?」Kは訊ねる。
「誰も来ていません。重々確認しました」辻元が言う。
「いいでしょう。何もこんな薄暗いところで話す必要性もないとは感じますが」
「人の目のある所や公共の場所では盗聴の可能性があります。ケーレスはタルトピアほど科学技術が発達していませんが、その手の可能性を限りなくゼロにしていくのは当然の処置かと」
「相変わらずお堅い……」
「私たちの存在がごく一部の人間に知られていることはあなたも承知しているでしょう」
「ええ。いくらケーレスの人間とはいえ、知能が劣っているわけではありませんからね。いずれ感知されるだろうことは最初から分かっていましたよ」
「全権者様にはそのことは進言したのですか」
「していませんよ。あくまで私はイレーネからの派遣ということでタルトピアにて働いていますし、協定の内容も技術提供その他の付随する仕事のみが規定されているものと認識していますが」
「そうですか……。私が思い悩んだところでどうにもならないのでこの話はやめましょう。」辻元は手帳を背広の胸ポケットから取り出す。「ケーレスにおいて我々の存在を感知しているものを炙り出しているところですが、現状、個人規模では五名が該当しています。その他にその該当者がリークしたと思われる組織も一つ存在しますが、これは国外のもので直ちに影響は出ないものと判断しています」
「五名の処理に関して全権者様の指示は?」
「生死は問わない、とのことです」
「手厳しいですね。あの方はかなりの独裁者と見受けられます」
「ノーコメントです。五名中四名は既に死亡が確認されており、残り一名は行方が掴めません」
「名前は」
「喜山春子。実名ではない可能性がありますが、表方はジャーナリストとして活動をしているようです」
「最後に姿を現したのはいつ?」
「先日のSILC研究所での限定公開実験が最後になります。名簿に名前が残されており、SILC研究所に派遣されていた工作員の一人が目撃しています。面は割れているので、整形や大胆な変装をしていない限り、すぐに見つかるでしょう」辻元はページをめくった。
「SILC研究所か……。かなり深いところまで踏み込んでいるようですね」
「あの実験後、避難の騒動に紛れて姿を消したものと思われます」
「それで?」Kは壁にもたれて話の続きを促す。
「SILC研究所の後処理に関してですが、派遣されていた工作員の転移は既に終了しています。なので、特に我々が新規に介入して何かするというような必要はないでしょう。文部科学省の工作員が若干名残っている程度で、彼らから研究所で起こった事故についての通達を出させ、処理をして終わりです」
「ケーレスの人間も可哀想に。僕はタルトピアやケーレスに来てみて初めてこのような感情を抱くようになりましたよ」
「可哀想?」
「無知は罪というか……。たぶん、そんなことを言ったら元も子もないのでしょうけど――。イレーネでは人間同士の争い事はまず起こりませんので、最初は不思議で仕方がなかった」
「人間とは本来そういうものでしょう。かのホッブズが言うように、これが自然状態であり、平等な世の中ということなのです」
「全権者様がそう仰っていたのですか?」
「まあ、そのようなことを」辻元は肩をすくめる。
「解釈に問題があると僕は思いますよ」
「あまり反抗的な態度を取らないほうが身のためではないですか、K」
「僕の認識が甘い、と言いたいのでしょうけれど、それは自分でも承知していることです。ケーレスやタルトピアの人々のものの考え方、理屈、信条はまだまだ僕には理解しがたいものが沢山あります。それぞれの世界が歩んできた歴史が違うのですから、それは当然のことです。恐らく、それが正しいのか間違っているのかという判断は差し詰め神のみぞ知る、というところでしょう。何百年、何千年とかけて人類はそのような価値観、思想を作ってきたのですから、それが現状機能しているということは、それはその時点での最適解なのでしょうね。僕にもそのくらいの想像力はあります」
「タルトピアやケーレスに来てから、想像力が養われたのでは?」
「染まってきているのでしょう」とKは苦笑する。「少なからず影響は受けています」
「あなたには純粋な心のままいてほしいものです」
「またそんなご冗談を……」
辻元はそれには答えず、Kの今後の予定を聞いた。
「この後はすぐにイレーネに戻りますよ」
「全権者様への報告は」
「それよりも先に報告すべき相手がいましてね」
「先に……?」
「元上司に、ね」
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