02 露見
二日後の、月曜日。
レオナが自分の席で机に突っ伏していると、「ねえねえ」と制服の袖を引っ張られた。
「九条さん、大丈夫? 今日は何だか調子が悪いみたいだね?」
教室内で柚子が声をかけてくるのはひさびさのことであった。
レオナは首だけを横に傾けて、その心配げな顔を力なく見つめ返す。
「別に、どうということはありません。いささか疲れがたまってきているだけです」
「ふーん? 昨日は日曜で完全オフだったのに、疲れが残っちゃってるの?」
「ええ。疲れているのは、どちらかというと頭のほうですから。平日の時間を削られている分、日曜は一日中机に向かうことになってしまっているのです」
レオナの言葉に、柚子は目を丸くする。
「えー? それじゃあせっかくの休日なのに勉強漬けだったの? すごいねー。あたしには真似できないや!」
「……それじゃあ遊佐さんはいつ勉強しているのですか?」
「うん? そりゃあもちろん学校の授業でさ!」
しかし彼女はその授業も三回に一回は寝て過ごしているはずである。何せ隣の席であるのだから、その事実をレオナ以上にわきまえている者もいないだろう。
頭の重さと全身の筋肉痛に苛まれながら、レオナは柚子の笑顔から目をそらした。
「地頭のいい人はいいですね。私は中学時代になまけていた分、人一倍の努力をしなければいけないんです」
「そっかー。でも、それだけ頑張ってるなら先週の小テストもばっちりだったんじゃない? 結果が楽しみだねー?」
そういえば、次の授業は数学で、その小テストとやらが返ってくるはずであったのだ。
普段の苦労がどれだけ報われるのか、そんなことを考えたらよけいに頭が重くなってきてしまった。
「島ちゃんって、九十点以上の人だけ名前を読みあげるんだよねー。今回は特に難しかったから、あたしなんて絶対に撃沈だよー」
「……と、言いながら、遊佐さんのほうが優秀な成績だったりするのですよね。ええ、そうです。よくある話です」
「だ、大丈夫、九条さん? なんか目つきが虚ろになってきたけど」
「うふふ。大丈夫です。どんなに苦しくとも、これが私の選択した人生なのですから」
そんな不毛な会話をしている間に、数学の担当である島津教員がやってきてしまった。
それと同時に鳴り響いた本鈴の音色を聞きながら、レオナは重たい身体を机から引き剥がす。
「それでは、授業を始めます。まずは小テストの返却からですね。出席番号順に返却しますので、名前を呼ばれた方は答案を取りにくるように」
いつでもクールな島津教員が、教壇に置いた答案を一枚取り上げる。
「まずは、亜森さん。九十六点です」
「はい」と亜森が立ち上がった。
主席での卒業を目指すというクラス委員長は、やはり数学でも優秀な成績をおさめているらしい。
「宇梶さん」「はい」
「大木さん」「はい」
「加藤さん」「はい」
その後は点数が読みあげられることもなかった。
これなら自分だけが恥になることはないか、と出席番号五番のレオナは腰を浮かせて自分の名前が呼ばれるのを待つ。
「九条さん」
「はい」
「……九条さん、百点です」
ガタッと思わず椅子を鳴らしてしまった。
島津教員は、冷たく冴えわたった視線を飛ばしてくる。
「どうしました? 答案を取りに来てください」
「は、はい」
教室内にざわめきが生じ、いくつもの視線が四方八方から飛ばされてきた。
なんとなく背筋に汗をかきながら、レオナは教壇の前に立つ。
「見事な成績です。全クラスでも、満点であったのは九条さんのみでした」
「は、はい。ありがとうございます」
「今後もたゆまず努力を続けてください。努力は、きっと報われることでしょう」
その表情は動かさないまま、島津教員は目もとだけで優しげに微笑んでいるように見えた。
レオナはぺこりと頭を下げて、両手で答案用紙を受け取る。
そうして席に戻ると、柚子が「すごいねー!」と囁きかけてきた。
「あんな難しいテストで満点なんて! 本当に頑張った甲斐があったねー?」
「はい。素直に嬉しいです」
これならきっと、母親も胸を撫でおろしてくれるだろう。
口に出しては何も言わないが、羽柴塾での稽古をあれだけ嫌がっていたレオナが格闘技のジムに通いたいなどと言い出して、母親にはたいそうな心配をかけてしまっているはずなのである。
柚子の目がなければ、答案用紙を胸にかき抱きたいほどであった。
「あはは。ほんとに嬉しそうな顔! なんだかあたしも気持ちがほっこりしてきちゃったなー」
「……うるさいですよ。放っておいてください」
「うんうん、今はぞんぶんにその喜びを噛みしめるがいいさー」
そんなことを言いながら、柚子のほうまで何やら嬉しげな表情になっている。
なんと言い返せばよいのかレオナが考えあぐねている内に、教壇から「静粛に」とお叱りの言葉を受けてしまった。
「雑談の時間ではありませんよ、遊佐さん、九条さん」
「はーい、ごめんなさーい」
レオナも無言で島津教員のほうに頭を下げてみせる。
すると、ななめ前の席の亜森とばっちり目が合ってしまった。
授業中であるにも拘わらず、彼女は身をよじってレオナたちのほうを見つめていたのだ。
黒縁眼鏡の向こう側から、むやみに真剣な目を向けてきている。
なんとなく、感情の読みにくい目つきであった。
(……ライバルに成り得るような存在は歓迎したいんじゃなかったっけ?)
レオナが見つめ返していると、やがてふいっと前方に向き直ってしまう。
とうていレオナを歓迎しているような態度ではなかった。
かといって、敵対視されている感じもしないので、よけいに落ち着かない。
(まあ、おかしな難癖をつけられなければ、それでいいけどさ)
そんなことを考えている間に、すべての答案は生徒たちのもとに返された。
柚子の点数は、ぎりぎり九十点であった。
◇◆◇
「九条さん、ちょっとよろしいですか?」
亜森に声をかけられたのは、放課後のことである。
「はい」と向き直ると、いつもの取り巻きのメンバーを従えて、亜森が立っていた。
それを横目に、柚子はそそくさと教室を出ていってしまう。
「実はちょっとご相談があるのです。聞き届けていただけると嬉しいのですが」
「はい、何でしょう?」
「わたしたちは、茶道部の活動がない火曜日と木曜日、あとは試験前などに集まって、勉強会を開いているのです。よかったら、九条さんもその勉強会に参加していただけませんか?」
「勉強会───ですか」
それはまた、思いも寄らぬ提案であった。
しかし平日はすべて『シングダム』での稽古が控えているし、そもそもレオナは他人とともに勉強をした経験など皆無である。自分の性格上、それで勉強の効率が向上するとはとうてい思えなかった。
「わたしはさきほどの小テストの結果で、実に感服してしまったのです。九条さんが参加してくださったら本当に光栄なのですけれど……いかがでしょう?」
今の亜森は、レオナの知る亜森であった。
優雅で穏やかで、お行儀がいい。感情が読みにくいことに変わりはないが、べつだん警戒心をかきたてられることもないたたずまいだ。
「そんな風に言ってもらえる私のほうこそ光栄ですけれど、でも、ごめんなさい。私は一人でいるほうが集中できるタイプなのです」
「……わたしたちでは、九条さんの勉強相手に相応しくない、ということでしょうか?」
「いえ、そんなつもりはまったくありません。お誘い自体は、とても嬉しく思っています」
なんとか心情をわかってもらおうと、レオナは真っ直ぐに亜森を見つめ返す。
しかし亜森は、その視線をレオナの顔から足もとへと下降させ始めた。
「……その足」
「はい? 何ですか?」
「その左足はどうされたのですか? ずいぶんひどい怪我のようですが」
レオナは一瞬言葉に詰まってしまった。
確かにレオナの左の内腿には、くっきりと青あざが刻みつけられてしまっていたのだ。
とはいえ、見た目ほど大した負傷ではない。土曜日の練習の際、タックルをくらって倒れ込んだ拍子に、たまたま柚子の肘が全体重をかけてその場所をえぐってくれただけのことだった。
青黒く鬱血してしまっているものの、一日置いた現在では痛みもないし、ぎりぎりスカートで隠れそうな位置であったので、特別な処置もしていない。湿布などを貼るよりはそのままにしておいたほうが目立つまいと思っていたのに、それを亜森は目ざとく看破してしまったのだった。
「これは、その……ちょっとぶつけてしまっただけです。大した怪我ではありません」
「腿の内側をぶつけてしまったのですか? いったいどのような状況であったのでしょう?」
「えーと、それは……自転車で、うっかり転んでしまったんです」
これでは柚子と同レベルの言い訳である。
亜森はレオナの足もとを見つめたまま、「そうですか」とつぶやいた。
「どうぞお大事になさってください。では、貴重な時間を潰させてしまって申し訳ありませんでした」
「あ、は、はい」
ちょっと心配そうな顔をしている取り巻きたちを引き連れて、亜森は自分の席に戻っていく。
レオナは鞄を取り上げて、早々に退散することにした。
一人で昇降口を出て、同じように帰路をたどっている女子生徒たちの間をぬって、西荻窪の駅に向かう。速足ならば五分ていどで踏破できる距離だ。
そうして駅の改札をくぐり、いつも通りにホームの右端まで進むと、そこにはまだ柚子の姿があった。
「あ、九条さんも間に合ったね。そろそろ電車が来るはずだよー?」
「そうですか」
軽く息をつき、柚子の笑顔を見つめ返す。
「亜森さんは大丈夫だった? なーんか思い詰めてるみたいなお顔だったけど」
「ええ、まあ、大丈夫だと思います。……ただ、どうもあの人には好かれているのか嫌われているのか判別できない部分があるのですよね」
「嫌われてるってことはないっしょー。亜森さんは、嫌いな人にわざわざ話しかけるような人じゃないもん。あたしなんて、一言たりとも喋りかけられたこともないんだから!」
「……遊佐さんには嫌われているという自覚があるのですか?」
「そりゃもちろん! 心当たりだって、ばっちりあるしね」
その答えを聞く前に、電車がホームに到着してしまった。
普段通りの混雑具合を見せている車中に乗り込んでから、レオナはあらためてその理由を問う。
「んー? 嫌われてる理由? それはたぶん、あたしが理事長の娘だからだと思うんだよね。で、そのおかげで色々とお目こぼしをもらってるとか思っちゃってるんじゃないのかな、亜森さんは」
「……その認識は、正しいものなのですか?」
「うーん、どうだろ? 先生によっては、あるのかもね。島ちゃんみたいに何にも気にしてない先生もいるけど、やっぱり理事長の娘にお説教って気が引けちゃうもんなんだろうねー」
「だったらそれは、遊佐さんではなく先生方のほうに問題があるのではないでしょうか?」
「あはは。でも、お説教のネタをこしらえてるのは、あたしのほうだしね。遅刻や居眠りはしょっちゅうだから、それを苦々しく思ってる先生は多いかもしんない」
吊り革に両手でつかまりながら、柚子は悪戯っぽく笑いかけてくる。
「だからまあ、あたしの場合は自業自得だからいいんだよ。でも、亜森さんに嫌われちゃうと、クラスで孤立することになるからさ。九条さんは、気をつけたほうがいいと思うよー?」
「……亜森さんというのは、そこまで影響力のある人なのですか?」
「うん。亜森さんはどっかの大きな会社のお嬢様で、学園への寄付金もものすごいんだってさー。成績もすっごく優秀で、中等部の頃なんかは生徒会長までつとめてたぐらいだし!」
そういえば、彼女たちにはレオナの知らない中等部時代の歴史というものが存在するのである。
「でも、そんなことが人間の価値を決めるわけではないでしょう? そういう立場にある亜森さんが遊佐さんを嫌うのは、何だか本末転倒な気がしてしまいます」
「そんなことないよ。別に亜森さんも家柄とかを利用して威張り散らしてるわけじゃないし。だからこそ、あたしみたいな人間が目障りなんじゃない?」
「……そういう卑下した物言いは、遊佐さんらしくないと思えてしまいますね」
「うーん? 別に卑屈になってるわけじゃないよー? ……どしたの、なんだか不機嫌そうだね、九条さん?」
「いえ……ただ何となく、亜森さんの目を盗んで遊佐さんと交流しているこの状況が、とてもさもしいことのように感じられてきただけです」
「それはしかたのないことじゃん? 九条さんはただ、格闘技のジムに通ってるってことを隠蔽したいだけなんだし。なんにも気にすることはないよー」
そう言って、柚子はいっそう楽しそうに微笑んだ。
「あたしとしては、何だか密会してるみたいで楽しいよ? 学校で話せなくてもジムではたっぷりおしゃべりできるから、毎日が楽しくてしかたないの!」
「……会話をするより取っ組み合っている時間のほうがよほど長いように感じられますが」
「それはそれで至福の時間さ! 今日も練習、楽しみだねー?」
レオナは肩をすくめるだけで、返事をするのは差し控えておいた。
そうして電車はあっという間に中野駅に到着し、二人は連れ立って『シングダム』を目指す。
これからまた、四時間にも及ぶ過酷なトレーニングが開始されるのだ。
しかし、現時点ではトレーニングと勉強の両立が可能であることを立証できたので、頭の重みだけは解消されていた。
(だけど、こんな調子で対抗戦に出場させてもらえるのかな)
服部選手は「いい選手」であった。
スピードはあるし、パワーもありそうだし、立ち技においてはボクシング風のテクニック、寝技においては柔道のテクニックがある。いまだMMAのキャリアは一年ていどであるという話であったが、柔道時代につちかってきたものがしっかりと彼女の糧になっているのだろう。
仮に路上の喧嘩であれば、恐れる理由などどこにも見当たらない。
が、MMAという競技の試合である、と考えると───まったくもって、予測の立てようもなかった。
現段階で、レオナはまだ羽柴塾で習い覚えた技術をどのような形でMMAという競技に活かせばよいのか、その筋道がまったく見えていなかったのである。
(まあ、くよくよ考えたってしかたがないか)
まずは指導陣の課してくるトレーニングを粛々とやりとげるだけだ。
そのようなことを考えながら、レオナは柚子とともに『シングダム』の扉をくぐった。
いつも通りにローファーを下駄箱にしまい、無人の受付台で名簿に名前を記入する。
そうしてトレーニングルームへの扉をもくぐると、本日は珍しくこんな時間から会長の黒田が姿を現していた。
「押忍! 会長さん、今日はお早いですね?」
「ああ、今日は夕方から個人指導を頼まれていたんでね。それより、こっちの彼なんだが───」
黒田会長の言葉は黙殺させていただき、レオナはずかずかとトレーニングルームに踏み込んだ。
少し離れた場所では景虎や晴香や乃々美たちがおのおのの練習に取り組んでいる。そんな彼女たちへ挨拶をするゆとりもなく、レオナは大股で黒田会長に近づいていき、そして、そのかたわらに立ちつくしていた人物へと正拳突きを繰り出した。
「うわあっ」と悲鳴まじりの声をあげて、その不届き者は後方にひっくり返る。
小賢しいことに、そいつはひっくり返ることによってレオナの正拳突きから逃れたのだった。
「どうしてあんたがこんなところにいるんだよっ!」
どうしても感情を抑制できないまま、レオナは全力で怒鳴りつけてしまった。
不届き者は、マットにへたり込んだまま子犬のように微笑んでいる。
「どうしてって、今日付けでこのジムに入門させていただいたんです。若輩者ですが、どうぞご指導ご鞭撻のほど宜しくお願いいたします」
「若輩者じゃなくて不届き者の間違いだろ! ふざけんなよこの野郎!」
「ふざけてないですよお。俺は真剣な気持ちでこのジムの扉を叩いたんです」
と、その不届き者はマットの上で座りなおし、ぴしりと正座の姿勢を取った。
中肉中背の、どこにでもいそうな凡庸なる外見をした十六歳の少年───元・羽柴塾の門下生、竹千代武士である。
「てめー、あたしの後を尾けたんだな!?」
「いえ。おかみさんから聞いてきたんです。レオナの姐さんが格闘技のジムに通い始めたと聞いて、居ても立ってもいられなくなってしまったんです」
レオナは渾身の力で溜息をつき、おさげにまとめた頭をがりがりとかきむしった。
そこに景虎が「どえらい剣幕だったねえ」と笑顔で近づいてくる。
「まだ素性は聞いてなかったんだけど、この坊やは九条さんの知り合いだったのかい?」
「……はい。羽柴塾の門下生だった人間です」
答えながら、レオナは暗い目で景虎を見返した。
「あの、できれば今の一幕は記憶から抹消していただけるとありがたいです」
「うーん、そいつはなかなか難しそうだけど、ま、善処はしてみるよ」
そんな言葉を交わしている間に、その場にいる全員がレオナたちのもとに集まってきてしまった。
かたわらに柚子の気配を感じたが、どんな顔をしてそちらを向けばいいかもわからなかったので、レオナは視線を足もとに落とす。
「なに? こいつもその九条ってやつと同じ道場の人間だったの?」
不機嫌そうな声で乃々美が問うと、本人ではなく黒田会長が「そうだよ」と応じた。
「ちょうど今、紹介しようと思ってたところだったんだけどな。今日付けでうちに入門することになった竹千代武士くんだ。年齢は十六歳、学年でいうと乃々美たちのひとつ上らしいけど、学生ではなく社会人だ。格闘技の経験は九条さんと一緒で羽柴塾の出身、六年のキャリアで黒帯の保持者だそうだ」
「押忍! 竹千代武士と申します!」
竹千代が直立し、みんなに礼をしている気配がする。
どの土手っ腹をめいっぱい蹴りあげてやりたかったが、この状況ではそれも難しかった。
「ふん、胡散臭いやつだねー。そっちの女もついに化けの皮が剥がれたしさ」
「そんなことないでしょ。口の悪さだったら、ののっちだって負けてないじゃない?」
晴香はそのように取りなしてくれたが、レオナとしては穴を掘ってでもこの身を隠したいぐらいの心境であった。
すると、柚子が「ねえねえ」と遠慮気味に手を引いてきた。
「何をそんなに怒ってるの? もしかしたら、嫌いな人だったのかな?」
他の人間には聞かれないよう、小さく潜められた声だ。
レオナは意を決し、それでもそろそろとそちらに目を向けてみた。
柚子はとても心配そうな面持ちでレオナを見つめている。
レオナの本性を垣間見たのに、それを気にしている様子は微塵もない。
レオナは何だか自分でもびっくりするぐらいの安堵感を味わわされながら「いえ」と首を振ってみせた。
「この竹千代という人間を特別に嫌っているわけではありません。ただ、自分の過去を知る人間に、ずかずかと今の居場所を踏み荒らされたくなかっただけです」
柚子の目がきょとんと丸くなった。
「どうかしましたか?」と問うと、「ううん」と首をぷるぷる振る。
そうしてその動きが止まると、柚子の小さな顔にはこれまでで一番幸福そうな笑みが浮かんでしまっていた。
「ただ、『今の居場所』っていう九条さんの台詞に胸がときめいちゃっただけ。うわー、何だか涙がこぼれそうになるぐらい嬉しいや!」
「あの、これ以上私を動揺させないでいただけるとありがたいのですが」
「えへへ」と無邪気に笑いながら、柚子はレオナの左腕をぎゅうっと抱きすくめてきた。
コアラの子供にでもなつかれてしまったような心境で、レオナは竹千代に向き直る。
「……竹千代くん、ひとつだけあなたに伝えておきたいのですが」
「た、竹千代くん?」
「私はこれでも相応の決心を固めてこのジムに入門したのです。それを興味本位でひっかき回すおつもりならば、たぶん私は一生あなたのことを許せなくなると思います」
「興味本位だなんて! 絶対にそんなことはありませんよ! 俺の目的はただひとつ、姐さんや塾長に負けない強い人間になることだけです! それ以外の余計な気持ちなんて何ひとつ持ち合わせていません!」
「……私の邪魔はしないとここで誓えますか?」
「邪魔どころか、姐さんの力になれればなあと思っているぐらいですよ! さっき会長さんに聞いたんですけど、姐さんは何とかっていう大きな大会に出ることを目標に頑張っておられるのでしょう?」
「『ヴァリー・オブ・シングダム』。うちのジムが主催する年に一度のイベントだよ。九条さんが出場できるかどうかは、残り三週間の頑張り次第だな」
にこにこと笑いながら、黒田会長がそのように口をはさんできた。
「そう、それです!」と竹千代も笑顔で大きくうなずく。
「姐さんが目標を達成できるように、俺も協力します! 店のほうは朝番で固定にしてもらいましたから、夕方以降は毎日練習に参加できます! 俺なんかじゃ姐さんのお役には立てないかもしれませんけど、全力でお手伝いいたしますよ!」
「別にあなたの手助けなんて───」
そう言いかけて、レオナは言葉を呑み込んだ。
竹千代はこう見えてレオナよりも理屈張っているし、たしかボクシングやムエタイなどといった競技についても多少は知識をたくわえているはずであるのだ。
羽柴塾の技術をMMAという競技に適応させることができるかどうか、この竹千代であればレオナよりも有意なことを思いつけるかもしれない。
(だけど、またこいつと年中顔を突き合わせることになるのか……)
その一点だけが、心に重くのしかかってくる。
自分の過去や本性を知りつくしている人間の前でお行儀よくふるまうのは、死ぬほど肩がこってしまう。それはもう現時点でのやりとりで判然としていた。
「ところで、さっきからずっと気になっていたんですけど」
と、呑気たらしい表情を取り戻した竹千代が声をあげてくる。
「あの女の子さんはどうしてあんなところで縮こまっているんですか? あれって姐さんのご学友でしょう?」
まったく意味もわからないまま、レオナは後方を振り返った。
そして、愕然と立ちすくむ。
トレーニングルームの扉は開け放たれたままであり、そして、その扉の陰で見覚えのある黒縁眼鏡がきらめいていたのだ。
「あれ、亜森さん? どうして亜森さんがこんなところにいるの!?」
柚子も仰天したように声をあげる。
一年一組のクラス委員長たる亜森紫乃は、悪びれた様子もなく扉の陰から進み出てきた。
「それはこちらの台詞です。あなたがたはこのような場所で何をやっているのですか、九条さんに遊佐さん」
感情の読み取れない声で、亜森はそう言った。
「それに、今のはどういうお話なのでしょう? 大会がどうのと聞こえたようですが───まさか、あなたがたがそのようなものに出場する、というような話ではないでしょうね? そんなこと、弁財学園の生徒として許されるはずもありません」
「亜森さん……あなたは、私たちを尾けてきたのですか?」
レオナは決然と問い質した。
しかし、亜森がそれに答えることはなかった。
そうしてレオナの新生活は、ますます思いも寄らぬ方向に転がり始めてしまったのだった。
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