第一章 邂逅の軌跡

夢か現か

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 帰宅ラッシュの京浜東北線に揺られ、遠藤修介が桜木町駅に着いたのは、午後の七時を過ぎた頃であった。すでに約束の時間には遅れている。

 改札を出ると、見たところ、はっきり大学生と分かるようなファッションに身を包んだ若者たちで混雑している。残り少ない夏休みを満喫するべく、繁華街に繰り出してきた、といったところだろうか。ランドマークタワーとは逆方向の出口から出て、大通りへと歩を進める。太陽が沈んだあとの仄暗い夕焼けが、あまり星の見えない暗闇に飲まれていく。もう九月とはいえ、まだ気だるく、湿っぽい空気が肌にまとわりついてきた。こんな気候もまた、日本の愛すべき四季の一つであるから、と自分に言い聞かせて歩いた。

 大通りに立地する指定のファミレスに入り、店内を見渡す。すぐに、見慣れた背中が視界に入ってきた。店員に待ち合わせの旨を伝え、店の奥に入っていく。

「ずいぶんと遅かったじゃねえか」

 いつもの不機嫌そうな顔の片瀬が、不満を言う。

「悪い悪い。講義が長引いてたもんで。あ、ホットひとつ」

 近くを通りかかった店員に声をかけた。講義が長引いていたという事実はおそらくない。

「珍しいな。それで、例の話はその後どうなったんだよ。デジャヴがどうとかっていう」

「ああ、あれね。最近は特に何にもないんだけど」

「何もないってことはないでしょうに。実際、デジャヴにしては現実とそう大差なかったんだからさ」

 煙草に火をつけながら、得意げな顔をしている。こいつの表情の豊かさは見習うべきところがある。

 この男、片瀬拓也は遠藤と同じ軽音サークルの同期であり、ドラムがべらぼうに上手い。認めるべきところは、たぶんこの一点に尽きるだろう。あとは、そこらへんの腐れ大学生となんら変わらずに、時間割に縛られない健全な大学生活を過ごしている。

「ありゃ予知夢だよ予知夢」

「そうかなぁ。確かに俺もあの時は驚いたけど」遠藤も煙草に火をつけて、煙を細く吐き出しながら、言った。

 二人が話しているのは、遠藤修介が見た、一種のフラッシュバックのようなものについてだ。

 大学の定期試験を散々な結果で終え、モラトリアムの主たる楽しみである夏休みに入ったときのこと。遠藤は、早朝から営業している大学近くのカフェのバイトから帰ると、すぐに床に就いた。いわゆる夏バテである。遠藤の部屋は窓が東向きであるので、朝になると、太陽光がまぶたなんぞお構いなしに眼球を攻撃し続ける。カーテンとかいう洒落たものはもちろんない。部屋のエアコンが壊れているので、茹るような空気を、扇風機で撹拌しながら、ベッドの上でぼうっとしていると、まどろみの中に落ちていった。

 気づくと、大学のキャンパスの敷地内と思われる広場に突っ立っている自分がいた。夜だ。校門前の満開の桜が、根元のライトに照らし出されて、燦々と輝いている。はて、あんなところに桜なんてあったかな、と不思議に思った。どうやら、季節はまだ春のようである。

 どこかからか女の子の声がした。自分の名前が呼ばれているらしい。暗闇の中あたりを見回して、図書館の前でこちらに手を振っている人影を見つけたので、小走りで駆けていく。

「お久しぶりです」ストレートの髪を、肩のあたりまで伸ばした林日向子が呟く。「そういえばキャンパス内では会わなかったですね」

「キャンパスも広いし学部も違うし、こんなもんだと思うよ」

 彼女はいつもは割と大人しめな方であると認識しているので、大声で名前を呼ばれたことに驚きながらも冷静に答える。

「先輩は今日は何しにこちらへ?」

「特に、用っていうものはないけれど」本当のことを言いたかったが、いまだに状況がつかめない。夢の中というのはこんなにもぼやぼやしていたっけ、と疑問に思った。「そっちは?」

「私も特に。ちょっと図書館になかった本を買いに生協まで行った帰りです」

 素っ気ない声のトーンで答える。そんな彼女の冷たい表情がとても甘美に思われる。無論、あたりは暗いので、遠藤の脳内補完も含まれている。夢の中で脳内も何もないのだが。

 遠藤は、大学の軽音サークルに所属しており、林日向子は、その一つ年下の後輩である。彼女は小柄ながらもベースを弾いており、その体格的ギャップはとても魅力的だ。しかも読書家で、大学生協の本屋に多大なる貢献をしているとの噂もある。およそ、この端整な顔立ちと多趣味さに心惹かれない男子はおるまい。遠藤もその魅力に取り憑かれていることは、言うまでもない。

 夜遅い時間に会うことなどそうそうないので、せっかくだからと二人は学生街に繰り出し、低価格が売りのBARへと足を運んだ。現実感が薄いためか、馴染み深いキャンパスに何故か見覚えがあまりなかった。

「そんな中途半端なところでフラッシュバックが終わっちまうなんておかしいって」やはり片瀬は不機嫌そうである。不機嫌というかどこか腑に落ちない、といった顔つきだ。

「でも現実じゃそのまま飲みに行ったんだよ」アルミの灰皿の上で煙草を軽く叩いて、灰を落とす。「そのあとすぐ帰ったけどね」

「あーあー勿体無い。あんないい子がそんなにほいほいサシで飲みになんか行ってくれないぜ? 馬鹿だなぁ」

「それは……、そうかもしれないけど……」

 実際、確かにフラッシュバックは尻切れとんぼで終わってしまった。目覚めたときも普段通りの自分の部屋であったし、相変わらずエアコンは壊れっぱなし、窓辺に置いてある、貰い物のちっちゃなサボテンもいつも通りで、変化という変化は何もなかった。

 今まででも、遠藤は幼い頃からデジャヴを見る経験は多かった。小学校の時にはデジャヴの内容を友達に話して、嘘つき呼ばわりされたことを覚えている。そのときは、なんでそんなことでみんな馬鹿にしてくるんだろう、と純粋な疑問に昇華されたが、中高では「クラスに一人はいる変な奴」的な扱いを受けて、ふてくされていた。それもこれも、デジャヴを見ることは、世間の常識でもなんでもなく、ただ話のネタになるくらいの、微小な不思議体験でしかないからで、この事実を、遠藤は高校二年生まで知らずに生きてきた。親も親で言ってくれればいいのに、と思ったこともあったが、デジャヴ体験を親に一度も話したことがなかったのだから、指摘を受けないのも当然のことである。

 振り返ってみると、今回の"回想"はこれでも人生の中で一番長いものであった。これが遠藤の驚いた点である。今までは、ほんの一瞬、ほとんどフィルムカメラで撮ったような、細部が朧げな、一枚の画像ほどの情報量しか得ることができなかった。そのことも、特に相手にされなかった原因の一つであろう。だが、遠藤がフラッシュバックそれ自体を見る回数は、少しずつではあるが、やはり、増えてきている。増えてきてはいるが、これは一体自分の何に起因した現象であるのか、遠藤自身全く見当もつかない。

 先天的な体質なのかもしれないな、と遠藤は思う。

「片瀬はないのか、そういうの」言われっぱなしも癪なので、話題をお返しする。

「よく正夢とか見たって奴いるけどさ、俺自身が一回も見たことがないから、あんまり信用してないね」

「俺のことは?」と訊いてから、遠藤は後悔した。

「お前の場合は別に……。疑ったところで話が終わっちまうし、友の話の真偽をわざわざ考えるような風情のないことはしたくないね」

「よくもまあそんなセリフがすらすら出てくるもんだな」

「頭の回転が速いんだ。メリーゴーランドだったらちびっこなんて完全にノックアウトだぜ」片瀬は得意げに笑う。

「なんもうまくないぞ、それ」

「特に、意味はないんだ」煙草の灰を灰皿に落としながら片瀬は言った。「そうだ、今度それでテストの内容見てくれよ。正確性が証明されればちょっとくらい金は出すぜ」

「それができたら万々歳だよ。最近なんか晩飯のメニューが当たったとかその程度だし、こりゃ使い物にならんね。うん」

 遠藤は、短くなった煙草を灰皿に擦りつけながら、そう言った。くだらない妄想話をしていると、しばらくして、ホットコーヒーが運ばれてきた。ブラックのまま口に含み、程よい苦味と酸味が口の中に広がるのを感じる。近頃は、安価に飲めるコーヒーの味が、多少はマシになってきた気がする。コーヒーの味を語れる程では決してないが、泥水のような、と形容されるコーヒーとの区別くらいはついているつもりだ。カフェインとニコチンが、頭の中をクリアにしてくれる。煙草とコーヒーがあれば落ち着けてしまうのも考えものだな、と思った。

 こんな非現実的なことが起こっているのに、割と冷静でいられる。むしろ、次はどんなフラッシュバックが見られるのか、楽しみにしている節があった。自らの悠長さを目の当たりにして、呆れることもしばしばだ。

 自分はいったいなぜ期待をしているのだろう。

 繰り返される日常への不満?

 己の平凡さから?

 どっちにしろ、これ以上何が起こったところでやはり、現実ではないではないか。

 変化を望めば、負担は肥大する。

 それはわかっているだろう。今までも負担を避けて生きてきたのだ。

 しかし、心の何処かで変な胸騒ぎがしているのを感じないわけではない。体の中に新たな臓器が生成され、まだその違和感に体が慣れず、ムズムズするような、そんな気分だ。

 その日はとても居心地が悪かった。

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