第三章 解離と結合

夢現空間

     1


 どこからかさざ波の音が聞こえてくる。

 月の引力によって繰り返される押し問答。

 その上を穏やかな風が撫でるようにして、進む。

 純白の、穢れを知らない砂地を踏みしめる音が響く。

 それがだんだん大きくなり、耳元近くで止まった。

 目を開けると、無数の星々の広がる夜空を背景に女の人がこちらを覗くように立っていた。

《楽しかった?》その女が言う。

 知った顔だ。

 違う。

 これは私だ。私自身。

「うん、とても」そう言って躰を起こす。少し、節々が痛んだ。

《大丈夫? もうそんなに若くないんだから》

「それは、あなたが決めることじゃない。それに若くないのはあなたよ」

《貴女は私よ。私は私。貴女なんて本来存在しないわ》

「それもそうね」

 立ち上がって、スカートに付いた細かい砂を払う。すると今度は手にも粒子が付着した。

「こういうの、どうもだめ。砂を払った意味がない」

 彼女は笑って、わたしの手の砂を払った。

《そういう煩わしさって、私は好きよ》

 彼女が好きなのであれば、わたしも好きなのであろう。

 それは、わたしが生きてきて最終的にたどり着いた結論だ。人間は、非効率的なものを完全に排除することはできない。どんなに効率を求めていっても限界がある。そもそも、人間という動物自体が効率的に作られていないのだから当然だ。その限界にこそ、人間が人間たる根拠がある、とわたしは思う。

 しばらく、月光に照らされた砂浜を二人で歩く。

 どこまでいっても終わることのない海岸線。

 砂を踏む音は、潮騒に掻き消される。

 潮の香。

 星の瞬き。

 風のささやき。

 ずっと、こうしていたいと思う。

《だめよそんなの。私にはやらなければいけないことがある》彼女は言う。

「わたしはどうして生まれてきたのかな」

《生きる意味を探しているのね》

「そう。生きる意味」

《答えなんてあるのかしら》

「わたしはいろんな世界を見て回った。そうでしょ?」

《実に有意義な時間だったわ》

「わたしも、そう思う。神様はわたしにこんなたくさんの時間を与えてくれた。だからわたしはいろんなところに行って、いろんな人を見て、いろんなことをした。それは人ひとりの時間では決して得ることのできない貴重な体験だった。とても嬉しいことだし、喜ばしいことだと思う。幸せだわ」

《でも私はそれを神様からの罰だと思っている》

「わたしが?」

《そうよ。私はそう感じる時もある、ということね。物への解釈は一義的ではだめよ》

「いろんなことをした。普通に生きていたら、まず経験することのないこと。倫理的に見たら、わたしは人から罰せられるのかもしれない」

《でもそれは私が生きていくために仕方がないと判断したから。違う?》

「わからない」わたしは立ち止まって、両手の掌を見た。「わたしのこの手は、綺麗。何の汚れだってついていないように見える。けど、結果的にわたしは何人の命を奪ってきたのかな。それが、怖い」

《正義って何だと思う?」

「正義?」

《人々が喜ぶことをすれば正義かしら? 貧しい人に手を差し伸べれば正義かしら? 多数を優先して少数を切り捨てることも正義かしら?》

「そんなこと、もっとわからないわ。何度もそういう疑問を思い浮かべたけど、結局結論は出なかった」

《ある人が喜ぶ行為だって、別の人からすればその行為の価値は異なるわ。正義とは何か。結論は出せない。少なくとも、万人が認める結論を出している世界を、私は知らない。それぞれが、決断の瞬間に正しいと思ったことをする。それがその人にとっての正義。すべての人に当てはまる正義というのは存在しないのかもしれないわね》

「これからわたしはどうするの」

《私は、その時々の立場で正しいと判断されることをするだけ。こんな議論は、一人でするにはあまりにもスケールが大きすぎるわ》

「わたしという存在が理解される場所はあるのかな」

《きっとあるわ。言語というコミュニケーション手段は、とても万能のように見えるけれど、それは言語という記号が、両者の間で同様に認識されている場合のみに成り立つの。たとえ、同じ言語でコミュニケートしていても、認識の差異がそこには必ずある。その差異を、私がどうやって埋めていくか。私の居場所を作るカギはそこにある》

「認識の差異があるなんて思えない」

《わかっているでしょ。私は私。その差異がなかったら、きっと世界は均一で面白くもなんともないもの》

「わたしは、わたし」口に出してみると、少し安心した。

 沈黙。

 景色は変わらない。

 ただひたすらに歩く。

《ここはいつも夜なのね》

「星がずいぶん綺麗でしょ? 灯りが何にもないとこんなにたくさん見えるの」

《私が夜にしていたのね》

「うん。昼間はずっと青い空と海が広がっているだけで、つまらないもの」砂を足で蹴り飛ばしながらわたしは言う。「夜は変に考えすぎちゃうけどね」

《考えすぎるってことはないわ。人間、考えている限りは自分を保持できる》

「朝になったら恥ずかしくなることないの?」

《ある》私はくすっと笑った。《そんなものよ、人間って》

 前方に鳥居が見えてきた。大人一人が通れるくらいの小さな鳥居。

 これを通れば、元通りになる。

 なんだか少し寂しかった。

「他のわたしは? 姿が見えないけど」

《他のものなんていないわ。全部、私の中にある》

「そう……」鳥居に向けて歩みを進める。

《一つだけ、言葉にして忠告しておくわ》

「何? 改まって」

《つまらないことは、禁止》そういうと彼女はふっと姿を消した。

 他には誰もいない。

 私は、私。

 林日向子。

 自分のことは、自分が一番良く知ってる。

 深呼吸してから一気に鳥居をくぐると、世界の色彩はすべて失われ、闇に還った。

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