それでも日常は続く

     8


 倉持は電話が切れた後、しばらく画面を見つめていた。

「片瀬君、なんだって?」同期の園恵美が訊く。

「うん。遠藤も、日向子ちゃんも、特に問題はないって。今は気絶してるみたいだけど、しばらくしたらすぐに目を覚ますだろうってさー」片瀬は隣に座って俯いている湊に向かって言った。「市川さん、そういうことだから大丈夫だよ」

「……うん。ごめんごめん。なんだかみんなに迷惑かけちゃったな……。一番の被害者はあの二人なのに」目尻に残る涙を拭いて湊ははにかむ。

「被害者って……。別に誰かにやられたわけじゃないじゃない。事故なんだから湊ももっとしっかりしなさいよね」恵美は座席にもたれて言った。

「うん……」

「遠藤君も日向子ちゃんも大丈夫かなぁ……。私たちもこんなところにいるより病院行った方が良かったんじゃ」恵美の隣に座っているのは同じく三年の神原優子だ。彼女は色々なサークルに所属しているらしく、こうしてCodaのメンバーと顔を合わす機会が少ない。

「片瀬も結構メンタルにきてたみたいだし、今はこれでいいと思うよ。そっとしといてあげれば明日にはいつもの調子で出てくるよ」倉持が神原をなだめるように言った。

 ライブハウスでの停電があった後、一時間ほどで電力は復旧した。その間、すでに撤収を始めてしまっていたCodaのメンバーは、今から改めて準備をして、ライブをやるとなると運営スケジュール的にも今日は厳しいという結論に至り、片づけが終わり次第流れ解散となった。

 電力が復旧したといっても、街の混乱は未だ冷めやらず、あちこちで車が立ち往生している光景が見受けられた。あの事故が起きてすぐに救急車を呼んだのは湊の英断だったと言わざるを得ない。

 ファミレスでは何故か有線放送ではなくFMラジオが放送されていた。この混乱に情報が不足している客への配慮だろうか。たった一時間程度の停電でも、大都市で予告もなしに起こると対応できない、今後は家庭での防災対策により一層力を入れてくださいという趣旨の番組が終わった後、現在の停電に伴う被害状況などが伝えられた。それによると、交通事故が多発していて、一部の幹線道路が事故処理などで車線減少を余儀なくされているようだ。

「今日のライブハウスの使用料みたいなのってどうなるんだろ」倉持が思いついたように言う。

「誰か部長に確認した?」と、恵美。

「私聞いといたよ。部長に。今日貸し切りしてた金額を一時間いくらって計算し直して、撤収完了した時間までの金額だけの支払いになったって言ってた」そう言い終わると神原はストローでちゅーっとアイスティーを飲み干す。

「たまにしっかりしてるんね、優子は」恵美が言う。

「失礼だよ恵美ちゃん。そういう冗談はもっと良く知り合ってからじゃなきゃ」

「もう次四年生だぞ……。まだだめなのか?」

「わかりませーん」

 これが二人の日常的なコミュニケーションの一形態であるらしい。

「そっか、じゃああとで返金あるかもしれないね」倉持はそう返しながらも、頭では違うことを考えていた。

 隣に座っている市川湊。前の二人のやりとりを見て今ではもう笑えているくらいまで落ち着いたみたいだけれど、どうしてあそこまで感情的になったんだろう。

 確かに自分だって友達の遠藤が倒れちゃったし、後輩の日向子ちゃんも同じようなことになって悲しくないわけじゃない。今だって心配はしてるしなんだか落ち着かない感じもある。友達として、先輩として、持ちうるべき一定の感情はある。

 市川さんが爆発させた感情は、どちらに対してのものなんだろう。倉持は純粋に疑問に思った。あとで、聞いてみよう。

「あ、そうそう。今日のライブが実質中止みたいな感じになっちゃったから、一二月までにどこかでまた日にちを取ってライブをやろうっていうことを部長が言ってたよ」神原はドリンクバーからアイスティーをとって戻ってきた。

「なんだ、部長も大変だな」

「でも……、このままじゃみんな消化不良感あるし、あたしはいいと思うな」湊が意見した。

「しっかし、まいったもんだね。今回は。こんなことサークル始まって以来初めてなんじゃないの」恵美はコーラをグイッと飲んだ。「ぷはー。うまい」

「ビール飲んでんじゃないんだから」倉持が突っ込む。

「うるさいわね。ほんとだったらライブの後の打ち上げもあったはずなんだもん。それもキャンセルしちゃったでしょ。やってらんないわ」

「もう少し女の子らしくっていうか……」倉持はため息をつく。

「なんか言った?」

「ううん。なんでも」

 そんな、とりとめのない、だらだらした時間を過ごしてから、一同はファミレスを出て解散した。時刻は七時すぎ。ようやく落ちた陽に変わって、街灯の明かりが街を照らす頃だ。

 駅で倉持は園と神原と別れて、途中まで同じ路線の湊と一緒になった。滑るように、湿気た空気を吹き飛ばしながら電車がホームへと入ってくる。

 運良く空いていた座席に二人腰を下ろすと、開口一番倉持は疑問をぶつけた。

「市川さん、あの二人となにかあったの」

 虚を突かれたように目を大きくして、湊は倉持を見る。

「あ、……えっと、その」

「いや、僕に話せないような内容ならいいんだ。相談を持ち掛けられるようなキャラでもないし、そういう関係でもないし」

 湊は黙ったままだ。

「でも、なんていうかさ、見過ごせないっていうか。別に偽善とかそういうのでいってるんじゃないんだけど……」

「うん。わかってる……」湊は首を三回縦に振った。

「高校のときと比べて、大学の友達関係ってどう思う?」

「大学の?」

「そう。高校のときってさ、三十人とか四十人とかのクラスで分けられてて、学校にいる時間の大半をその人たちと過ごしてるでしょ? 最初は無作為に分けられただけのグループでみんな探り探りだけど、時間が経って一緒にいるうちに仲良くなってってさ、一緒にいる時間が長いもんだから、お互いの良いとことか悪いとことかだいたいわかってくる。他の人がどうなのかは知らないけど、そういう時期に一緒にいて仲良くやってた奴とは今でも友達だし、たまに遊んだりもする。高校とかのそういうみんなで共有してる時間って、すごく大切でかけがえのない時間だったんだなって最近になって思ったんだ」

「倉持君て意外と考えてるんだね」少し笑って湊は言った。

「僕だっていつもぼうっとしてるわけじゃないよー。そう、それで、大学に入るとさ、クラスって言っても語学が被ってるだけとか結構人間関係が希薄だなあって思って。これはもしかしたら僕がノスタルジックになっちゃってるだけなのかもしれないけど、大学でも高校みたいにお互いのことを、良いも悪いもわかって、その上で一緒にいたいっていうか。どうしても表面的な付き合いが多くなっちゃうから、余計に好きなことで集まってるサークルとかの人たちとはそういう密な関係でいたいって最近思うんだ。もう遅いのかもしれないけど」苦笑いして倉持は湊を見た。

「そういう気持ち、わかるよ」湊は噛みしめるように言う。「この際倉持君には話しちゃうけど、ちょっと前におばあちゃんが死んじゃってね、それは個人的なことだし自分の中で消化しなきゃいけないのはわかってたの。みんな人の死っていうのを乗り越えて、それでも前を向いて生きてるんだって自分に言い聞かせてね。でも、そうしたつもりでいたのに、修ちゃんにそのこと話しちゃったらもう止まらなくなっちゃって……」

「幼馴染だったもんね、遠藤とは」倉持は、もしかしたら……と確信めいたものを感じた。

「そう……。そんなことを話したから、あんなことになっちゃったんじゃないかって……。考えだしたら歯止めが利かなくなって……。ほんとにごめんなさい」

 少し湊の目が赤く充血しているのに倉持は気づいた。

 そうか。やっとわかった。

 市川さんは遠藤のことが大切なのだ。大好きなんだろう。

 倉持はこの手の感情を察することができたのは初めてだった。なんだか少し、こそばゆい。

「僕に謝らなくてもいいよ。遠藤が目を覚ましたら、本人に直接言ってあげてね」倉持はできるだけ優しい息遣いでそう言った。

 車掌のアナウンスがまもなく大船駅に到着することを告げた。倉持は立ち上がって湊に向き直る。

「市川さんがこうやって話してくれただけでも僕は嬉しかったよ。その、頑張ってね」

「何を?」湊はぽかんとした顔を見せる。

「なんでもない。じゃあ、また」

 そう言って倉持は電車を降りた。胸が弾んでいるのがわかる。なんでも話せるようになるまで、どれくらいかな。今日の晩飯は何にしようか。

 温かく柔らかい陽だまりみたいな気持ちを胸に、倉持は家路についた。

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