溢れる不確定性

     7


 片瀬拓哉は優しさの欠片もない光を放つ蛍光灯に照らされながら、一人病室のベッドの横に座り込んでいた。病室には遠藤修介を含む計六人が押し込められていて、それぞれカーテンが引かれているものだから閉塞感しかない。時刻は夕方の六時半になっている。どのくらいこの部屋でこうしているのだろう。

 遠藤修介と林日向子が病院に運び込まれてからすぐに頭部のMRI検査が行われた。検査の結果、二人とも脳内のどの部分にも異常は見受けられず、医師からもただの気絶であるから特に心配はいらない、今日はもう帰っていいから、というような当たり障りのないことしか言わなかった。林日向子は女性の大部屋に移されているらしい。

 片瀬は医者の言葉に半信半疑であった。

 何も異常がないだって?

 二人同時にぶっ倒れたのに?

 そんなこと絶対おかしい。そんな偶然あってたまるか。

 第一、脳のどの部分にも異常がないってことが一番異常なことなんじゃねえのか。遠藤には別段貧血の気があったというわけでもないし、それは林日向子にしても同様だろう。病弱なイメージは皆無だ。

 窓からは西日が刺すように入り込んでいる。蛍光灯の白色と西日のオレンジ色で目がチカチカした。落ち着かない。

 遠藤を一瞥してから片瀬は大部屋を出て、エレベーターで一気に一階まで降りる。外に出て入り口横の灰皿を見つけて煙草に火をつけた。

 吐き出した煙が陽に照らされて良く見える。すぐに、周りの空気と溶け合うようにして消えていく。そんなところからも気を失った二人を連想して目を逸らした。

 救急車に乗り込む前にデジャヴを味わったことを思い出す。

 夢で見ていたのなら、なぜその時になるまで気が付かない? なぜ思い出せない?

 わかっていたなら、何か対処法だってあったんじゃないのか――。

 俺には、何もできなかった。

 後悔が襲いかかってくる。

 なに、ただの気絶なんだからそんなに落ち込むことはないだろ、と頭の中の別の片瀬が言う。

 あれはただの気絶なんかじゃない。本能的にそう直感している。ただの気絶と一蹴するなら、そもそもなぜステージ上から二人とも倒れたんだよ。

 順番が逆なのだ。気絶したのと倒れたのとでは前者のほうがあきらかに先だ。そうじゃなきゃ演奏中にバランスを崩したとしても、あんなに無抵抗に、落ちていくように倒れたりしないはずだ。

 そこまで考えて、ふと我に返った。ジーパンのポケットに入れている携帯電話が振動している。電話だろうか。

 見ると、着信履歴が五件ほど入っていた。倉持からだ。すっかり連絡するのを忘れていた。電話の主も倉持と表示されている。

「もしもし」

「あー片瀬? いつまで電話に出ないつもりなんだよ。連絡ないからこっちは気が気じゃなくて病院に行こうとしてたとこなんだけど」

 電話の向こう側で深いため息が聞こえる。

「悪かった。無視してたわけじゃねえんだ。気づかなくってな、ぼーっとしてた」

「ぼーっとしすぎでしょ。――それで?」上目づかいで訊ねるような声で倉持が言う。

「おう。MRIも撮ったけど、特に異常はなくてただの気絶だってよ。全く、心配させやがる」片瀬は少し、上ずった声になった。

「そっか、そりゃよかった。明日にでもお見舞いに行くよ」

「わかった。明日は一応俺も行くわ。明日になれば目が覚めてるだろうしな」

「そうだね。あ、そうそうこの後はどうするの?」

「このまま帰るよ。今日は疲れた。そっちは今何してんの?」

「ライブハウスの撤収自体はすでに終わったよー。今は三年数人とファミレスに来てる。市川さんが結構取り乱してて、三女も放っておけないってことになってねぇ。ほんとに来ないの?」

「……やめとく」少しの逡巡のあと、片瀬は言った。

「りょーかい。気を付けて帰るんだよ」

「お前は俺の母ちゃんかよ」

 引き笑いが聞こえたあとに、倉持はトーンダウンして言う。

「片瀬。今あんまり心理状態っていうの? 良くないでしょ。変に落ち込まないほうが良いよ」

 片瀬の心を見抜いたような、そうでないような。

「……おう。んじゃ、また明日な」

「また明日」

 電話を切ると、旧式の携帯電話をポケットにしまって、一息ついた。

 倉持は何も考えていないようで、もしかしたら誰よりも色んなことを把握しているんじゃないか、と片瀬は思う。

「明日になれば目は覚める」

 本当だろうか。

 明日のことは一体誰が保証してくれる? 未来のことは誰にもわからないじゃないか。

 しかも、こんなにも二人が遠くに行ってしまったような気持ちになるなんて、想像もしていなかったことだった。

 あと、残してきた湊のことも急に心配になってきた。明日大学に行ったら謝らないといけない。

 湊との会話を思い出すと、眉間のあたりが熱くなった。自分でも――惚れているのは充分わかっている。俺は湊に心底惚れちまってる。

 だけど、湊は俺を見ているわけじゃない。

 あのとき――ライブが始まる前に遠藤と目が合った。

 すぐ横には湊がいて、遠藤の手を繋いでた。

 湊は、ずっと自分のことを見ていてくれたあいつに惚れてる。これはもう無視できることじゃない。なかったことにはできない。決定的な瞬間を見ちまったんだ。だけど俺はすぐに目を逸らしてしまった。その行為を肯定したようなもんだ。見て見ぬふりをした。

 遠藤はみんなといる時だって、そんな素振りは見せなかった。いつもみんな仲良くていうか、穏便に済まそうとしてた。俺にはそういう風に見えた。むしろ、部員に一番人気の日向子ちゃんを一緒になってちやほやしてる感じだったじゃないか……。

 嫉妬?

 いやまさか。俺がそんな女々しいことを?

 こんな状況下で、惚れた女のことを考えてるなんてどうかしている。

 片瀬は鬱屈としたものを胸の底に感じながら、自宅までの道のりをとぼとぼと歩いて帰った。

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