03 レオナの選択
「野蛮な格闘技の大会に出場することなど、弁財学園の生徒として許されないはずです」
学校長を目の前にしても、亜森の態度はまったく変わらなかった。
レオナと柚子が『シングダム』に通っていることが露見してしまった日の翌朝、場所は学園の校長室においてのことである。
マホガニーの立派な机の向こう側で、学校長は困り果ててしまっていた。
それと向かい合っている人間は三名、亜森とレオナと柚子である。
「校長先生には許可をもらってるんだよー?」という柚子の言葉を受けて、ならば決着は学校長の前でつけるべし、という結果に相成ったのだった。
「そうですな。確かに弁財学園の生徒としては、あまり気風にそぐわない行為であるかもしれません」
小洒落たチェックのハンカチで冷や汗をぬぐいながら、学校長はそのように述べた。
「しかしまた、明確に校則に反する行為であるというわけでもありません。ですから、わたしは───」
「素性さえ隠せば参加してもよい、などと仰ってしまったのですか? それはあまりに良識の欠如したご判断であったと思われます」
いったいどちらが権力者なのかもわからなくなるような貫禄で、亜森は容赦なく問い詰める。
「そもそも格闘技のジムなどに通うということからして、弁財学園の生徒としてはありうべからざることでしょう。遊佐さんのこの痛々しい姿からも、それは明白です」
「これはあたしがへたっぴなだけです! MMAっていうのはれっきとしたスポーツなんですから、決して野蛮なものではないんですよー?」
そんな風に応じる柚子は、今日もまぶたの上に絆創膏を貼り付けており、右の手首をテーピングで固めていた。
へたっぴというか、きっともとから肌が弱いのだろう。突き指や捻挫はともかく、練習だけで顔に色をつけているのは、たしかに『シングダム』でも柚子ぐらいしか見当たらない。
「同じ格闘技でも柔道だったら野蛮とかは言われないでしょう? で、柔道を習っている生徒がいたって校則違反にはならないはずです! 柔道がよくってMMAは禁止だなんて、そんな理不尽な話はありませんよねー?」
「……柔道というのは体育の授業で取り入れられることもある、由緒の正しい武道です。MMAなどという危険な競技と同様に扱うことはできません」
「ん? 亜森さんはMMAがどういう競技だか知ってるの?」
柚子は不思議そうに亜森のほうを振り返った。
ようやく矛先のそれた学校長は、ほっと息をついている。
「昨晩、家に帰ってから調べました。ルールについても把握しています。……わたしはあれほどまでに危険な競技がこの世に存在するということすら知りませんでした」
「そんなことないってば! 練習中にはきちんと防具をつけてるし、アマチュアの場合はルールだって安全性が重視されてるんだよ? 肘打ちだけじゃなくパウンドとかだって禁止にされてるぐらいなんだから! 柔道やボクシングなんかと比べても、際立って危険なことは絶対にないはず!」
「……たとえそうであったとしても、学生がショービジネスの興行に参加することなど許されないはずです」
「だからそれも、あくまでアマチュアの選手として出場するんだってばー。ファイトマネーが発生するわけでもないし、言ってみれば、学生バンドがライブハウスで演奏するのと一緒だよー」
「そのような行為だって、弁財学園の校風にはそぐわないはずです」
「校風にそぐわなくても校則違反ではないよね?『盛り場には近づかないこと』って部分がびみょーに危ないけど、会場の『恵比寿AHEAD』は五歳から入場が可能なぐらいなんだし、学生にとっても不健全な場所では絶対にありえないはずだよ?」
力強い口調で言って、柚子はぐぐっと胸をそらせる。
「あたしだって、さんざん弁財学園の校則を調べあげた上で校長先生に相談したんだから! で、弁財学園の生徒であるということを公にしないのなら許可するっていうお言葉をいただけたんだもん。そうですよね、校長先生?」
「ああ、はい……」
「では、あなたがたはあくまでもその興行に参加するというおつもりなのですか? 遊佐さんばかりでなく、九条さんまでも?」
と、ついに亜森の視線がレオナのほうに突きつけられてきた。
レオナはもうまな板の上の何とやらという心境で「はい」とうなずいてみせる。
「私もそれがここまで大がかりな興行であるとは予想していませんでしたが、出場したいという気持ちに変わりはありません。もちろんそれが校則違反にあたるというお話なのでしたら考えなおさなければならないのでしょうが───そういうわけではないのですよね?」
「ああ、はい」と学校長は同じ返事を繰り返す。
亜森は黒縁眼鏡の向こうで目を細めながら「わかりました」と冷たく言い捨てる。
「それが校長のご判断なのですね。ならばこれ以上、わたしのほうから申し上げることはありません」
「あ、ああ、亜森くん、このことをお父様には───?」
「この件とわたしの父との間に何か関係でもあるのでしょうか?」
学校長の言葉を冷然と断ち切り、亜森は柚子の顔を見据えた。
「生徒の行状と保護者の立場が干渉し合うことなど、決して許されないことでしょう。わたしはそう思います」
柚子は下唇を吸い込むような奇妙な表情で、何も答えようとはしなかった。
その顔をしばらくねめつけてから、亜森は挨拶もなく校長室を後にする。
「それじゃあ校長先生、あたしたちも失礼します。……いちおう確認しておきますけど、あたしに許可をくれたんですから九条さんだけ禁止にするようなことにはならないですよね?」
「ええ、もちろん」と学校長は革張りの椅子に肥満気味の身体をうずめる。
「ところで遊佐くん、君のお父様は───」
「父さんはまだ海外に出張中ですよ。もう半年ぐらいは顔を見ていない気がしますねー」
「そうですか。お父様にはくれぐれもよろしくお伝えしてください」
「はあい」と気のない返事をしながら、柚子はくるりときびすを返した。
レオナも学校長に一礼して、校長室を出る。
「ふーう、何とか切り抜けられたね! 校長先生に前言を撤回されちゃうんじゃないかとひやひやしちゃったよー」
人気の少ない廊下を歩きながら、柚子はそのように笑いかけてきた。
こぼれそうになる溜息をこらえつつ、レオナはそのにこやかな顔を見下ろす。
「どうもあの校長先生は、物事の正しさより保護者の力関係を重んじているように見受けられますね」
「そうだねー。ますます亜森さんに嫌われちゃったよ」
「……遊佐さんの御父君はこの一件に対してどのような立場を取っておられるのですか?」
「ごふくんって父さんのこと? 父さんは全然無関心だよ。『シングダム』に通いたいって相談したときも、試合に出場したいって相談したときも、怪我をしないように気をつけてなーとか言ってただけだし」
てくてくと歩きながら、柚子は頭の後ろで手を組んだ。
「だけどまあ、あたしは父さんに溺愛されちゃってるからさー。校長先生が父さんの顔色をうかがっちゃうのもしかたないんだろうねー。母さんが早くに亡くなっちゃったぶん、父さんの愛情はあたしに一点集中しちゃってるんだよ」
「遊佐さんは他に兄弟などおられないのですか?」
「んーん。兄さんが二人と姉さんが一人いるよ。まあ、向こうは兄弟だなんて思ってないんだろうけど」
「え?」
「あたしの母さんって、いわゆる愛人さんだったの。それであたしが小六のときに亡くなっちゃったから、その後あたしは遊佐家に引き取られてこの弁財学園に入学させられることになったってわけさ」
レオナはしばし絶句してしまった。
柚子はべつだん深刻そうな面持ちになるでもなく、飄々と語っている。
「遊佐の家の奥さんもずいぶん昔に亡くなったみたいでさ。母さんもずっと遊佐の家に来るようにアプローチされてたみたいだけど、さすがに三人も子供がいる家にのこのこと出向く気にはなれなかったんだろうねー。あたしもさんざん迷ったけど、他に身寄りもなかったから、思いきって遊佐の家で暮らすことに決めたんだよ」
「……だから遊佐さんは、あのような離れで暮らしているというわけですか?」
「うん、そうそう。父さんは一年の半分も家にいないし、姉さんたちはあたしの顔なんて見たくもないだろうから、おねだりして建ててもらっちゃった」
「……そのことを、亜森さんはご存知なのですか?」
「まっさかー! 遊佐家の最大タブーだもん! この学園では、たぶん校長先生ぐらいにしか知らされてないはずだよー? 喋ったらコロスって姉さんたちにも厳重に言われてるし───」
と、そこで柚子はきょとんとレオナの顔を見上げてきた。
「……喋ったらコロスって言われてるのに、九条さんにぜーんぶ喋っちゃった。あのさ、あたしの健やかな老後のために、今の話はナイショにしておいてくれないかなあ?」
「遊佐さん、あなたは迂闊すぎます」
「そんなことないよー。九条さんの人心掌握術に陥落しただけ!」
「そんなあやしげな能力を体得した覚えはありません」
「あはは」と愉快げに笑ってから、柚子はまた正面に向きなおった。
「まあ、あたしのことは置いておくとして、問題なのは九条さんのほうだよね。亜森さんにバレちゃった以上、他のクラスメートにもバレちゃうかもだし」
「それはもう、運を天にまかせるしかありません。格闘技ジムなどに通っている変わり者でも決して粗暴なわけではない、と知らしめるために、いっそう身をつつしむしかないでしょう」
「おお、覚悟の決まったお顔をしているね!」
「一晩あれば、嫌でも覚悟ぐらいは固まります」
それにレオナが自分の人生から切り捨てたかったのは、路上で喧嘩をするような常識外れの日々であったのだ。
MMAは、あくまでスポーツ。誰に恥じるようなものでもないのだ、という柚子のお題目を信じて、開き直るしかないだろう。
「それじゃあさ、学校内ではあくまで今まで通りにふるまおうね?」
「はい?」
「この前も言ったでしょ? 亜森さんってのはすっごく影響力のある人だから、あのコに嫌われちゃうとクラスどころか学校中で孤立することにもなりかねないんだよ。九条さんもかなりきわどい立場になっちゃったけど、あたしと距離を取ってれば、ぎりぎり許されるかもしれないからさー」
「……私は別に、亜森さんの恩情にすがって生きていくつもりはありません」
「そーゆー意味じゃなくってさ。波風をたてたくないんだったら、あたしなんかには近づかないほうが無難ってことだよ」
そんなことを言いながら、柚子はまた屈託のない笑顔を向けてくる。
「あたしはジムで一緒に汗を流せるだけでもう大満足だから! 昼間の九条さんはみんなのもの、放課後の九条さんはあたしのものってことで、みんな幸せ!」
「……私は誰のものでもありませんし、それだと私だけちっとも幸せになっていないように感じられてしまうのですが」
「いやーん、いけずー」と柚子はますます楽しげに笑う。
そして、そんな会話をしている内に教室へと到着した。
三十分前に登校したというのに、すでに予鈴の鳴る寸前である。廊下にはもうほとんど人影もない。
柚子が扉を引き開けて、レオナもそれに続いて入室した。
入室したとたん、教室内は静寂に包まれた。
島津教員が入室したときよりも、露骨な静まり具合である。
そしてまた、それは奥底に奇妙な緊張と動揺をはらんだ静寂でもあった。
誰もレオナたちのほうを見ようとしない。
それなのに、背中や頬にはちりちりとした視線を感じる。
亜森はすでに着席しており、真正面を向いたまま不動であった。
そのかたわらをすりぬけて、レオナと柚子も着席する。
いまだ予鈴も鳴っていないのに、誰ひとりとして口をきこうとしない。それは一種異様な光景であった。
(影響力があるどころの話じゃないだろ、こりゃ)
レオナは柚子のほうを見たが、彼女は平気な顔で授業の準備を進めていた。
こんな異様な状態も、柚子にとってはなれっこであるということか。
レオナはひとり、心の底から釈然としなかった。
◇◆◇
「羽柴塾っていうのは、最善の一手を目指す流派なんですよ」
その日の放課後の『シングダム』においては、竹千代が意気揚々と講釈を垂れることになった。
「剣術で言う『一の太刀』っていうのが一番イメージに合うかもしれませんね。己の持てる最善の一手で相手を制圧する。その一手を防がれたら、次なる最善の一手を繰り出す。それも防がれたらさらなる最善の一手を───というのが、羽柴塾の極意なんです」
「ふむ。だから九条さんなんかはフェイントの打撃を使ったりしないし、ステップも踏まずにべた足で相手の攻撃を待ち受けるスタイルなのかねえ?」
応じているのは、景虎である。
キッズクラスの講習を終えた後の自由練習時間だ。晴香や乃々美はジムに居残った隆也少年と一緒にサンドバッグを蹴っており、ちらほらと姿を現した男子選手らは各自のトレーニングに励んでいる。
「そうですね。でも、最善の一手を撃つために必要なら、フェイントやステップも有効です。羽柴塾でも、そのあたりは個人の好みという感じでバラバラでした」
「うーん、聞いても聞いてもなかなか実態がつかめないねえ。もしもタケくんが他流派の試合に出場するとしたら、羽柴塾の技をどんな風に応用するね?」
「俺ですか。俺だったら、足を使って相手との距離を取ります。至近距離では、なかなか勝ち目も見えてこないので」
「ふむ。そのココロは?」
「そのココロは、たいていの流派では肘打ちや投げ技が禁止されているからです。至近距離で有効なのは肘打ちと膝蹴り、それに相手の衣服をつかんでの投げ技でしょう? それをルールで封じられてしまったら、何をしていいかもわからなくなってしまいます」
「なるほど。でも、膝蹴りの技術はあるんだね」
「ええ、ですが、膝蹴りでも狙うのはまず金的ですから、それも他の流派では禁じ手ですよね。姐さんなんて、そりゃあもうこれまでに何十人という男の金的を───」
「竹千代くん」
「はい! 何でしょう!」
「これは以前から言っていることですが、年少の私を姐さん呼ばわりすることは差しひかえていただきたく思います」
「ええ? それじゃあ姐さんを何て呼べばいいんですか? 姐さんは姐さんですよ!」
「普通に九条でけっこうです。それ以外は受けつけません」
「そんな殺生な!」
竹千代は悲嘆の声をあげ、景虎は笑い声をあげる。
「あんたらの会話は楽しくて好きなんだけど、そいつは練習の後に取っておこう。それで、さっきの続きは?」
「はい。ですから姐さんは何十人もの男の金的を───」
「蒸し返すなよ!」と思わず竹千代の尻を蹴り飛ばしてしまった。
それからハッと我に返り、「失礼しました」と頭を垂れる。
「あいててて……ですから、自分だったらアウトタイプを目指します。遠距離からの蹴り技だったら、まだ何とか応用がききそうなので」
「遠距離からの蹴り技ね。それは空手流の回し蹴りなのかな?」
「あんまり足は回しませんね。直線的な蹴りで相手の正中線か、あるいは足を狙います」
「前蹴りで足を狙うのかい?」
「はい。すねか膝ですね。靴を履いていれば、なお有効です」
「試合のときは裸足だし、アマ・ルールだと膝を正面から蹴るのは反則なんだよね」
「それじゃあ正中線ですね。人間の急所がぞろりとそろっていますから。姐さんの蹴りなら一撃KO間違いなしですよ!」
「問題は、その一撃をかわされた後のことです」
竹千代の調教はあきらめて、レオナも発言する。
「確かに正中線への蹴り技は裸足でも有効でしょう。天倒、人中、タン中、水月、丹田───禁則事項にあたる咽喉と金的を除いても、それだけの急所がそろっています。下顎を狙うのも効果的ですし、少し軌道を変えれば肝臓も狙えます」
「だけどその必殺の一撃をかわされちまったら、相手に組みつかれちまうってことだね」
「はい。正直に言って、伊達さんぐらい身の軽い相手には正面から最善の一手を放っても効果的に当てられる自信は持てませんでした」
ゆえに、周囲を取り囲む障害物を利用して最善の一手を放ったのだが、それもかわされてしまったので、さらなる最善の一手───相手の衣服をつかんでの投げ技を繰り出すことになったわけである。
ちなみに、コーナーポストを蹴るという行為も、MMAやキックボクシングにおいては重大な反則に当たるらしい。
「そりゃあ近代MMAはフットワークを使って相手を攪乱するのが鉄則だからね。出会い頭で一撃必殺を狙うのはリスキーすぎるよ」
「はい。ですから組み技と寝技の防御にこれまでは時間を割いてきたわけです。組みつかれてもそれを回避できれば、さらなる最善の一手を狙えますし」
「そうだねえ……ところで、九条さんのウェイトは五十六キロジャストだったっけ?」
「はい。多少の増減はありますが」
「タケくん、あんたは?」
「自分は六十一キロですね」
「ふたりそろって、なかなか細っこいよね。一撃必殺を追求しているのに、あんまり筋力は鍛えてこなかったのかい?」
「鍛えていないわけではありません。身体を自由にコントロールするのに筋力は不可欠なものですから」
「ふうん? だけど、一撃必殺にはパワーとスピードも必要だろう? だったらもっと徹底的に鍛えそうなもんだけど」
これには「いえ」と答えざるを得なかった。
「最善の一手に必要なのは力と速度ではなく、精度とタイミングなのだと羽柴塾では教えられてきました」
景虎は、食べ物でも咽喉に詰まらせたかのような顔をした。
「なるほどねえ……わりと最近、話題になっているMMAの選手がいるんだよ。北米で一番立派なMMAの団体で世界王者になった、アイルランドの選手なんだけどさ。その選手が王座を奪取したときの勝利者インタビューで、『精度はパワーに勝り、タイミングはスピードを打ち砕く』とか発言してたんだよね」
「はい」
「確かにその選手は他のファイターと毛色の違うトリッキーなスタイルだった。それに、MMAではボクシングやムエタイの技術を取り入れるのが主流だけど、空手を基盤にしたファイターってのもちらほら見受けられるんだよね。……で、そういう選手は流派によって全然スタイルが違うから、みんなそれぞれ個性的なファイトスタイルを身につけてるんだよ」
「はい」
「だから羽柴塾の空手ってのも、上手いことMMAの中に落とし込めれば、唯一無二の面白いスタイルが獲得できるかもしれない。……ただ、期限が三週間ってのがねえ」
「三週間で形を整えて、残りの一ヶ月でさらに練磨します。上手くいくかはわかりませんが、私にはそうするほかありません」
レオナがそのように発言したとき、「ちょっと」と背後から呼びかけられた。
「自由時間だから何をしても勝手だけどさ、そんな風にくっちゃべってるだけで何か身につくわけ?」
それはサンドバッグを蹴っていたはずの乃々美であった。
見ると、晴香はキックミットを両腕に装着し、それで愛息のパンチやキックを受けている。いつの間にやら、稽古が次のステップに進んだらしい。
「あんた、今でも対抗戦に出ようって考えは捨ててないんでしょ? だったら口より先に身体を動かしなよ」
柚子よりも小さくて細っこいムエタイのアマチュア世界王者たる少女は、額の汗をぬぐいながらそのように言い捨てた。
ずっと聞き役に徹していた柚子が、マットにあぐらをかいたままそちらを不思議そうに見上げる。
「ののちゃんは、九条さんが対抗戦に出場するのは反対してなかったっけ? いつの間に応援する側に変わったの?」
「応援なんざしてないよ! ……ただ、そこの空手オンナよりあの眼鏡オンナのほうが余計にムカつくってだけのことだよ」
「眼鏡オンナって、亜森さんのことですか?」
レオナも声をあげると、乃々美はじっとりとした目つきのまま「ふん!」と鼻を鳴らした。
「なんにも知らないくせに、格闘技のことを野蛮だの危険だの好き放題言ってくれちゃってさ。僕はああいう女が一番ムカつくんだよ!」
「そっかー。何にせよ、ののちゃんが味方になってくれるなら嬉しいなあ」
「味方になんてなってないって言ってんでしょ! あんたたちの学校にはロクな人間がいないね、あんたたちも含めて!」
そうしてひとしきりわめきたてると、乃々美は肩を怒らせながら立ち去ってしまった。
柚子は天使のように微笑みながら、「ねえねえ」とレオナに呼びかけてくる。
「ちょっとあたしも抜けさせてもらっていいかな? あたしはあたしで立ち技を磨くのが課題だから!」
「もちろんです」とレオナが応じると、柚子は「わーい」とはしゃぎながら乃々美の背中を追いかけた。
「ののちゃん、ひさびさにスパーしよう! 肘だけ禁止のムエタイルールね!」
「あんたみたいなへたっぴとスパーしても、こっちは練習にならないんだよ!」
ふたりの少女のかしましい声を聞きながら、レオナは景虎に向き直る。
「遊佐さんというのは、変わり者ですね」
「んー? まあそうかねえ。でも、あの無邪気さは強みだね。あんなちまちましてるのに根性のほうは一人前だし。あのコがたった一年で公式試合に出られるような選手に育つとは思ってなかったよ」
「……遊佐さんのような人が格闘技などというものに没頭しているのが、私には不思議です」
「そうかい? ま、柚子にも柚子なりの事情ってやつがあるんだろうね、きっと」
そう言って、景虎は大きな口でにんまり笑った。
「何にせよ、あんたが入門して以来、柚子はいっそう無邪気さに磨きがかかったみたいだからさ。よっぽどあんたのことが気に入ったんだろう。悪い人間じゃないってことはあたしが保証するから、末永く仲良くしてやっておくれよ」
「……さあ、そこまでは請け負えません」
仏頂面で、レオナは立ち上がる。
「それではそろそろ実践に取りかかりましょう。ほどよい人間サンドバッグが手に入ったので、羽柴塾の技術をお見せいたします」
◇◆◇
そして翌日も、教室内には粘着性の強い静寂が蔓延していた。
さすがにクラスの全員が一日中黙りこくっているわけではないが、休み時間でもぼそぼそと小声で囁き合うぐらいの会話が散見されるばかりである。
亜森が悪評を流したという気配もなかったので、みんな彼女の負のオーラにあてられてしまっている状態なのだろう。
で、深い事情は知り得ないまま、その原因がレオナと柚子のふたりにある、とは察しているらしい。
それが証拠に、昨日からレオナはどのクラスメートからも一言たりとも話しかけられていなかった。
話しかけられるどころか、近づいてこようとする者さえいないのだ。完全にハレモノの扱いである。
(本当に大した影響力だ)
レオナはかまわずに、黙々とこれまで通りの生活を続けていた。
柚子のほうも、静観を決め込むかまえであるようだった。
宣言通り、このままレオナが柚子に近づかなければ亜森の怒りも解けるだろう、と考えているのだろうか。
レオナにはわからなかった。
わからなかったが、今後の行動に関しては指針を定めていた。
レオナがそれを実行に移したのは、昼休みが訪れてからのことだった。
「この席は空いていますか?」
五号館の食堂にて、単品のカレーライスとサラダをトレイに携えて、レオナはそのように呼びかけた。
かけうどんをすすっていた柚子は、びっくりまなこでレオナを見上げてくる。
「ふじょうふぁん、いっふぁいどうひたの?」
「……食べ物を口に詰め込んだまま喋るのはマナー違反だと思われます」
柚子は500ミリパックの牛乳で口内のうどんを飲み下してから、あらためてレオナを見つめてきた。
その間に、レオナはさっさと柚子の隣に座らせていただく。
「九条さん、いったいどうしたの? どこでクラスメートが見てるかわからないよ?」
「あなただってクラスメートじゃないですか。クラスメートと一緒に昼食をとるのは自然なことではないですか?」
「いや、だけどさあ……」
「私が避けたいのは、転入前の素性が知れることです。それ以外のことは、何がどうでもかまいません。平和な学校生活を送ることができて、そして成績を落とすこともなければ、それで満足なのです」
そのように言ってから、レオナは柚子の手もとに視線を巡らせた。
「そんなことよりも、何ですかその取り合わせは? そんな小さな身体のどこにそれだけの量が入るのです?」
テーブルにはかけうどんばかりでなく、白身魚のフライにチキンステーキ、豆腐サラダとシーザーサラダ、野菜たっぷりのミネストローネ、それに青菜のおひたしや里芋の煮っ転がしといった料理がずらりと並べられていたのである。
「あたし、規定体重の四十八キロに二キロも足りてないからさ、ガンガン食べて身体を大きくしろーって厳命されてるんだよね。九条さんだって、それぽっちじゃ足りないんじゃない?」
「これでもカレーは大盛りにしています。あまり食べすぎると午後の授業に支障が出てしまいますからね」
「えー? その睡魔に身をゆだねるのが気持ちいいんじゃーん」
「悪魔の囁きを吹き込むのはやめてください」
答えながら、レオナはスプーンを口に運んだ。
柚子は「えへへ」と笑っている。
二人の背後の窓からは、九月中旬の明るい陽光が差し込んできており、いささかまぶしすぎるきらいはあったものの、適度に冷やされた食堂の空調と相まって、なかなか心地好い感じがしなくもなかった。
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