epilogue
日常へ
そうしてレオナは、またゆるやかに日常へと回帰することになった。
練習を再開したのは、試合の翌々日である。学校はすでに春休みであったが、試合の直後にそこまで気張ることはあるまいと思い、夕方のキッズクラスの講習が終わる時間を見計らって、レオナは『シングダム』の入り口をくぐった。
「おや、九条さん。試合を終えたばかりだってのに、もう練習再開かい?」
トレーニングルームに足を踏み入れるなり、出迎えてくれたのは景虎であった。景虎は指導員としての仕事を果たすために出勤していたのだろう。
「はい。今回はあまりダメージがありませんでしたので、問題はないかなと思って。春休みの間は、生活にもゆとりがありますし」
「そいつはけっこうなこった。ちょうど今、柚子やカズのやつも更衣室で着替えてるよ」
すでにキッズクラスの門下生の姿はなく、ただ隆也少年だけが晴香や乃々美たちと一緒にサンドバッグを蹴っていた。
それらの人々も、レオナの来訪に気づくとわらわら寄ってきてくれる。
「レオっち、一昨日はお疲れさま! 身体のほうは大丈夫?」
「はい、問題ありません。あの、一昨日の帰り道は、どうもありがとうございました」
「そんな気を使わなくていいよ。どうせうちのは、もともと一滴も飲めないんだから」
一昨日は試合の後、ジムの関係者による祝勝会が執り行われたのである。
その場には晴香のご亭主も来席しており、帰り道はレオナたちを車で送ってくれたのだった。
「いやー、それにしても一昨日はすごい試合だったね! 思い出すと、今でも背中がぞくぞくしてくるよ。ね、ののっち?」
「ふん。あんなド派手な勝ち方をしたら、そろそろマスコミも黙ってられなくなるんじゃないの?」
「あー、格闘技雑誌の巻頭カラーページぐらいは間違いないだろうね。あの決定的瞬間をカメラに収められてたらの話だけどさ」
晴香はとても楽しげであったので、レオナもつられて「あはは」と笑ってしまった。
それからちょっと心配になり、「あの、今のは冗談ですよね?」と問うてみる。
「うん? いや、ジルベルト柔術のネームバリューを考えたら、それぐらいが普通じゃない? 二人がアマ選手じゃなかったら、たぶん表紙を飾ってたぐらいだと思うよ?」
レオナは軽く目眩を感じたが、何とか踏み留まることができた。
「……では、KOシーンが撮影されていないことを祈っておくことにします」
「いやー、動画のチャプター画像を使ってでも掲載するんじゃないのかな。それぐらい衝撃的なKOシーンだったもん!」
「…………」
「ま、格闘技雑誌なんて月間か隔週だから、すぐに店頭からはなくなるさ。スポーツチャンネルで放映されることを思えば、大したことないんじゃない?」
「そうですね。その期間は書店に近づかないよう、気をつけたいと思います」
しかし、柚子あたりは嬉々としてその雑誌を購入し、レオナに見せつけてきそうなところであった。
そんなことを考えていると、当の柚子が伊達とともに更衣室から姿を現す。
「あー、九条さんだ! 九条さん、一昨日はお疲れさま!」
ぺたぺたと足音をたてながら、柚子が駆け寄ってくる。
その後から、伊達は仏頂面でのそのそと近づいてきた。
奥のほうでは男子選手も自主トレーニングに励んでいるが、こちらはいつも通りのメンバーが勢ぞろいだ。
何とはなしに、レオナは胸が熱くなってしまう。
柚子は柔術の大会で優秀な成績を収めることができた。
伊達もアマチュア大会で、服部選手を下している。
また、試合のドサクサで忘れられがちだが、少し前には乃々美がキックボクシングのプロテストに合格していた。
そうして、レオナと景虎もそれぞれ試合に勝利することができたのだ。
気恥ずかしくて口にはできないが、一昨日の祝勝会というやつは、年末のクリスマスパーティーのときに負けないぐらい幸福で満ち足りた思いで過ごすことができた。
ジムの仲間と勝利の喜びを分かち合うことができる。その喜びの深さを、レオナは思い知らされたのだった。
(たった七ヶ月やそこらで偉そうなことは言えないけど……みんながスポーツとしての格闘技に熱中する気持ちが、ほんの少しだけ理解できた気がするよ)
少なくとも、実家の道場でこのような喜びを味わうことはできなかった。
初めて上の兄から一本を取れたときでも、レオナは「ざまあ見やがれ」というぐらいの気持ちしか得ることはできなかったのだ。
路上の喧嘩や、それに勝つための稽古の場では得られない何かが、あの場所にはある。
いや、試合の舞台だけではない。そこに通ずるこの練習場所においても、それは同様のことであるはずだった。
「そういえば、伊達さんはプロに昇格されるのですか?」
ふっと思いついてそのように尋ねると、伊達はとても不機嫌そうな顔になってしまった。
「うっせえなあ。しょっぱい試合をしちまったから、その話は据え置きだよ。手前はド派手に勝ったからって、嫌味ったらしい野郎だなあ」
「いえ、そんなつもりではありませんでした。ただ、服部選手の去就も気になっていたので……それなら、服部選手もしばらくはアマチュアに留まるのですね?」
「アタシが据え置きなのに、負けたあいつに先を越されてたまるかよ」
そのように述べてから、伊達はずいっと顔を寄せてきた。
「だけど、なんであの柔道オンナのことなんざ気にしてやがるんだ? お前とはもう決着がついてる相手だろ」
「いえ、服部選手は私との再戦を望んでくれていたので、その機会が残されているなら嬉しいなと思っただけなのですが」
「ふーん? つまりはレオっちも試合の楽しさがわかってきたってことなのかな?」
察しのいい晴香に言われて、レオナは照れながら「はい」と応じてみせる。
すると、伊達が怒った顔でレオナの肩を小突いてきた。
「いっぺんぶっ倒した相手のことなんざ、放っておけよ。そんなことより、アタシと決着をつけるのが先だろうが?」
「ええ? でも、伊達さんは同じジムの門下生ではないですか?」
「同門だろうと、公式戦で当たりゃ敵同士だよ。そんときは手加減抜きだからな」
レオナは大いに戸惑うことになった。
服部選手やアリースィ選手、それに石狩エマなどとは公式戦でやりあいたいと思っているが、伊達を相手にというのはまったく想定していなかったのだ。
すると、柚子がレオナの腕にからみつきながら、「あは」と笑い声をあげた。
「でも、九条さんが出場できるのは、『シングダム』のイベントとかプロ興業の前座ぐらいですよー? そんな舞台で、わざわざ同門の選手が試合を組まれることはないですよね?」
「…………」
「それに、カズっち先輩は、次の試合から階級を下げるって言ってませんでしたっけ?」
「え? そうなのですか?」
レオナと柚子に見つめられ、伊達は「ちっ」と舌を鳴らす。
「プロに昇格したら、階級を下げるつもりだったんだよ。昇格の話がご破産になったんだから、今すぐ階級を落とす必要はなくなったってことだ」
「でもでも、それなら九条さんとの試合なんて頭にはなかったってことですよね? それならそれでいいじゃないですかー」
「うるせえよ! だったら練習中にぶっ潰してやる!」
「こらこら。でっかい声で不穏なことを言うんじゃないよ」
景虎が笑いながら、伊達の頭をぺしんと叩く。
「あんたのターゲットは、他にいるんだろ? だったら、よそ見をしないで精進しときな。どうせプロ昇格は目の前なんだから、今の内に階級を落としておいたほうが話も早いんじゃないのかね」
そういえば、伊達は打倒したい相手が存在するので、グローブ空手からMMAに転向した、という話であったのだ。話の流れからすると、その相手こそが一階級下のプロ選手であるようだった。
「伊達さん。私は伊達さんと試合をするより、伊達さんの試合を応援する側に回りたいです。……それで、かなうことなら、伊達さんがそのお相手を打倒するための力にもなりたく思います」
「……お前みたいなでかぶつと練習を積んだって、何の実にもなりゃしねえよ。相手は一階級下なんだからな」
伊達は口をへの字にして、そっぽを向いてしまった。
その顔を見て、今度は晴香が笑い声をあげる。
「要するに、レオっちがカズっちじゃなく服部って選手のほうを気にかけてたのが面白くなかったわけね。かわいいなー、カズっちは」
「そんなんじゃないっすよ! ガキ扱いはやめてくんないっすか!?」
「ガキでもオトナでもカズっちはかわいいよ」
柚子や景虎や隆也少年も楽しげに笑い、乃々美は肩をすくめていた。
なんとも、なごやかな雰囲気だ。
ともあれ、伊達が本気で自分との試合を望んでいるわけではないようなので、レオナも安堵の息をつくことができた。
「それでは、私も着替えてきます。その後は、よかったら一緒に自主練を───」
そのとき、背後から扉を開ける音がした。
何者かがトレーニングルームにやってきたのだ。
振り返ると、そこから姿を現したのは黒田会長であった。
「お疲れさまです」と言おうとして、レオナは一瞬で硬直してしまう。
黒田会長の後に続いて、とんでもない人物が姿を現したのだ。
それは、浅黒い肌と小鹿のように光る瞳を持つ、シャープな身体つきをしたブラジル人の少女であった。
「あー、女子連中はみんなそろってるな。ちょうどよかった、と言うべきなのかな」
「か、会長! どうしてアリースィ選手が一緒にいるんですか!?」
言葉を失ったレオナの代わりに、柚子が大声で問うてくれた。
「うん、話せば長くなるんだが……ものすごくかいつまんで説明すると、その、こちらは入門希望者だ」
今度こそ、全員が言葉を失った。
そんな中、上下ブラックのトレーニングウェアにしなやかな身体を包み込んだアリースィ選手が、目をきらきらと輝かせながらレオナのほうに駆け寄ってくる。
「あなた、マスクド=シングダムだね? しんちょう、たかいから、すぐわかったよ」
「いえ、あの……ど、どうしてあなたがこのような場所にいるのですか? あなたはアメリカにお住まいなのでしょう?」
「ロサンゼルス、パーイだけかえったよ。きのう、いちにちせっとくして、にほんにのこる、ゆるしてもらったの」
そのように述べながら、アリースィ選手はレオナの手をぎゅうっと握りしめてきた。
「わたし、あなたみたいにつよくなりたいよ。だから、そう……むしゃしゅぎょう! むしゃしゅぎょうするために、にほんにのこるの!」
「まあ、そういうわけらしいんだな。ついさっき、ルーカス・ジルベルトがじきじきにやってきて、この娘さんを置いていっちまったんだよ」
黒田会長は、困ったような顔で笑っていた。
「住む場所なんかは柔術関係の人らが面倒見てくれるらしいし、こっちはただ『入門させてほしい』と申し入れられただけだから、断る理由も見つからなくってなあ」
「いや、だけど、負けた相手のジムに入門っておかしくはないですか? アリースィ選手は、私との再戦を願ってくれているのですよね?」
「うん。あなたとしあいしたい」
「それなら、同じ場所で練習をするのは不都合なはずですよね? おたがい手の内がわかってしまうのですから」
レオナの動揺をどのように受け取っているのか、アリースィ選手はにこにこと笑い続けている。
「わたし、あなたとしあいしたい。でも、いちばんのだいじじゃない。いちばんのだいじ、もっとつよくなること。……わたしとあなた、いっしょにれんしゅうしたら、すごくすごくつよくなるよ?」
「いや、それはそうなのかもしれませんが……」
「わたしもあなたも、MMA、みじゅくもの。おたがい、みじゅくものでなくなったら、またしあいしたいよ。いちねんご、にねんごでも、おそくないよ」
「…………」
「いっしょにれんしゅうして、いっしょにつよくなろ?」
レオナは深々と息をつき、「それは、できればご遠慮願いたいのですが……」と返してみせた。
アリースィ選手は「どうして?」と目を丸くしてしまう。
「だってあなたは、マスコミからも注目の的ではないですか? 私はできるだけ注目をあびたくないのです」
すると横合いから、なかなか遠慮のない平手打ちが後頭部に飛んできた。
振り返ると、伊達の怒った顔が目の前に迫ってくる。
「馬鹿かよ、お前は? こんな上等な練習相手が自分から飛び込んできたってのに、そんなくっだらねえ理由でお断りするつもりか?」
「伊達さんにとってはくだらなくても、私にとっては大事なことなのです。あと、後ろから頭を叩くのはひどいと思います」
「うるせえよ! だいたい、こいつは親父が有名人なだけなんだから、一人で日本に居残ったってそうそう注目されたりしねえだろ。それでもマスコミが集まってきたら、おとなしく覆面でもかぶっとけ!」
思いの外、伊達は真剣な眼差しになっていた。
伊達は伊達で、世界クラスの柔術選手が門下生となることに、大きな意義を見出しているのかもしれない。
そうしてレオナが煩悶していると、逆の側から腕をくいくいと引っ張られた。
また振り返ると、柚子が期待のこもった眼差しで一心にレオナを見つめている。
グラップリングの習得に意欲的な柚子であれば、伊達よりも期待が大きくなるのも道理であった。
レオナは溜息をつき、景虎は笑い声をあげる。
「まあ、マスコミの連中にはあらかじめ釘を刺しておけば問題ないだろうさ。向こうは九条さんの正体を暴いたって一銭の得にもならないんだからね。むしろ、正体不明のマスクマンでいてくれたほうが、話題性もあって喜ぶぐらいだと思うよ」
「そうだな。ルーカスのほうも自分の目の届かないところで娘さんがマスコミに追われるのは不本意だから、なるべく内密に話を進めたいと言ってたよ」
黒田会長も、苦笑まじりにそう述べていた。
「そうですか……」とレオナも肚をくくることにする。
「それでは、まあ……どうぞお手柔らかにお願いいたします」
「おてやわらか? あなたのにほんご、すこしむずかしいよ」
そのように述べつつも、言葉の大枠は理解できたのだろう。アリースィ選手は満面に笑みを浮かべつつ、あらためてレオナの手を握りしめてきた。
そうしてレオナたちは、思わぬ珍客をジムのメンバーとして新たに迎え入れることを余儀なくされてしまったのだった。
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