02 不本意な結末
翌日である。
レオナは誰よりも早く教室に陣取って柚子の登校を待ち受けたが、いつまでたっても生傷だらけのクラスメートが姿を現すことはなかった。
やがて予鈴が鳴り、本鈴が鳴り、島津教員が登場して朝のホームルームが開始されても、レオナの右隣は空席のままであった。
柚子は、どうしてしまったのか。
あの伊達和樹なる人物はどうなってしまったのか。
その解答も得られぬまま、レオナは暗澹たる気持ちで弁財女子学園における初めての授業を受けることになってしまったのだった。
◇◆◇
発端は、伊達和樹なる人物の言動にあったと思う。
彼女は最初から喧嘩腰であったのだ。
「ふうん、実家が空手道場ねえ。そいつは恵まれた環境に生まれついたもんだ」
レオナの姿をにらみ回しながら、伊達はそのように述べてきた。
トレーニングウェアに着替えさせられて、ひと通りのストレッチを終えた後のことである。
スポーツ用のハーフパンツは柚子からの借り物で、『シングダム』のロゴが入ったTシャツはジムで販売されていたものをしぶしぶ購入したものであった。
「ま、確かに立派な拳をしてんな。今どき珍しいぐらいじゃねえか」
と、検分していたレオナの手を放り出す。
レオナの拳は、拳頭が潰れて真っ平らになってしまっているのだ。
普通は拳を鍛えていると、拳頭が盛り上がった上で固くなる。それがいわゆる拳ダコである。
しかしレオナはその逆で、拳頭が平たく潰れるのと同時に周囲の皮膚が固く分厚くなり、結果的に拳の前面が真っ平らになってしまったのだった。
軟骨が潰れてそういう形になるのだと父親は言っていたが、実際のところはどうだかわからない。とにかく幼年時代から木の板や巻藁などを殴り続けてきた結果が、これだ。
(たったこれだけのことで素性がバレちゃうなんてなあ……)
その、レオナの素性を見抜いた柚子は、同じくトレーニングウェアに着替えた姿で隣に立ち並んでいた。
こちらはサーファーが着るような半袖のラッシュガードにハーフ丈のスパッツという格好で、意外に発育のいいプロポーションがすっかりあらわになってしまっている。どちらかといえば幼げな容貌をしているのに、どうやら彼女は着やせをするタイプのようだった。
「すごいですよねー! あたしも最初は目を疑っちゃいました! 男の人でもここまで拳を鍛えてる人なんてそうそういないですよね?」
腹が立つぐらい元気いっぱいの様子で柚子がそのように言うと、伊達はそれをはねのけるように「ふん」と鼻を鳴らした。
「そこまで拳が変形してるってことは、フルコン系の空手だよな。玄武館の系列か?」
「いえ。祖父が創設した小さな道場です」
「玄武館じゃねえのかよ。どこの何ていう流派なんだ?」
「……どうしてそのようなことをお聞きになるのですか? 私の実家の道場のことなど、たいした話ではないように思えるのですが」
「はん、どうしてもへったくれもあるかってんだよ。ジムの入門希望者にどういう経歴があるのかを聞くのは当たり前のこったろ?」
「……別に私は入門を希望しているわけではないのですが」
伊達は柳眉を逆立てて、柚子のほうに向き直った。
柚子は「えへへ」と頭をかく。
「実は、あたしが強引に頼み込んじゃったんです。MMAの楽しさを知ってもらいたくて」
「ふうん、なるほどな」
いっそう不機嫌そうな顔になりながら、伊達はがりがりと頭をかきむしった。
「ま、強引でも何でも、アンタはそこにそうして無料体験入門の希望者として突っ立ってるんだ。こっちとしては、どういう経歴を持ってるのか聞かないわけにはいかねえんだよ。アンタが習ってきた空手は、どこの何ていう流派なんだ?」
レオナは溜息をついてから、しかたなしに答えることにした。
「……千葉県の銚子市の外れにある、羽柴塾という道場です」
伊達はいぶかしそうに眉をひそめる。
それから、いきなり大声で笑い始めた。
「羽柴塾ね! わかったわかった、合点がいったよ! へーえ、なるほど! こいつはずいぶん愉快な輩が迷い込んできたもんだ!」
「カズっち先輩、その道場を知ってるんですか?」
柚子は不思議そうにしていたが、それ以上に驚いていたのはレオナのほうであった。
地元では知らぬ者もいない羽柴塾であるが、しょせんは地方都市の一地域でのみ通じる権勢だ。余所の土地に支部道場があるわけでもない、本当にちっぽけな道場なのである。そんな羽柴塾の名前が東京のど真ん中で通じようとは、レオナも夢想だにしていなかったのだった。
「アタシだっていちおう武魂会の出身だしな。空手界に足を突っ込んでりゃあ、嫌でも耳に入ってくる名前だよ。もちろんそんな大昔の話は、アタシだって噂話で聞くぐらいだけどさ」
「大昔って……いったい何があったんですか?」
「はん! 玄武館の名前なら、にわかのアンタでも名前ぐらいは聞いたことあんだろ? フルコンタクト空手の本家本元、日本で最大最古の実戦空手流派だ。グローブ空手のせいでちっとばかりは影が薄くなっちまったけど、今でも世界中に支部を持つ空手界の最大勢力だよ」
それぐらいは、他流派と交流のなかったレオナでも知っている。もともと日本では寸止めの伝統派空手というものが主流であり、戦後になって実際に殴り合い蹴り合うフルコンタクト系の空手流派が発足されたのだとか何だとか───父親がそのように述べていたのを記憶していた。
「で、最盛期には一千万人以上の門下生を抱えてた大所帯だからな。その玄武館が主催する世界大会なんてのは、業界中が注目する大イベントだった。その世界大会への出場権をかけた日本の選抜大会で、羽柴塾の人間がやらかしてくれたんだよ」
「やらかしたって、何をです?」
「選抜大会の優勝候補を、トーナメントの準決勝で病院送りにしちまったんだ。玄武館では禁止にされている肘打ちの反則技でな」
柚子は、ぎょっとしたように目を丸くしている。
しかしその話も、レオナは伝え聞いていた。
父親は若い頃に、一度だけ他流派の大きな大会に出場したことがある。途中まではしゃらくさいルールの中でも相手をぶちのめすことができたが、何やら小技のうるさい若造が勝ち上がってきたので、実戦空手の何たるかを叩き込んでやったんだ───などと、父親は呵呵大笑していたのだった。
「それ以来、羽柴塾は空手界を永久追放だ。ま、当たり前の話だよな。ルールを破って相手を病院送りにして、それで悪びれないような人間なんて、武道家の風上にも置けねえだろ? だけど、日本中の空手連盟にそっぽを向かれたはずなのに、道場をたたんでないなんて驚きだな、ええ、おい?」
「そうですね。父にとっては、どうでもいいことだったんでしょう」
「……あん?」
「父は武道家ではありません。自分でそのように公言していましたから」
「何だそりゃ? 空手家が武道家じゃなきゃ何だってんだよ?」
笑みを消して、伊達が詰め寄ってくる。
レオナは溜息をこらえつつ、記憶にある通りの言葉を答えてみせた。
「武術家です。現代風に言うなら喧嘩屋だな、と言っていました」
「……へーえ、そこまで恥を知らない人間がいるとは驚きだね」
伊達の顔に、ぐんぐんと怒りの表情がたちのぼってくる。
「そんだけの騒ぎを起こしておいて、当人は武術家気取りかよ? けっきょくその年は世界大会の優勝も外国人選手にかっさらわれちまって、玄武館の日本選手は面目丸つぶれになっちまったんだよ?」
「私には関係のない話です。すべては父のしでかしたことなのですから。……それに私は、すでに父と縁を切った身です」
「ふうん。だけどその血はしっかりアンタにも受け継がれてるみたいじゃないか?」
そう言って、伊達は口もとをねじ曲げた。
「どうりで最初からアンタの目つきが気に食わなかったわけさ。要するに、アンタも恥知らずな喧嘩屋の娘ってことだね。スポーツとして格闘技を楽しんでる人間を見下してるわけだ?」
「そんなつもりは毛頭ありません」
「そんなつもりがなくっても、アンタの目つきが語ってるんだよ! 『この連中はどうしてこんな下らないことに熱中してるんだ?』ってな!」
伊達は怒鳴り、レオナの肩を突き飛ばしてきた。
レオナは避けず、ただ身をよじってその衝撃だけを虚空に受け流す。
とたんに、伊達の顔ははっきりと怒気に染まった。
「こっちだってな、外道の空手屋なんてお呼びじゃねえんだよ! アンタの親父は、恥知らずの卑劣漢だ! 喧嘩がしてえなら道端でやってろ! 二度とうちのジムに足を踏み入れるんじゃねえ!」
「カズっち先輩、言いすぎですよ!」
柚子が怒って声をあげてくれた。
レオナはそれを手で制する。
「どう考えても、喧嘩を売っているのはあなたのほうです。でも、私がこの場に不相応というのは事実でしょうから、これで帰らせていただきます」
「ああ、とっとと帰れ! 二度と来るな!」
「了解しました。……ただし、一言だけ謝罪の言葉をいただけますか?」
「謝罪だって? つまんねえ冗談だな!」
「冗談ではありません。あなたは私の父を恥知らずの卑劣漢とまで仰ったのですから、その件に関しては謝罪をいただきたく思います」
レオナの言葉を聞きながら、伊達の顔はますます赤くなっていく。
「はん! 縁を切ったとか言いながら、けっきょくはその言い草かよ。やっぱり血は争えないってわけだ?」
「……確かに父は常識外れの腹立たしい人間ですが、顔を合わせたこともないあなたにそれを罵倒する権利など存在するのでしょうか?」
レオナのほうも、限界が近かった。
赤信号が、頭の奥で明滅している。
「ごちゃごちゃうるせえ餓鬼だなあ? 恥知らずを恥知らずと言って何が悪いってんだよ?」
「だから! ごちゃごちゃうるさいのはそっちだって言ってんだよ!」
気づくとレオナは、咆哮してしまっていた。
「あいつは大馬鹿で自分勝手などうしようもない人間だけど、赤の他人に卑劣漢呼ばわりされて黙っていられるか! 文句があるなら面と向かって当人に言えばいいだろうがよ! 無関係のあたしに薄汚え言葉を聞かせるんじゃねえ!」
「く、九条さん?」
柚子が腕に取りすがってきた。
とたんに、沸騰した血液が首の下に戻っていく。
「……なんちゃって」と、レオナは自分の頭を小突いてみせた。
もちろん相手は誤魔化されてくれなかった。
◇
数分後───
レオナは完全武装のいでたちで、リングの上に立たされてしまっていた。
(……どうしてこうなっちゃうんだよ)
コーナーポストにもたれかかりながら、レオナは溜息が止まらない。
その対角線上では、伊達が怒りながら笑っていた。
「おたがい納得できねえんだから、ひと汗かくしか解決手段はねえよなあ? アンタが勝ったら、土下座でも何でもしてやるよ」
「カズっち先輩、まずいですよー。ジムの中で喧嘩なんて、トラさんにバレたら大目玉ですよ?」
レオナのかたわらに陣取った柚子が、懇願するように声をあげる。
伊達は「はん」と鼻で笑った。
「喧嘩じゃねえよ。スパーリングだ。ごたいそうな経歴を持つ入門希望者の力量を測ってやろうってだけの話だよ」
「そんなの建前じゃないですか! あたしは納得できません!」
「うるせえなあ。文句があるならそいつをリングから下ろせばいいだろうがよ? このまま真っ直ぐお帰りいただいたって、こっちはいっこうにかまわないんだよ?」
ロープに手をかけた柚子が必死な目つきでレオナを振り返る。
レオナはそちらに、のろのろと首を振ってみせた。
「私も死ぬほどうんざりさせられています。でも、こればかりはどうしようもありません」
「だけど、カズっち先輩は半分プロ選手みたいなもんなんだよ? MMAのキャリアは短いけど、元はキックの選手だったんだから!」
「キックというのはキックボクシングのことですか? どのみち、私にはよくわかりませんが」
諦観の念をもって、レオナは視線を伊達のほうに戻す。
「あの、組手をするのはかまいませんが、この格好は何とかならないのでしょうか? このようなものは邪魔にしかなりません」
「はん! 防具もなしにスパーなんてやらせられるかよ。暑苦しいのはお互い様なんだから、うだうだ文句を言ってんじゃねえ」
レオナも伊達も、練習用の防具一式を装着していた。
頭にはヘッドギア、膝とすねにはそれぞれプロテクター、そして拳には巨大なボクシンググローブである。
羽柴塾では防具をつける風習などなかったので、レオナにとっては邪魔にしかならない。とりわけそのボクシンググローブというやつは、片方だけで五百ミリのペットボトルと同じぐらいの重さがあるようであった。
「時間は三分一ラウンドで、先にダウンを取ったほうが勝ちだ。アンタが勝ったら、さっきの言葉を土下座でわびてやるよ」
そのグローブに包まれた拳をレオナのほうに突きつけながら、伊達はそのように言った。
「喧嘩屋だったら、こまかいルールなんざ守れっこねえよな。アンタのほうは、肘、膝、何でもオッケーにしてやるよ。頭突きだけは禁止にさせてもらうけどな」
それならば、レオナの側に不満はなかった。
ただし、二ヶ月近くも稽古から身を引いていたレオナである。万全の態勢で動ける時間は、ごく限られるだろう。
(……一言わびてくれれば、それで済む話なのにな)
どうして縁を切った父親のために、こんな茶番を演じなくてはならないのか。
しかし、冷静さを取り戻した現在も、レオナに黙って引き返すという選択肢は存在しなかった。
本来であれば、レオナの側に腹を立てる筋合いはない。レオナの父親には常識も理屈も通用しないので、その破天荒さを許容できない人間にとっては大迷惑な存在でしかありえないのである。
それでも、縁もゆかりもない人間が父親を罵倒することは許せなかった。
父親を罵倒していいのは、自分や母親のように直接迷惑を被った人間だけなのだ。
「柚子、きっちり時間をカウントしておけよ? ま、三分間も必要はないだろうけどな」
「もー! 本当にどうなっても知らないですからね?」
そのように言ってから、柚子はレオナの腕に取りすがってきた。
「ごめんね、九条さん。せっかくあたしの我が儘につきあってくれたのに、こんなことになっちゃって……でも、カズっち先輩も九条さんを危ない目に合わせるようなことだけはしないはずだから!」
「はい。私も危ない目に合わせないよう心がけます」
柚子に対しては、特に思うところもない。これで入門を断る口実ができたと思えば、いっそすがすがしいほどであった。
(今度こそ、こんな世界からはすっぱり足を洗うんだ)
だとすれば、これも不本意な人生を切り捨てるための通過儀礼なのかもしれなかった。
そんな風に考えながら、もたれていたコーナーポストから背中を離す。
「それじゃあ、始めちゃいますよ? ……はい、スタートです!」
柚子がストップウォッチのスタートを切り、リングの下へと避難する。
それと同時に、伊達がステップを踏みながらレオナのほうに近づいてきた。
以前にボクシングをかじっていたチンピラと拳をまじえたことはある。それと同系統の足さばきであった。
膝にはクッションをきかせており、身体は心持ち前傾姿勢。左手と左足を前に出し、巨大なグローブで頭部を守っている。
「アンタもさっさとかまえなよ。サンドバッグになりたいわけじゃねえんだろ?」
「おかまいなく。これで不自由はありませんので」
レオナは両腕をだらりと下げたまま、左の足だけを軽く踏み出す。
そもそも羽柴塾の空手に正式なかまえなど存在しないし、そうでなくともこのように重たいものをぶら下げた拳を持ち上げる気にはなれなかった。
(ま、拳なんて使う必要もないさ)
伊達はレオナよりは十センチほど背が低い。彼女の攻撃を受ける前に、足技だけでこの茶番を終わらせることは可能だろう。
レオナがそのように考えたとき、パシンと目の前に火花が散った。
伊達の姿が、いつの間にかレオナの左方向に移動している。
レオナは慌てて身体の向きを修正した。
「だから、かまえろって言ってんだろ? アタシだって、無抵抗の人間をいたぶる趣味はないんだよ」
もしかしたら、伊達の拳に顔面を叩かれたのだろうか。
痛みはないが、左の頬に違和感が生じている。
想定よりも、踏み込みのスピードが速いのかもしれない。
なおかつ、巨大なグローブをつけている分の間合いを見誤ってしまったのか。
何の準備もなく顔面を叩かれてしまうなんて、数ヵ月前に父親と組手をして以来のことであった。
「張り合いがねえなあ。デトロイトスタイルを気取るんなら、距離感が生命だろ?」
今ひとつ意味のわからないことを言いながら、伊達はレオナの左手側に回り込んでこようとする。それに合わせて、レオナもいちいち身体の向きを修正しなくてはならなかった。
その体重移動の間隙を突かれて、また左の頬を叩かれる。
今度は青色のグローブが迫ってくるのを視覚でとらえることができた。
踏み込みの速さだけではない。こんな重たいグローブをつけているというのに、驚くほどの鋭いパンチであった。
(……こいつは
やはり二ヶ月も稽古から遠ざかっていると、感覚は鈍ってしまうものらしい。こんな風に相手の力量を見誤ることなど、かつてのレオナからは考えられないことであった。
(だけどそれなら、自分も真人間に更生できるってことだよな)
そんなことを考えながら、距離を取るべく後ずさる。
が、同じ距離だけ伊達は近づいてきた。
それも真っ直ぐ近づいてくるのではなく、左に左にとステップを踏みながら接近してくるのだ。
その前方に出された左すねを狙って、レオナは足を振り上げた。
そうすると、相手は素晴らしい反射速度で後退してしまう。
そしてまた、ステップを踏みながら近づいてくるのだ。
なんとなく、アリジゴクにでも足を踏み込んでしまったかのような心境であった。
「アンタ、本当に空手を習ってたのかよ? 足さばきなんて素人同然じゃねえか?」
伊達のほうは、ずいぶん不本意そうな顔つきになってしまっている。
もしかしたら、ボクシングのようにポンポンと殴り合う組手になることを期待していたのだろうか。
そうだとしたら、見当違いもはなはだしいと言うしかない。レオナが父親に仕込まれてきたのは、競技ではなく喧嘩に勝つための技術なのである。
レオナは、後方に下がるのをやめた。
とたんに、鼻っ柱をグローブで弾かれる。
当たりは浅いので、痛みらしい痛みは感じられない。これはボクシングで言うところの、左ジャブというパンチであるはずだった。
腕の力だけを使った、威力よりもスピードを重んじる攻撃である。これで相手を牽制しながら距離を測り、右の拳で重い攻撃を打ち込んでくる。それがボクシングという競技のセオリーであるはずだ。
(だけどこいつはキックボクサーだとかいう話だったから───)
そんな風に考えた瞬間、今度は右足が飛んできた。
奥足からの、下段蹴り───洋風に言うならローキックというやつだ。
反射的に左膝を上げて、衝撃を受け流す。
それでも、パシンッと鋭い音色が響きわたった。
そして、左ジャブで左の頬を小突かれる。
なんてなめらかな動きであろうか。
ここまでの技術を体得するには、それこそ羽柴塾の門下生にも劣らない鍛錬が必要であったはずだ。
この伊達という人物も若い娘であることには違いないのに、どうしてそこまで格闘技などというものに熱中することができたのか。
それを見下しているつもりなどは毛頭なかったのだが、ただ、大きな疑念にはとらわれることになった。
レオナが忌避してやまなかった格闘技というものに、こうして熱心に取り組んでいる若い娘が存在する。それ自体が、レオナにとっては大いなる謎そのものであったのである。
ただ───それとはまったく別のところで、ふつふつと熱くたぎっていく感情も存在した。
(ずいぶん好き勝手にやってくれるな)
こうもパンパンと顔を叩かれて、平静でいられる人間はいないだろう。重くて邪魔くさい防具とグローブの存在や、想像以上に鋭い伊達の身のこなし、そして、思うように動かない自分の身体の不自由さが、さらにレオナを苛立たせる。
(長引いたら余計に不利だ。とっとと終わらせちゃおう)
深く息を吸い込んで、レオナは意識を集中した。
世界が、くっきりと彩度を増す。
その中で、伊達が大きく踏み込んできた。
右の拳が、レオナの眼前に迫ってくる。
その拳を見つめながら、レオナは後方に跳躍した。
およそ二歩後方にコーナーポストが待ちかまえていることは確認済みである。そのコーナーポストを後ろ足で蹴り飛ばし、レオナはさらに宙高く舞い上がった。
そのまま右の蹴りで相手の顎を狙う。
当たれば、一撃で伊達は昏倒するはずであった。
しかし伊達は、右ストレートを放った体勢のまま首をねじって、その蹴りを回避してしまった。
羽柴塾の熟練門下生にも劣らない反応速度であった。
それなら、次の手だ。
マットに着地したレオナは、すぐさま相手に向きなおる。
伊達もこちらに向きなおっていたが、レオナのほうが速かった。
怒りと驚きに引きつった伊達のもとに、大きく左の足を踏み込む。
伊達はまだ中途半端な体勢だ。
このまま左の膝を横合いから踏み抜いてやれば、きっと勝負はついただろう。
しかし、半瞬の思考でレオナはその手を放棄した。
伊達は左の膝だけに黒いサポーターを巻いている。そこには古傷があるのではないかと察することができたからだ。
相手に怪我を負わせるのは、羽柴塾の流儀ではない。
そのていどの判断ができるぐらいには、レオナも冷静であった。
(だから親父だって、好きこのんで相手に怪我をさせたわけじゃないはずだ。そうするしかなかったぐらい、相手が手ごわかったってことなんだよ、きっと)
レオナは相手の足の間に左足を踏み込んだ。
そして、相手の下腹部に自分の腰の左側面を衝突させる。
さらに、左のグローブの親指を、相手のタンクトップの左の肩口に引っ掛けた。
無呼吸のまま、一気に相手の身体を引き上げる。
相手の腰が、完全にレオナの腰に乗った。
これでレオナが身体を沈めれば、伊達の身体は一回転して背中からマットに叩きつけられる───はずであった。
(あれ?)
しかし、予想外の抵抗にあって、レオナのほうが姿勢を崩すことになった。
伊達と重なり合ったまま、自分もマットに倒れ込んでしまう。
とっさに右腕で受身を取って、前方回転してからレオナはすみやかに立ち上がった。
だが、伊達のほうは立ち上がらなかった。
立ち上がらず、左膝を抱え込んでうめき声をあげている。
「カズっち先輩! 大丈夫ですか!?」
大きな声をあげながら、柚子がリングに飛び上がってきた。
そうして伊達に取りすがったが、伊達はうめくばかりで答えることができない。
「……いったい何がどうなったんですか?」
呆然としてレオナが尋ねると、ほとんど泣き顔になりながら柚子が振り返った。
「投げられそうになったから、九条さんの足に左足を引っ掛けたんだよ! それで一緒に倒れ込んだときに、左膝をねじっちゃったみたい! カズっち先輩は、靭帯の怪我が治ったばかりだったの!」
あの体勢から、まだ抵抗することができたのか。それならば、古傷さえ抱えていなければ踏み留まれたのかもしれない。
それは驚嘆に値するほどの反射神経であったのだろうが───彼女にとっては、裏目に出てしまったということだ。
「そんなことより、どうして投げ技なんて使っちゃったの!? 投げる時に、相手の服までつかんでたよね!?」
「え? それはだって……頭突き以外は好きにしていいという話だったから……」
「ボクシンググローブをつけてたんだから、立ち技だけのスパーに決まってるじゃん! それに九条さんは空手の選手だったんでしょ? それなのに投げ技なんて───」
「羽柴塾は、そういう流派なんです」
柚子はがっくりと肩を落としてから、あらためて伊達の身体に取りすがった。
その声が響きわたったのは、まさしくその瞬間であった。
「あんたたち、いったい何をやってるんだよ!」
怒りにひび割れた、野太い声。
ジムの関係者たちが、昼食を終えて戻ってきたのだ。
◇◆◇
そして時は現在に至る。
英語教員の発する機械的な声音を聞き流しながら、レオナの頭の中ではずっと昨晩の出来事がぐるぐるとリピートされていた。
伊達に怪我を負わせてしまった後、レオナは何のおとがめもなしに解放されることになった。
いや、むしろその場の責任者からは、「非は伊達のほうにある」とまで言ってもらえたのだ。
勝手にスパーリングをしたことも、明確なルール提示をしなかったことも、羽柴塾について罵倒したことも、すべての責任は伊達の側にある。後日、ジムの会長からも正式に詫びさせてもらいたい、と。
「だから今日はこのまま帰ってくれ。あたしはこの馬鹿を病院に連れていかなきゃならないからさ」
だからもう、レオナの側に思い悩む理由などひとつもない。
だが、思い悩む理由などひとつもないのに、こうして大事な授業中にまで昨日のことを考えてしまっている。
とにかく柚子から、あの騒ぎがどのように収束したのかを聞きたかった。
そんなレオナの前にようやく柚子が姿を現したのは、二時限目の授業が終了したのちのことであった。
「カズっち先輩は、やっぱり古傷が再発しちゃったみたい。病院までお見舞いに行ってたから、遅刻しちゃったの」
レオナが小声で状況を問いただすと、やはり小声で柚子はそのように答えてくれた。
雨に打たれたウサギのように、しょんぼりとした面持ちである。
「完全に靭帯を痛めちゃったから、また一から治療のやり直しなんだって。もともと断裂寸前の大きな怪我だったからさ……全治二ヶ月はかかるだろうって話だったよ」
「全治二ヶ月……」
そこまで大きな負傷であったのか。
レオナはますます重苦しい気持ちになってしまった。
「あ、だけど九条さんは気にしないでね? 悪いのは、あたしとカズっち先輩なんだから……こんなことなら、殴られてでもカズっち先輩を止めるべきだったよ」
ウサギのように大きな瞳に、じんわり涙が浮かんでしまう。
これで素知らぬ顔をできるほど、レオナも冷徹にはなりきれなかった。
「でも、格闘技などというものに怪我はつきものだと思います。怪我をさせた張本人がこのようなことを言うべきではないかもしれませんが……遊佐さんも、そこまで重くとらえる必要はないのでは?」
「うん、だけど、カズっち先輩はちょうど二ヶ月後に大きな試合を控えてたからさ。……あのね、年に一回、うちのジムの主催で格闘技のイベントを企画してるの。それで今年は女子選手の試合にも力を入れててさ、カズっち先輩は他のジムとの対抗戦の副将に抜擢されてたんだよ」
力ない声で、柚子はそう言った。
「ちょっとうちとは因縁のあるジムとの対抗戦でね。カズっち先輩もすっごく気合が入ってたから、すっごく悔しいんだろうなと思って……」
そうして柚子は、小さな子供のように手の甲で目もとをぬぐった。
「でも、今さらそんなことを言っても始まらないもんね。カズっち先輩の分まで、あたしが頑張るよ」
「え? 遊佐さんもその試合に出場するのですか?」
「うん。ちょうどいいキャリアの相手がいたから、あたしも対戦できることになったの。これが初の公式試合なんだよー。すごいでしょ?」
柚子はようやく笑顔になったが、無理をしているのは明らかであった。きっと、レオナの気持ちを別のほうにそらそうとしてくれているのだ。
「本当に、おかしな騒ぎに巻き込んじゃってごめんね? あたしはただ、クラスメートと同じジムに通えたら最高だなーって思っただけなの」
「はい。……だけど私は……」
「うん。こんなことになっちゃったら、入門したいなんて思えるはずがないよね。全部あきらめるから心配しないで。それに、秘密は絶対に守るから」
レオナは何も答えることができなかった。
そして、次の授業の教員がやってきてしまったので、それ以上は会話を続けることもできなかった。
そうしてレオナの新生活の第二日目は、初日以上に不穏なまま過ぎ去っていったのだった。
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