夏風冷たくなって

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 早坂美波は、いまだ事故後の対応に追われていた。部下の雨宮も一緒である。停電が発生した後、研究所は一時的なパニック状態になった。元々、この研究所で行われる予定であった公開実験の警備を任されていたが、雨宮がぼろを出したせいで部外者であった柳仁志が急に見学に来ることになって、自分でもかなり動揺したと感じた。段階的な避難が行われている中、柳は実験中止と知るや否やそそくさと帰ってしまった。彼が来ることを雨宮ならともかくとして上司の遠藤昭ですら隠していたことに多少の憤りは感じていたものの、それはそれ、今は避難が完了するまで関係者の相手をしなければならない。

 見学予定の関係者リストは事前に中野所長から受け取っていたので、それをもとに研究所から帰っていく人たちのチェックをしたり、関係者や研究員の避難誘導、事故発生直後から研究所の制御室を含む地底階全体を立ち入り禁止にしたり、停電後に連絡しておいた鑑識課の面々への引き継ぎなどやることは沢山あった。もはや捜査一課の人間がやる仕事の範疇を超えている気はしたが、そういう扱いにはもう慣れてしまった。一々不満を持って上司や別の課に文句を言いに行っても冷たくあしらわれるだけであることは重々わかっていたからだ。相も変わらず雨宮は渦巻く不平不満を口からを溢れさせているものの、彼も本気で言っているのではないようだから、最近は愚痴に付き合ってやることも多い。

 やはり自分は変わったのだろう。角は取れた気がする。丸くなった。それが良いことなのか悪いことなのかについてはまだ考えていない。

 続々と警察車両が到着し、避難も大体が終わった頃、見覚えのあるセダンが敷地内に入ってきた。出てきたのは遠藤昭と伊勢崎だ。車内は重たい沈黙が支配していただろうことを考えて、美波は少し口角を上げた。

「絶対仏頂面で助手席座ってましたよね遠藤さん」雨宮も同じことを思っていたようだ。

「確かに」美波は短く答えた。

 彼らが降りる前に雨宮は駐車場の端の方へ走っていった。どうせ煙草だろう。昭と伊勢崎が車から降りて近寄ってくる。

「どうもお疲れ様です。関係者の避難は大方終わって、先程鑑識の方も中に入っていきました。一段落したところです」美波は手短に報告した。

「そうか、ご苦労」昭はコンクリート打ちっぱなしの研究所を眺めて言った。「中野所長はこの件について何か?」

「はい、中野所長は関係者のリーク等を防止するため先手を打って謝礼金を払ったほうがいいと仰って、その旨を関係者各位にお伝えしてあります。それだけでは不十分であると思われるので、関係者の周辺を盗聴することも視野に入れていく方が良いかと」

「そうだな。これは政府の超重要機密だ。私としてはそんなものを限定的にでも学者どもに公開すること自体が信じられん」昭は額に皺を寄せて言った。

「確かに不審な点が多い気もします。事故原因は何なんでしょうか?」伊勢崎が言う。

「今鑑識が調べているから、じきにわかるでしょう。私も変だとは思っているけれど」

 美波が雨宮に意見を聞こうと振り返ると、案の定駐車場の片隅で煙草を吸っていた。

「やっぱり……」美波は一瞬見ただけで視点を戻した。

「室外だから見なかったことにしておこうか。そういえば早坂、柳教授には会えたのか?」

「遠藤さん酷いじゃないですか。来ると分かっていたらもっと準備とか色々できたんです」

「いや、雨宮がな……。魅力的に語るものだからな……」昭は頬を緩めた。「すまない」

「僕驚きました。まさか遠藤さんが許可するなんて」

「伊勢崎も知ってたのね……」美波は溜息をつくとうなだれた。「いつから特査はこんな悪戯好きが集まる部署になったのよ……」

「すいませんでした」伊勢崎はぺこりと頭を下げた。「で、話せたんですか?」

「雨宮をけちょんけちょんに叱っただけよ。あの人も避難した後はすぐ帰ったし」

「いやあそりゃもう反省しました」リラックスタイムが終わったのか、雨宮が戻ってきた。「あ、お疲れ様です」

「まだ絞られたいのかお前は」美波が雨宮を睨みつける。

「い、いえ、ほんとにですね……、反省してます。申し訳ありませんでした」雨宮はここらが潮時だと思ったのか、素直に謝った。

「ま、ふざけるのはこれぐらいにしてだな、後は鑑識と交通整備課に任せてもいいだろう。片づけることはまだ山のようにある。この研究所が起こした停電は思いのほか広範囲に事故を引き起こしているぞ」

「事故ですか、それはまた畑違いな気がしますが」美波は腕を組みながら言う。

「この間の海老名の玉突き事故覚えているか」昭は眉間に皺を寄せた。

「海老名……、ああ、SA付近の大事故でしたっけ」雨宮が反応した。

「そうだ。あの事故は百台以上が絡む大事故になったわけだが、世間での注目のされ方は少し違った。マスコミのインタビューで取り上げられて、ワイドショーを賑わしていたりもしたが、当事者のほとんどが事故直前に意識が飛んで、夢のようなものを見たと証言していたものだ。こんなことを言っているのが一人や二人であったなら、責任逃れのための戯言として誰も注目することはなかっただろう。しかし、事故に巻き込まれた人々が揃いも揃ってこういうことを口にした。いかにもマスコミが食いつきそうな話だ」昭は一息入れて美波たちを見回してからまた続けた。「……察しただろうが、さっきの停電の後に事故って病院に運ばれてきた患者が同じような証言をし始めているそうだ」

「それってどういうことですか」雨宮が食い入るように訊ねた。

「まだわからない。後から海老名の方の署から聞いた話だが、その時はやはり玉突き事故の責任を被りたくないという理由で皆がそのような証言に同調したのだろうと結論付けていたそうだ。実際、防犯カメラの映像でも様々な個所で事故が起こった結果、ああやって全部が繋がって大規模な事故に観察されているというだけの話だ」

「でも今回は性質が異なる……」美波が顎に手を当てて呟く。

「そうだ。それぞれの交通事故はてんでバラバラで要領を得ない。まだ捜査中だが、被害者同士の間にももちろん知り合いだったとか、何らかの宗教団体に入っていてその宗教の思想が証言に繋がっているというようなことも今のところない。共通点が見当たらない」昭はため息をついた。「そこでうちの出番というわけだ。海老名の話を聞いたときに、少し胸騒ぎがしたが……、やっぱり回ってきた」

「もう集団催眠とかを疑うレベルですね」雨宮が暗い声で言った。

「そのうち何か出てくればいいですけど……」伊勢崎もトーンの低い声で言った。

「何から始めますか」美波が昭に訊ねる。

「ああ、それなんだが、今病院で聞き込みにあたってもらっている地元の所轄の刑事から引き継いで、しばらくは情報収集にあたる。まだ外部からは観察できない共通要素が出てくるかもしれない。他の病院にも電話して、そういう証言をしているような患者が運ばれて来たら連絡をしてくれるようにしてもらわないといけない。そんなところだ」

「まぁた地味ですね」雨宮が不満を漏らす。

「仕方ないですよ雨宮先輩。文句言わずに頑張りましょうよ」伊勢崎が雨宮に言う。

「お、言うようになったな。んじゃさっそく行こうか。お前運転席な」雨宮は車のキーを伊勢崎にぽいっと放り投げると、車の助手席側のドアの前に立った。「ほら早く」

「後輩にもキツイんだなあいつ」昭が呟いた。

「もう、ほっとけ」美波が伊勢崎をなだめた。

「はい、お先に行ってきますね」伊勢崎は笑顔でそういうと車に駆け寄っていった。

 黒塗りのセダンは心地いいエンジン音を響かせて、通用口までの坂を下って行った。

「雨宮がどうにかなれば特査ももっと平和になる気がします」美波が車を見送りながら言った。

「あいつがいることで、メリハリが出てることも確かだからな。いなければいないで君も私の仏頂面とやらに辟易するだろうな」昭も同じ方を見ながら言った。

「え……、いや別に私が言ったわけじゃなくてですね……」美波は昭の言葉に心震えた。恐怖が八割、のこり二割は驚愕だ。

 地獄耳かこの人は。

「私が言ったわけじゃない? 誰かが言ってたみたいな口ぶりだな」昭は真っ白な歯を輝かせて言った。

「いえ、何でもないです」この人の前で余計なことを言うのはもうやめようと美波は心に固く誓った。

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