03 悩める空手少女
放課後である。
悩みに悩みぬいた末、レオナは自宅のある高円寺の駅を通り過ぎ、中野の格闘技ジム『シングダム』の前に再び立っていた。
本日から通常授業であったため、時刻はすでに午後の四時を回っている。住宅街の一画であるその場所には、買い物袋を下げた主婦や学校帰りの小中学生などがちらほら歩いている姿が目についた。
こぼれそうになる溜息を呑み込んでから、レオナはガラスの扉を開けた。
すると、昨日は無人であった受付台に意想外の人物がちょこんと腰かけていた。
小学校に入学したばかりぐらいの年頃に見える、小さな男の子である。
「押忍。めいぼになまえのきにゅうをおねがいします」
頑張って丸暗記にしたのだろうなと思われる言葉とともに、バインダーで綴じられた名簿が差し出されてくる。
内心で小首を傾げつつ、レオナは「えーっとね」と言葉を探した。
「私はジム生じゃなくて、ここの責任者の方にお話があって来たんだけど……通してもらってもかまわないかなあ?」
「かいちょーさんはおでかけしています。いまはじゆうれんしゅうのおじかんです」
「そっか。それじゃあ
「トラさんは、れんしゅーしてます」
真面目くさった顔で、こくりとうなずく。
そんなに子供の得意でないレオナでも思わず頭を撫でてしまいたくなるような、きわめて可愛らしい男の子であった。
「ごあんないします。こちらにどうぞ」
男の子はパイプ椅子から飛び降りて、トレーニングルームのほうへとちょこちょこ移動し始める。レオナもローファーを脱ぎ捨てて、それに追従した。
男の子が扉を開けると、室外よりも濃厚な熱気がむわっと押し寄せてくる。
本日は、十名ばかりのジム生が練習に励んでいた。
自由練習の時間という話であったから、各人がおのおのの練習メニューに取り組んでいるのだろう。リングの上でスパーリングをしていたり、地べたのマットで取っ組み合っていたり、黙々とサンドバッグを蹴っていたりと、稽古の内容はさまざまだ。
誰もが真剣な表情で、苦しい鍛錬に励んでいる。
強くなりたいと願う情念が、室内のすみずみにまで充満しているかのようである。
それはやっぱり、レオナの知っている空間であった。
ただ───レオナの知る羽柴塾とは、ひとつだけ相違点がある。
それは、その場にいる内の四名までもが女性である、ということだった。
「トラさん、おきゃくさまです」
男の子がそのように呼びかけると、室内にいる何名かがこちらを振り返った。
その内のひとりが「あれっ!?」と大きな声をあげる。
「九条さんじゃん! いったいどうしたの!?」
数十分前に教室で別れたばかりの、柚子である。
柚子は自分よりもふた回りは大きな女性に組み伏せられているところであった。
その、柚子を組み伏せていた女性も「おや」と声をあげる。
昨日も顔をあわせることになった、景虎明良という人物である。
「まさかそっちから出向いてきてくれるとは思わなかったよ。たー坊、案内をありがとうね」
「はい」とお辞儀をしてから男の子は受付台に戻っていった。
入口のところで立ち尽くすレオナの前に、柚子と景虎が連れ立って近づいてくる。
「いらっしゃい。よく来てくれたね、九条さん。……だけど会長は、ちょいと打ち合わせで席を外してるんだ。せっかく出向いてきてくれたのに申し訳なかったね」
景虎明良は、二十代の半ばぐらいに見える、きわめて厳つい風貌をした女性であった。
身長は百六十センチを少し超えるていどであるが、体重はレオナよりも十キロぐらいは重そうだ。柚子と同じようにラッシュガードとハーフ丈のスパッツに包まれた身体は、どこも肉厚でがっしりとしている。
ちぢれた髪はひとつに束ねて、サイドはこめかみの近くまで短く刈りあげており、それで面相のほうは狛犬のように勇猛なものだから、首から上だけを見れば男性と見まごうほどである。
彼女はMMAという競技のプロ選手であり、『シングダム』では指導員の役を担っている人物であると、レオナは柚子から聞いていた。
その肩書きに似つかわしい迫力と風格が、この景虎明良という人物にはしっかりと備わっている。
「今日の夜にでも、そっちに電話を入れる手はずになってたんだ。本当に、厄介なことに巻き込んじまって悪かったと思っているよ」
昨日は憔悴していたし感情的にもなっていたが、本日の彼女はとても落ち着いた眼差しをしていた。
柚子同様、レオナを責める気持ちなどは微塵もないようだ。
「いえ。けっきょくはおたがいに責任のあることなのですから、お詫びの言葉なんて必要ありません。こちらこそ、伊達さんに怪我をさせてしまって申し訳なく思っています」
「あれは完全に自業自得だよ。悪いやつじゃないんだけど、短気なのが唯一の欠点でね」
「でも、伊達さんは何か大事な試合を控えていたのでしょう? 遊佐さんからそのように聞きました」
「ああ。そんな大事な時期にこんな騒ぎを起こすなんて、本当に困ったやつだよ。ま、一番落ち込んでるのは当人だろうから、今さらあたしが騒ぎたてる必要もないけどね」
そのように言ってから、景虎はレオナに笑いかけてきた。
「何にせよ、あんたが気にするような話じゃない。会長は、できればあんたの家までお詫びに出向くつもりだって言ってたけど、どうだろうね? 親御さんを心配させたくないだとか、こんな連中に住所を知られたくないって話なら、電話だけで済ませるように伝えておくよ」
「ですから、お詫びなど不要です。私にも伊達さんにも等しく責任があるのでしょうから」
「それでもおたがいの立場を考えたら、責められるべきはこっちだろう? 少なくとも、あんたの側に喧嘩をふっかける気持ちはなかったんだろうからさ」
景虎がそのように言ったとき、奥から別の人影が近づいてきた。
「景虎。なんでそんなやつに頭を下げてんの? そいつは伊達に怪我させた張本人なんでしょ?」
それは柚子よりも小柄でほっそりとした女の子であった。
年齢は、レオナたちと変わらないぐらいだろう。長い黒髪を三つ編みにして、さらにそれを頭の後ろでまとめあげている。けっこう可愛らしい顔立ちをしているのに、じとっとした目つきのせいでひどい仏頂面に見えてしまう。
「だからさ、それもカズっちが短気を起こしたのが原因じゃん? トラさんだってツラい立場なんだから察してあげなよ、ののっち」
と、その少女のかたわらに立った女性がなだめるように声をあげる。
こちらは中肉中背で、景虎と同じかもう少し上ぐらいに見える年頃だ。髪はやっぱりアップにまとめており、とても柔和な顔立ちをしている。
「何だ、あんたたちまで来ちまったのかい。……この連中は、キック部門の門下生だよ。こっちの
「お子さんがいらっしゃるのに、格闘技などを続けているのですか?」
レオナが驚いて問い質すと、晴香と紹介されたその女性は「何かおかしいかな?」とやわらかく微笑んだ。
「まあ、たー坊が生まれたときに一回引退してるんだけどね。育児が落ち着いたら気持ちが再燃してきちゃったから、また復帰させてもらったんだよ」
乃々美とかいう目つきの悪い少女はともかく、こちらの晴香という人物はごく普通の穏やかな女性にしか見えなかった。トレーニングウェアから覗く腕や足も、健康的に引き締まってはいるものの、そこまで極端に逞しいわけでもない。
「……こいつのせいで、副将戦は不戦敗になっちゃうんだ。こんなやつに頭を下げる必要なんてない」
乃々美という少女がそのように言うと、景虎は「こら」とおっかない目つきをした。
「道理に反したことを言うんじゃないよ。カズが怪我したのは、自業自得のことなんだ」
「でも、そいつは立ち技のスパーで反則をしたんでしょ?」
「だからそれも、きっちりルールを決めておかなかったカズの責任って話だよ。……ま、あいつも空手の選手が投げ技を使ってくるなんて想像してなかったんだろうけどさ」
そんな風に言ってから、景虎はレオナのほうに視線を戻してきた。
「そういえば、これは好奇心で聞くんだけどさ。あんたは空手の他に柔道か柔術でも習ってたのかい? 柚子から聞いた話によると、それはもう見事な投げっぷりだったみたいじゃないか?」
「いえ、それも実家の道場で習った技です。……きっと羽柴塾の空手は普通の流派と系統が異なるのでしょう」
「興味深いねえ。こんな騒ぎになってなかったら、あんたには是非とも入門してほしかったところだよ」
レオナは口をつぐむことになった。
景虎は、「ああ、そんな顔をしなくてもいいってば」と豪放に笑う。
「あんたは格闘技から足を洗いたいんだろ? それじゃあ無理強いはできないよ。ただ、柚子があんたを連れてきたとき、カズだけじゃなくあたしもいれば、もっときちんとこのジムの面白さを伝えられたのになって思っただけさ」
「…………」
「今日はわざわざありがとうね。もうしばらくしたら会長も戻ってくると思うけど、どうするね? 事務所で待っててくれるなら、お茶ぐらい出すよ?」
「いえ、これで失礼します。会長さんには、お詫びの言葉など不要と伝えていただければ幸いです。……伊達さんにもよろしくお伝えください」
一礼してから顔を上げると、柚子と目が合った。
ずっと沈黙していた柚子は、何かを必死にこらえているような目つきでレオナを見つめている。
その視線から逃げるように、レオナは『シングダム』を後にした。
(くそっ! あたしはいったい何をやってるんだよ?)
アスファルトの道を足速に歩きながら、レオナの気持ちはいっこうに晴れていなかった。
いっそのこと、誰もがあの乃々美という少女のようにレオナの行動を責めてくれていたなら、もっと楽な心境になっていたのだろうか。
いかにも大人然とした景虎の物言いも、とても優しげであった晴香の表情も、とても悲しげであった柚子の眼差しも、何もかもがレオナの気持ちを重くさせてしまっている。
故郷で荒くれ者たちを相手取っていた頃は、このような気持ちを抱え込むことにもならなかった。どうしてこんなに後味が悪いのか、自分がいったい何を求めているのか、レオナには見当をつけることさえ難しかった。
「あっ! レオナの
そんな素っ頓狂な声をあびせかけられたのは、ちょうど道の向こうに中野駅が見えてきた折であった。
物思いに沈んでいたレオナがぎょっとなって振り返ると、見覚えのある少年が子犬のように走り寄ってくる。
それは二ヶ月前に決別したはずの、
「おひさしぶりです、レオナの姐さん! うわあ、見違えましたねえ! いかにも都会のお嬢様って感じです!」
「タ、タケ!? なんであんたがこんなところに───!」
思わず大声をあげかけてから、レオナは自分の口にフタをした。
駅が近づくにつれ、人通りは増えてきている。学校の制服姿でむやみに人目を集めたくはなかった。
「……タケ、どうしてあんたがこんなところにいるんだよ?」
声をひそめてレオナが問い質すと、少年はいっそう嬉しそうに笑みくずれた。
「そりゃあもちろん、姐さんの後を追ってきたんですよ! でも、まさかこんなに早く再会できるとは思ってもいませんでした!」
「あたしの後を追ってきたって……いったい何の用事があるってんだよ? まさか親父に頼まれて、あたしを実家に引き戻そうって魂胆じゃないだろうね?」
「うわわ、そんなおっかない目つきをしないでくださいよ! 姐さんはただでさえ迫力満点なんですから!」
とぼけたことを言いながら、竹千代は亀のように首をすくめる。
相変わらず、空手の腕前に反して肝っ玉の小さな竹千代であった。
一見はどうということのない普通の容貌で、身長もレオナよりわずかに小さいぐらいであったが、この竹千代という少年は十六歳の若さで羽柴塾の黒帯を手に入れたほどの熟練者なのである。
「俺はただ、姐さんのそばにいたいから後を追ってきただけなんです。住まいは姐さんと同じく高円寺なんですけど、両隣の駅前の様子ぐらいは把握しておこうと思って……」
「何だそりゃ? まさかあんたも引っ越してきたってのか? 学校はどうしたんだよ? それに、道場は?」
「学校も道場も辞めてきました。ちょうど高円寺のラーメン屋で住み込みの従業員を募集していたので、明日からはそこで働く手はずになっているんです」
レオナは言葉を失ってしまった。
しかし、この直情的な少年ならやりかねない、と溜息をつく。
「そんな真似をして何になるってんだよ……学校はともかく、羽柴塾ってのはあんたにとってそのていどのもんだったのか?」
「住む場所が変わっても、俺の魂は羽柴塾とともにあります! 塾長に鍛えられたこの拳で、東京の連中に一泡ふかせてやりますよ!」
そう言って、竹千代は子犬のような目つきでレオナを見返してきた。
「決して姐さんの生活のお邪魔はしません。俺はただ、姐さんの存在を身近に感じていたいだけなんです。女の身でありながらそこまでの力をつけることのできた姐さんは、俺の憧れであり目標なんです!」
「……そういうの、世間ではストーカーっていうらしいよ?」
げんなりしながら、レオナは答える。
「だいたい、どうしてあんたがあたしの居所を知ってるんだよ? 親父たちだって、東京のどこかってことしか知らないはずなのに」
「それはおかみさんから聞きました。メールで聞いたら、普通に教えてくれましたよ?」
そういえば、レオナの母はこの純朴で子供っぽい竹千代をたいそう可愛がっていたのである。羽柴塾の門下生の中では際立って平和的な性格をしていたために、きっと心を癒されていたのだろう。
「俺が東京に行くって言ったら、塾長たちも笑顔で送り出してくれました。いずれはこの俺が東京に羽柴塾の支部道場を設立してみせますよ!」
「あっそ。好きにやってくれ。ただし、あたしの目の届かないところでな」
「押忍! ……ところで姐さんは、本当に足を洗ってしまったんですね」
と、ふいに竹千代は切なげな目つきになった。
「おかみさんから聞いていましたけど、どこからどう見ても清純で可憐な女子高生です。……あ、もちろん以前から清純で可憐ではあったんですけどね?」
「薄気味悪いことを言ってんじゃねーよ。蹴り殺すぞ?」
「押忍、失礼いたしました! でも、姐さんは姐さんの思う通りに生きてもらえればそれでいいんです。羽柴塾での姐さんは……何だか、毎日がしんどそうでしたから」
レオナは竹千代の顔をにらみつけた。
しかし今度は怯えずに、竹千代は笑顔で見つめ返してくる。
「それでも姐さんが俺の憧れであり目標であることに変わりはありません。かつての姐さんをいつでも心に思い描きながら、俺は精進を重ねていくつもりです」
「……どいつもこいつも勝手なことばかり言いやがって……」
レオナは小声で言い捨てて、一番手近な路地に踏み込んだ。
「あれ? 家に戻るんじゃないんですか?」と竹千代も追いかけてくる。
それを無視して、レオナはずかずかと歩を進めた。
路地を抜けても、代わり映えのない町並みだ。
なるべく細い道を選んで、さらに数分ばかりも進軍すると、ようやく目当てのものを発見できた。
背の高い雑居ビルにはさまれた、無人の駐車場である。
いい具合いにさびれた区域であり、通りにも人影はない。
「どうしたんですか? 誰かと待ち合わせでも?」
「そんなんじゃないよ。ただ、身体を動かしたくなっただけだ」
駐車場に足を踏み入れ、大きなワゴン車の陰に回り込む。
ここならば、通行人があってもそうそう目にとまることはないだろう。
通学鞄を壁際に置き、レオナは竹千代に向きなおる。
「タケ、あたしと組手をしろ。全ありで時間無制限、一本勝負な」
「ええ? こんなところでですか? ……もちろん俺は、かまいませんけど」
嬉しそうに笑いながら、竹千代は右足を半歩だけ踏み出した。
それに合わせて、レオナも右足を軽く踏み出す。
「全ありでいいんすね? 制服が汚れちゃうかもしれませんよ?」
「ふん。あんたはそこまで腕を上げたっての?」
「姐さんこそ、稽古不足で腕が落ちてるんじゃないですか?」
そんなことを言いながら、竹千代は笑顔のままである。
レオナを心配している風でも、挑発している風でもない。ただひたすらに嬉しそうな笑顔だ。
「でも、ひとつだけ聞いていいですか? 足を洗ったはずなのに、どうしていきなり組手なんです?」
「うっせーな。ちっとばっかり暴れたい気分なんだよ」
「そうですか。なら、何の文句もありません」
竹千代は、笑顔でいきなり左足を振り上げてきた。
レオナの右のむこうずねを狙った蹴り上げだ。
レオナが右足を引いてそれをやりすごすと、その蹴り足で地面を踏み、至極無造作に左の拳を繰り出してくる。
無造作だが、精度の高い攻撃であった。
これはかわせない。ので、右の裏拳で相手の上腕を打ち、外側に払いのける。
それと同時に、レオナは左拳で相手の下顎を狙った。
ボクシングでいうアッパーカットである。
竹千代はわずかにのけぞり、それをやりすごす。
それと同時に、竹千代は右腕を下方にのばしていた。
レオナのスカートをつかもうという算段なのだろう。
こんなひらひらしたものを履いていれば、それが当然だ。
レオナは左膝を振り上げて、その手を撃退する。
とっさに拳を握ったのだろう。ごつんという衝撃がレオナの膝頭に走り抜けた。
とたんに、竹千代の顔面が迫ってきた。
頭突きを狙ってきているのだ。
まだ左膝を振り上げた体勢でいるレオナは、右足一本で後方に逃げるか、あるいは同じく頭突きで応戦する他ない。
しかしレオナは、そのどちらも選択しなかった。
立ち位置はそのままで、大きく上体をのけぞらせたのだ。
そうして後方に倒れ込みながら、相手のTシャツの襟をわしづかみする。
かすかに触れた竹千代の皮膚から、動揺の気配が伝わってきた。
このままレオナを押し倒すか、両足を踏ん張ってレオナの身体を突き放すか、その判断に迷ったのだろう。
迷った時点で、勝敗は決していた。
後方に倒れ込みながら、レオナは襟もとをつかんだ左拳を瞬間的に引いて、突き出し、相手の下顎を横合いから撃ち抜いた。
竹千代はがくりと膝から崩れ落ち、レオナは制服を汚さぬよう右手の平を地面についた。
すかさず相手から距離を取り、あらためて左の膝を振り上げる。
その膝頭が竹千代の鼻骨を粉砕する寸前で、レオナはぴたりと動きを止めた。
「一本な。あたしの勝ちだ」
「はい、参りました」
地面に膝をついたまま、竹千代は再び破顔した。
「二ヶ月ぽっちじゃ腕を落とすひまもなかったみたいですね。てっきり投げ技を仕掛けてくるかと思ったのに、まんまと騙されちゃいました」
「あんな体勢の片足一本であんたを投げられるかよ。迷わずあたしを押し倒してれば、もう何秒かはやりあえたのにな」
「いやあ、お見事です。俺の目標はとんでもなく高いなあ」
レオナは腰をかがめて竹千代の目を覗き込んだ。
「なあ、タケ、あんたはどうしてそんなに楽しそうなんだ?」
「え? それはもちろん、自分の目標を再確認できたんですから───」
「そうじゃなくって、あんたは何が楽しくって羽柴塾なんかに通ってたんだよ? あんた、道端で喧嘩をするようなタチじゃないだろ?」
「ええ。喧嘩は寸止めができないから嫌いです。俺はただ、強くなりたかっただけですよ」
「強くなってどうするんだよ? 喧嘩をしないなら強くなったって無意味だろ?」
「ええ? 強くなりたいことに理由なんて必要でしょうか? 男と生まれたからにはってやつですよ」
「……それじゃあ女のあたしには理解できない感覚ってわけだ」
レオナは息をつき、身体を起こした。
竹千代はきょとんと目を丸くしている。
「姐さんは、たまたま塾長の娘として生まれついただけですもんね。だから、強くなることに関心がないってのもわかりますよ。姐さんには、女としての幸せをつかんでほしいと願っています。……だからこそ、姐さんが足を洗いたいっていう気持ちも理解できるんですよ」
「ふうん。だったら無理矢理じゃなく自分の意志で格闘技を習ってる女がいたとしたら、あんたにも理解できないわけだね?」
「ああ、世の中にはそういう女性もいるみたいですねえ。はい、俺にはまったく理解できません」
「そうだよな。あたしにもまったく理解できねーよ」
「理解したいなら、その本人に問い質すしかないんじゃないですか?」
レオナは無言で竹千代をにらみつけた。
竹千代は、まだ膝をついたまま降参のポーズを取る。
「何か悪いことを言っちゃいましたか? その目、おっかないです」
「……うるせーよ」
レオナは鞄を拾いあげ、竹千代に背を向けた。
「あれ? 帰っちゃうんですか? だったら俺も───」
「うるせーっての! ついてくんなよ! ついてきたら、今度は寸止めなしでぶっ飛ばしてやるからな!」
言い捨てざまに、レオナは駆け出した。
得体の知れない激情が、胸の中にあふれかえっている。
昨日の昼から溜め込むに溜め込みまくった、フラストレーションの塊だ。
どうして自分がこんな思いを抱え込まなくてはならないのか。どうして誰も彼もが自分を放っておいてくれないのか。不平不満が渦を巻いて、レオナの肉体を四散させてしまいそうだった。
(悪いのは、全部あいつらだ)
人目を気にするゆとりもなく、レオナは町を走り続けた。
新品のローファーは走りにくく、息もすぐに切れてくる。短時間とはいえ本気の組手を終えたばかりであったので、なけなしの体力が尽きるのも早かった。
そうして汗だくになりながら、その建物の前に立つ。
ガラスの扉を開けると、受付台は無人になっていた。
ローファーを脱ぎ捨てて、レオナはずかずかと建物内に足を踏み込む。
扉を開けると、さきほどよりも数の増した視線が四方八方からあびせかけられてきた。
その中で、やたらとでかい図体をした壮年の男が近づいてくる。
「どうしたのかな? うちのジム生ではないようだけど───」
「会長、そのコが例の九条って娘さんですよ」
声をあげたのは景虎であった。
そのかたわらには、びっくりまなこの柚子の姿も見える。
それらの存在を意識からシャットダウンしつつ、レオナはその男性に向き直った。
「あなたが会長さんですね? あなたに話があってやってきました」
「うん、昨日は申し訳なかったねえ。伊達にもよく言って聞かせておいたから、あいつが歩けるようになったらすぐにでも───」
「お詫びは不要と申し上げておいたはずです」
乱れまくった呼吸を整えるいとまもなく、レオナはそう言いつのった。
そして───理性が感情を抑制する前に、胸中の思いをそのまま言葉にしてしまったのだった。
「それで、すべてを水に流してくださるお気持ちがあるなら───私をこのジムに入門させてくださいませんか?」
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