epilogue
二人の朝
翌日の月曜日。
思った以上に、レオナの身体はガタガタであった。
腕ひしぎ十字固めを極めかけられた左肘などは、真っ直ぐにのばすことさえ覚束ない。試合中はアドレナリンか何かが出ていて、痛みが消えていたのだろう。服部選手の猛攻にさらされた腕や顔面や脇腹も、青黒く腫れたり熱をもったりで、実に惨憺たる有り様である。
そんな惨憺たる有り様にもめげずに、レオナは制服へと着替えて通学鞄を取る。
身体のほうは不自由でも、早朝のロードワークを取りやめた分、時間には余裕があるぐらいだった。
「それじゃあ、行ってくるね。朝食はテーブルに準備してあるから」
行きがけに母親の寝室に呼びかけると、うにゃあとかぐむうとかいう意味のなさないうなり声だけが返ってきた。
母親は昨日も帰りが遅かったので、睡眠が足りていないのだろう。それでもそろそろ起床しなくてはならない時間であったので、安眠をさまたげたレオナの所業にものちのち感謝してくれるはずであった。
玄関口でローファーを履き、マンションの部屋を出て、また鍵をかける。
九条家の部屋は、202号室である。コンクリ敷きの通路には明るい陽光が差し込んできていたが、そろそろコートが必要だなと思えるぐらい、十一月の風は冷たかった。
足に負傷はなかったので、エレベーターは使わずに階段で下に降りる。
そうしていつも通り高円寺の駅に向かうと、そこには意想外の人物が待ち受けていた。
レオナ以上に惨憺たる有り様の、柚子だ。
「あ、おっはよー! やっぱり九条さんはお休みじゃなかったね!」
「おはようございます。こんなところで、いったい何をしているのですか?」
「うん、ちょっと九条さんに話したいことがあってさ。待ち伏せしちゃったー」
柚子は左目の上と右頬に湿布やガーゼを貼りつけており、左足は膝の下までぐるぐると包帯を巻きつけていた。その顔も、やはり昨晩の別れぎわよりも腫れがひどくなってしまっているようだ。
が、そんな無残な姿に成り果てながら、今日も柚子は幸福そうに笑っていた。
「昨日は楽しかったね! トラさんのおかげで対抗戦も勝ち越せたし!」
「そうですね。ようやく私も肩の荷をおろすことができました」
レオナがそのように答えると、とたんに柚子は心配げな表情で口を閉ざしてしまった。
内心で首を傾げつつ、レオナは駅のほうを指し示してみせる。
「とりあえず移動しませんか? そろそろ次の電車が来るはずです」
「うん、そうだね」と柚子はきびすを返した。
やはり前足はローキックで削られてしまったのだろう。ひょこひょこと左足をひきずるような歩き方である。
「九条さんも、けっこうお顔をやられちゃったんだね。お母さんに心配されなかった?」
「はい。昨日は母が帰る前に眠ってしまったので、顔をあわせることはありませんでした。心配させるのは、今日か明日の夜あたりですね」
「そっかー。顔をあわせる前に少しでも治ってるといいね?」
柚子ほどひどくはないが、レオナも左目の下に青痣をこさえてしまっており、唇の端も切っている。レオナが顔に色をつけられたのは、半年ほど前に父親と組手をして以来のことであった。
しかし、柚子はこのような会話をするために、わざわざ途中下車をしてまでレオナを待ち受けていたのだろうか。
ホームで電車を待ちながら、レオナはあらためて柚子の姿を見おろした。
「それで、私にお話とは何だったのでしょう? ジムや試合にまつわるお話なら、学校に到着する前に済ませていただきたいのですが」
柚子は再び口を閉ざし、それから思いきったように顔を上げてきた。
「うん、それじゃあ聞くけどさ……九条さんは、この先どうするの?」
「この先?」
「九条さんは、カズっち先輩を怪我させちゃった責任を取るために、『シングダム』に入門したんでしょ? だったら、これ以上は『シングダム』に通う理由もなくなっちゃうのかなって思って……」
レオナは、まじまじと柚子の顔を見つめてしまった。
柚子はとても不安げにレオナのことを見ている。
「……そうですね。私も自分がそのように思うのではないかと考えていました。もともと荒っぽいことから遠ざかりたくて、弁財学園を転入先に選んだぐらいなのですから」
「うん」と柚子は身じろぎする。
なんとなく、それはレオナに取りすがってしまいそうになるのを必死に自制しているかのように見えた。
思ったよりも心配性なんだな、とレオナは心の中だけで苦笑する。
「伊達さんに対する負い目というやつも、自分なりには解消することができました。……でも、今のところは『シングダム』を辞めるつもりはありません」
「本当に!?」と柚子はこらえかねたようにレオナの左手をつかんできた。
「ええ」とレオナはうなずいてみせる。
「ちょっと色々と思うところがあったので、当分は続けさせていただこうと考えています。学業のさまたげにならないていどならかまわないかな、と」
「そっか」と柚子は微笑んだ。
その大きな瞳に涙までにじんでくるのを見て、レオナは驚かされてしまう。
「別に、泣くほどのことではないと思うのですが」
「泣いてないもん! でも、嬉しいなあ」
そうして柚子はそのままレオナの左腕を抱きすくめて、「えへへ」と照れくさそうに笑った。
服部選手に痛めつけられた左肘がじくじくと痛んだが、それでも柚子をじゃけんに振りほどくほどの痛みではなかった。
「それじゃあ、これからもよろしくね! 練習はいつから再開しよっか?」
「しばらくは勘弁してください。期末考査も近いですしね」
レオナの返事に、柚子は「えー?」と甘えたような声をあげる。
「そんなのまだ三週間も先のことじゃん! 九条さんの成績なら何も心配はいらないよー」
「そういう慢心が一番怖いものなのです。試合を終えたのに成績が下がったら目も当てられません」
「真面目だにゃー、九条さんは! ……真面目といえば、亜森さんのほうも何とかなりそうだね?」
あれから控え室に戻った後、亜森の行状については乃々美の口から柚子にも伝えられてしまったのだ。
レオナとしては止めたい気持ちもあったのだが、精魂尽き果てていたのでそれはかなわなかった次第なのである。
「要するに、亜森さんは嫌がらせじゃなく、九条さんにかまってほしくて会場に来ただけなんだろうね。だから、格闘技が嫌いというよりは、格闘技好きのあたしと仲良くしてるのが気に食わなかったんじゃないかなー」
「不思議なものですね。そこまで遊佐さんと仲良くしているつもりもないのに」
「だーかーらー、しれっとあたしの心をえぐらないでってば!」
ぷうっと頬をふくらませてから、またにっこりと笑いかけてくる。
「とにかくさ、九条さんが亜森さんとも仲良くしてあげれば、万事解決だよ! お昼なんかはあたしと一日置きのローテーションにすればいいんじゃない?」
「何ですかそのシフト制は。……私は私の好きなようにさせていただきます」
「えーっ! それで毎日亜森さんを選ばれちゃったら、今度はあたしが孤独死しちゃうんですけど!」
「日本語は正しく使ってください」と、レオナは肩をすくめてみせる。
「だいたい、以前は遊佐さんだってそうするべきだと主張していませんでしたか? 自分のことはいいからクラスで孤立しないように心がけるべきだ、と」
「それは、九条さんが学校でも仲良くしてくれる前の話じゃん! こんな甘美な生活を味わわされたら、もう以前の生活には戻れないよう」
レオナの左腕を抱きすくめたまま、柚子は駄々っ子のように言う。
ホームに居並んだ人々は、生傷だらけの女子高生二名が朝からひっつきあっているさまをどのような目で見守っているのだろうか。微笑ましいとでも思ってもらえているなら幸いだ。
「そうですか。だったら、解決策はひとつしかないでしょうね」
「うん? 解決策が存在するの?」
「どうということはありません。三人でお昼を食べられるような仲になれれば、万事解決じゃないですか」
「えー! それってハードモードすぎない? 相手はあの亜森さんだよ!?」
まるで自分が亜森よりも常識人であるかのような口ぶりだ。
「だってあなたたちは、ろくに会話をしたこともないまま、おたがいを遠ざけていたのでしょう? そんなのは、怠慢に過ぎると思います」
「でもでも、人間には相性ってもんがあるんだからさー。どんなに頑張っても、ハブとマングースはおともだちになれないでしょ?」
「あれは人間が勝手に対戦させているだけでしょう。出会い方が異なれば、よき友人になれることもあるのではないでしょうか」
柚子を目をぱちくりとさせてしまっていた。
レオナがふざけているのか真面目なのか、はかりかねているのだろう。
もちろんレオナは、大真面目であった。
「とにかく、文句を言うのは努力をしてからにしてください。……それに、私に言わせれば、遊佐さんと亜森さんは少し似た部分があると思いますよ?」
「うーん? 嬉しいようなそうでもないような……でもまあ九条さんのことが大好きって意味では、確かに似てるのかなあ」
「…………」
「あ! ワタシは好きじゃありませんですケドとかいう返しはやめてね! 今ちょっと頭がいっぱいいっぱいだから」
「……まだ何も言っていないじゃないですか」
そんな舌戦を繰り広げている間に、ようやく電車の接近を告げるアナウンスが聞こえてきた。
頬には冷たい初冬の風を、腕には柚子のぬくもりを感じつつ、レオナは小さく息をつく。
「まあ、私にもひとつだけ不安な点がなくもないのですが」
「ん? 不安な点って? あたしはひとつどころじゃないけどね」
「いえ、このように二人そろって生傷だらけの姿をさらしたら、また亜森さんを激怒させてしまうのではないかと、それが朝からずっと気になっていたんです」
レオナの言葉に、柚子は「あはは」と笑顔を取り戻した。
「確かにねー。亜森さんだけじゃなく、校長先生や島ちゃんなんかもひっくり返っちゃうかも! やっぱり今日ぐらいはお休みするべきだったかなあ」
そのように述べてから、柚子は元気に左腕を振り上げた。
「でもまあ誰に何を言われようと、こっちは引き下がれないもんね! わかったよ。何としてでも、亜森さんを攻略してみせませう! 今の幸せな生活を死守するために、全身全霊で立ち向かおー!」
幸せな生活か、とレオナは再び肩をすくめる。
妙齢の少女がこのような姿になり、おまけに試合でも敗北してしまったというのに、やっぱり柚子の気持ちには一片のゆらぎもないらしい。
(あんたがそんな人間だから、あたしも『シングダム』を辞められないんだよ)
自分もいつか、柚子と同じ気持ちで格闘技というものに取り組むことができるのだろうか。
そんなことはわからなかったが、現時点で、レオナはまったく不幸な気持ちではなかった。
恨みも何もない相手と殴り合い、全身がガタガタになりながら、後悔も罪悪感も抱くことなく、レオナはこうしてここに立っている。
そうして胸に満ちるのは、二ヶ月間をともにしてきたメンバーたちに、勝利という形で貢献することのできた、むずがゆいような達成感だ。
それは決して路上の喧嘩や羽柴塾の稽古から得られる感情ではなかった。
(あとは野となれ山となれ、だな)
そんな放埒な気分で口もとがほころびそうになるのを抑制しながら、レオナはしかつめらしく柚子の顔を見つめ返した。
「せいぜい事態を悪化させないように頑張ってください。それじゃあ、怪我の言い訳は何にしましょうね?」
柚子は笑顔で何かを答えたようであったが、それは電車の到着する騒がしい音色によってかき消されてしまった。
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