ストライキングガール!/EDA 1巻発売中!
カドカワBOOKS公式
SECTION.1
ACT.1
01 レオナと柚子
時は九月、初秋の
九条レオナは胸中にふくれあがる不安と期待を必死に抑えつけながら、その場に立っていた。
「ホームルームの前に、転入生の九条レオナさんをご紹介いたします」
レオナのかたわらに立った人物が、落ち着き払った声でそのように述べる。
島津という名前の、まだ若い女性教員である。
「この弁財女子学園において外部の生徒を受け入れるというのはあまり例のないことですが、同じ学園の一員としてわけへだてなく仲良くしてあげてください。……では九条さん、あなたからもご挨拶を」
「はい」とレオナは精一杯おしとやかにお辞儀をしてみせる。
「千葉県の若宮高等学校から転入してきた、九条レオナと申します。まだ引っ越してきたばかりで右も左もわかりませんが、ご迷惑をおかけしないよう頑張りますので、どうぞよろしくお願いします」
これといって反応はなかった。
空調設備の稼動音が耳につくぐらい、教室内は静まりかえっている。
だが、とりたてて拒絶されているような感じはしない。時期外れの転入生ぐらいでむやみに騒ぎたてるのは、きっと彼女たちの流儀ではないのだろう。
ここは都内でも屈指のお嬢様学校として名高い、私立弁財女子学園高等部、一年一組の教室であった。
教室に居並んだ四十名ばかりの女子生徒たちは、みんなお行儀よく席についたまま、静かにレオナの挙動を見守っている。
「では、九条さんも席についてください。席はこの列の一番後ろとなります」
「はい、わかりました」
黒革の通学鞄を両手で持ち直し、レオナは教壇から足を踏み出した。
レオナは今日からこの新天地で第二の人生を歩み始めるのだ。
どこかおかしいところはないだろうかと自問して、大丈夫なはずだと自答する。
制服はどこも着崩したりしていないし、のびかけの髪もきちんと三つ編みのおさげにしてきた。歩き方ひとつにも十分に注意を払っている。これならば、自分の存在をこの子羊みたいに大人しそうな少女たちの中に埋没させることができるはずだった。
(とにかく目立たずに、平凡に……当たり障りのない学校生活を手にしてやるんだ)
そんなことを考えながら、しずしずと歩を進めていく。
すると───目的の場所には、奇妙な隣人が待ち受けていた。
「初めまして、九条さん。あたしは
それはべつだん大きな声でもなかったが、とにかく教室中が静まりかえっていたので、やたらとはっきり響きわたるような感じがした。
若干の戸惑いを覚えつつ、レオナは「よろしくお願いします」と頭を下げてみせる。
「やだなー、そんなにかしこまらなくったって大丈夫だよ。島ちゃんって、見た目ほどは怖くないから」
「遊佐さん。目上の人間に対してちゃん付けは控えるようにと何度も注意しているはずですね?」
すかさず教壇から島津教員の声が飛んでくる。
遊佐柚子と名乗ったそのクラスメートは「ごめんなさーい」と笑顔で舌を出した。
ずいぶん容姿に恵まれた少女である。
きっと元から色素が薄いのだろう。びっくりするぐらい肌が白くて、猫っ毛のショートヘアはいくぶん黄色みがかっている。ぱっちりとした目が印象的で、鼻や口は造作が小さく、小動物のように愛くるしい。体格はとてもほっそりしており、座っているからわかりにくいが、かなり小柄でもあるようだ。
しかし、そのようなことはどうでもよかった。
レオナはひと目見た瞬間から、その少女に不審感をかきたてられてしまっていた。
何故ならば───そのように可憐で愛くるしい姿をしているにも拘わらず、その遊佐柚子という少女は身体のあちこちに生傷をこさえていたのである。
右目の上には絆創膏が貼られており、唇の端が少し切れている。右手の中指と薬指にはテーピングが巻かれており、左の二の腕にはくっきりと青い痣が浮かんでいる。
これは明らかに、暴力の痕跡だ。
レオナ以上にそれをはっきりと確信できる者は、この教室内に存在しないはずであった。
(まさか、イジメか? それともDV?)
だけどそのわりに表情は明るいし、態度などは無邪気そのものである。
いささか落ち着かない気持ちを抱え込みながら、レオナは無言で自分の席に腰を下ろした。
すると遊佐柚子が身を寄せてきて、レオナの耳に囁き声を注ぎ込んできた。
「ね、九条さんって、背が高くてかっちょいーね。身長は何センチぐらいあるの?」
何ともぶしつけな質問であった。
内心の反感をねじ伏せつつ、レオナは「百六十九センチです」と小声で答えてみせる。
「百六十九センチ? あれー? もうちょいあると思ったんだけどなー。モデルみたいにすらっとしてるから、数字よりもおっきく見えるのかな」
余計なお世話だと内心で吐き捨てる。
実際のところ、レオナの身長は百七十三・五センチで、日本の成人男性の平均身長をも上回ってしまっているのである。
「あたしは百五十一センチしかないからさ、おっきい人が羨ましいんだよね。成長期が終わってないことを祈るばかりだよー」
「そうですか」となるべく平坦な声で応じつつ、レオナは教壇のほうに集中しようとした。
だが、平静を保とうとするレオナの思いは、次の囁き声で木っ端微塵に粉砕されることになった。
「それに、九条さんって格闘技経験者だよね? 空手? キックボクシング? それだけ拳を鍛えてるってことは、やっぱり空手かな?」
レオナは椅子ごとひっくり返りそうになってしまった。
背筋に冷や汗を感じつつ、のろのろと遊佐柚子を振り返る。
「い……いったい何を仰っているのですか? 言葉の意味がよくわからないのですが……」
「だって、拳がぺったんこじゃん。それも拳ダコの一種でしょ? なんか手の甲も分厚くて固そうだし、すっごく鍛え込まれてる感じ」
そう言って、遊佐柚子は天使のようににっこりと微笑んだのだった。
「それ、すっごくかっちょいーよ。これからお隣さんとしてよろしくね、九条さん」
◇◆◇
その日は二学期の初日であったため、ホームルームと始業式を終えた後は下校が許されることになった。
しかしレオナは下校せず、広大なる学園の敷地内を闊歩している。親切なクラスメートたちが学園内の案内を申し出てくれたのである。
「あの中庭の向こうに見えるのが体育館で、右手に見えるのが運動部の部室棟である七号館です。七号館には一般生徒も使用するプールの設備がありますので、場所を覚えておいてください」
その一団のリーダー格である
彼女は一年一組のクラス委員長でもあるのだ。
「体育館やプールは中等部の生徒と共同で使用しているため、入れ替わりで顔を合わせる機会もあるでしょう。ですが、風紀の問題がありますので、中等部の生徒とは必要以上に言葉を交わさないように気をつけてください」
「わかりました。……亜森さんも中等部からの進学だったのですか?」
「もちろんです。この弁財女子学園において、外部の学校から編入してくる生徒というのは数えるぐらいしか存在しないはずです」
黒縁眼鏡のクラス委員長は、妙に取りすました面持ちでひとつうなずく。
いささか居丈高な印象は否めないが、謹厳かつ凛然としたそのたたずまいは、レオナが想像していた弁財女子学園の生徒としては模範的であるように感じられた。
それにしても、広大なる学園である。
レオナとて、夏休み中に一度は見学に来ているのだが、こうして隅から隅まで歩き回ってみると、その規模のとてつもなさに改めて驚かされてしまう。
赤レンガ仕立てのモダンな校舎は、中等部の施設とあわせて八号館まで存在する。デザイン自体はレトロな造りだが、いずれも平成になってから改修されているので、古びた印象は微塵もない。
また、通常の体育館やグラウンドとは別に、テニス用のグリーンコート、音楽用の大ホール、部活用の屋内トレーニングルームなどが完備されており、それ以外でも、ちょっとした図書館なみの規模である図書室や、近代的なコンピュータールーム、グランドピアノの置かれたレッスン室、絵画のためのアトリエなどなど───小中高と公立の学校に通っていたレオナには信じ難いほどの設備であったのだった。
この立派な学園に相応しい人間になろう、とレオナは固く心に誓っている。
そうでなければ、入学を許してくれた母親にも面目が立たない。
しかし、光と希望にあふれた新天地を案内されながら、レオナの胸には重苦しい暗雲のような不安感がわだかまってしまっていた。
言うまでもなく、それは遊佐柚子からもたらされた不安感である。
(くそっ……あいつはいったい何なんだよ?)
放課後に話をつけようと思っていたのに、彼女は帰りのホームルームを終えるなり「また明日ね!」と教室を出ていってしまったのだった。
あの娘を何とかしない限り、レオナの心に安息の時は訪れない。
自然、足取りも重くなろうというものであった。
「……大丈夫ですか、九条さん? 少し顔色が悪いようにお見受けしますけれども」
亜森に声をかけられて、レオナは我を取り戻す。
「ええ、大丈夫です。改めて、ここが素晴らしい学校だということを実感することができました」
「そうですね。わたしも弁財女子学園の生徒であることを誇らしく思っています。……でも、中にはそうでない人間もごくわずかにですが存在しますので、九条さんも感化されてしまわないように気をつけてください」
それはもしかしたら、遊佐柚子のことを指しているのだろうか。
彼女がクラスで浮き上がった存在であるということは、この半日でレオナにも容易に察することができていた。
「では、最後に食堂に寄ってから、校内の案内は終了ということにしましょう。食堂は、あちらの五号館の奥にあります」
亜森の先導で、屋根つきの渡り廊下をさらに前進する。
そこからは、噴水の設置された中庭を一望することができた。
レオナたちと同じ制服に身を包んだ何名かの生徒たちが、ベンチに腰かけて談笑している。まだまだ残暑の厳しい時節であるが、木陰で休む分にはそれほど過ごしにくいこともないのだろう。何だか胸が詰まるほどになごやかな光景だ。
「……弁財女子学園の編入試験は、中等部からの進級試験よりも数段は難易度が高いのだと聞き及んでいます」
と、やや唐突な感じで亜森がそのように述べてきた。
「それに合格したということは、あなたはクラスでも上位の成績を持つ生徒であるということになるのですよね、九条さん」
「そうですか。この学校に憧れていたので、夏休みの間は必死に勉強をして編入試験に臨んだんです」
レオナがそのように答えると、亜森は初めて笑顔を見せた。
それは思いがけないほど優雅かつ魅力的な笑顔であった。
「わたしの目標は、主席でこの学園を卒業することです。そのライバルに成り得るような存在は、心から歓迎したいと思っています」
いまひとつ真意はつかみきれなかったが、レオナはぎこちなく微笑み返すことにした。
「自分にそんな力があるかはわかりませんが、この学園の生徒として恥ずかしくない結果を残せるように励みたいと思います」
「ええ、期待しています」
亜森の表情は何やら満足そうに見えたので、レオナも内心でほっと息をつくことができた。
そんな言葉を交わしている内に、五号館へと到着した。
敷地内では最南端に位置する、平屋の大きな建物である。
「うわ、中はすごく広いんですね」
足を一歩踏み入れると、まずは一流ホテルみたいに広々としたカフェテリアが待ち受けていた。
昼食の後にくつろぐスペースなのだろう。現在は無人だ。
そのカフェテリアを通過して大きな扉をくぐると、そこが食堂であった。
白く磨かれた床の上に、八人ぐらいが着席できる横長の机がずらりと並べられている。必要以上に豪華な感じはしないものの、とても清潔で過ごしやすい環境であるように感じられた。
こちらもかなりの規模であるが、埋まっている席は三、四割ほどだ。
「普段は全校生徒の半数以上がこの食堂で昼食をとっています。現在利用しているのは、午後の部活動を控えている生徒たちですね。この食堂も、中等部との共有スペースとなります」
弁財女子学園の総生徒数は、中等部と高等部を合わせて千五百名以上にものぼるはずであるから───最低でも八百名分ぐらいの食事が毎日用意されているということだ。
母親には弁当をこさえる時間的余裕もないので、明日からはレオナもこの食堂のお世話になることになる。
「あれー? 九条さんじゃん。まだ帰ってなかったのー?」
と、そこで横合いからふいに声をかけられた。
一番手前の席で食欲を満たしていた生徒が、こちらに向かってぶんぶんと手を振っている。その姿を見て、レオナはギクリと身体をすくませることになった。
なんとそれは、誰よりも早く教室を飛び出したはずの遊佐柚子であったのだった。
「ゆ……遊佐さんこそ、まだ帰られていなかったのですか?」
「だから、そんなかしこまらなくてもいいってばー。……うん、あたしは帰宅部なんだけどね、半ドンの日もランチは学校で済ませてるの」
レオナは一瞬で混乱状態から立ち直り、決然と亜森を振り返った。
「それなら私もこの食堂で昼食を済ませていこうかと思います。亜森さんに、それに皆さんも、今日はどうもありがとうございました」
黒縁眼鏡の奥で目を細め、亜森はレオナと柚子の姿をいぶかしそうに見比べてきた。
が、とりたてて文句を言おうとはしないまま、レオナに視線を固定させる。
「そうですか。では、ここで失礼させていただきます。明日からもよろしくお願いしますね、九条さん。……それでは、ごきげんよう」
「ごきげんよう」
舌に馴染まない別れの挨拶を交わしてから、レオナは柚子に向き直った。
樹脂製のナイフとフォークを握りしめた生傷だらけのクラスメートは、にぱっと陽気に笑い返してくる。
「今日だったら洋食のBランチがオススメだよー。ここのエビフライは絶品なんだー」
「それはご親切にありがとうございます」
亜森らの姿が完全に見えなくなるのを待ってから、レオナは柚子のすぐ隣に腰を下ろす。
幸い、このテーブルは彼女が一人で占領していた。
「でも、その前に少しお話をさせてください。あの、朝方の一件ですが───」
「朝方って? もしかしたら、格闘技の話?」
期待に瞳を輝かせながら、柚子も顔を寄せてくる。
その鼻っ柱に頭突きをかましてやりたい衝動を抑えつけつつ、「そうです」とレオナは小声で応じてみせる。
「私は転入してきたばかりで、何とかクラスに馴染もうと努力している最中なんです。そんな中、あらぬ疑いをかけられてしまうのはとても不本意なのですよ、遊佐さん」
「あらぬ疑い? でも、九条さんは何か格闘技をやってたんでしょ? そんな立派な拳ダコがあるんだから!」
「あの、お願いですからもっと小声で───」
「あ、ごめんね。ついつい興奮しちゃってさ。まさかこの学校で格闘技の経験者に出会えるなんて夢にも思ってなかったんだよー」
「いえ、ですから───」
「で、九条さんは何をやってたの? そこまで拳を鍛えてるってことは、やっぱフルコン系の空手かな? すごいよねー。まさに人を殴るための拳って感じ! うっとりしちゃうなー」
放っておくと、また声のトーンが上昇していってしまう。
レオナとしては、怒りを通りこして泣いてしまいたいような心境であった。
「遊佐さん、どうかお願いですから、そんな話を他の人に吹聴しないでください。私はそんな風におかしな注目を集めたくないんです」
「あー、この学校で格闘技経験者なんて言ったら、おもいっきり変人扱いされちゃうもんねー。わかるわかる。わかりすぎるよ、九条さん」
そんな風に言いながら、柚子はひたすら無邪気に笑っている。
「それじゃあその一件は誰にも内緒ね? つつしんで承りました!」
「……本当ですか?」
「ほんとほんと。誰よりも愛する母の名にかけて誓います」
そのように述べてから、柚子はぐぐっとさらに顔を近づけてきた。
「その代わりといっては何だけど、ランチの後にちょっとつきあってくれない? 九条さんに見せたい場所があるんだー」
◇◆◇
どうしてこんなことになってしまったんだろう、とレオナは電車の中で何度目かの溜息をついた。
そんなレオナのかたわらでは、柚子が吊り革につかまって立っている。こちらは鼻歌でも歌いだしそうなほどご機嫌の様子である。
「あの、いったい私をどこに連れていくつもりなんですか? まだこちらに引っ越してきたばかりなので、行き先もわからないまま電車に乗せられるのはとても不安なのですけど……」
「んー? そういえば、九条さんってお家はどこなの?」
「最寄り駅は、高円寺です」
「あー、それなら高円寺のひとつ先だよ! 向かってるのは、中野だから」
ちなみに弁財女子学園の最寄り駅は、西荻窪である。
中央線か総武線を使えば、自宅の高円寺までは三駅だ。
「いいなー、高円寺かー。あたしは千駄ケ谷だから、片道で二十分も電車に揺られなきゃいけないんだよねー」
「あの、遊佐さん……」
「あ、できればあたしのことは柚子って呼んでくれない? そっちのほうがリラックスできるんだよねー」
「いえ。私はそこまで気さくな人間ではありませんので」
「そっかー、残念!」
と、屈託のない顔で笑ってから、ふいに柚子はレオナのほうへとにじり寄ってきた。
思わず後ずさるレオナの顔を見上げながら、「んー?」と可愛らしく小首を傾げる。
「あのさー、九条さんは百六十九センチって言ってたよね? でも、百五十一センチのあたしより頭ひとつ分ぐらい大きいみたいなんだけど、これってどういうことなんだろう?」
「……さあ? 気のせいじゃないですか?」
「いやいや、気のせいじゃなくて実際に大きいし! いいなー、あたしもあと5センチでいいから大きくなりたいよ」
悪気などは、欠片もないのだろう。
が、レオナにしてみれば一番触れてほしくない箇所にばかり波状攻撃をくらっているような心境であった。
そうしてレオナが憮然としている間に、電車は中野駅に到着した。
まだ午後の一時を少し回ったばかりなのに、どうしてこんなに人間が多いのか。少なからず辟易しながら、柚子の案内で駅を出る。
目的の場所は、駅から徒歩で五分ていどの場所にあった。
マンションやら雑居ビルやらが立ち並ぶ、そんなに賑やかではない一画だ。
ずいぶんと幅広の形状をした、三階建てのマンションである。
マンションだが、その一階は居住スペースでなく、商業用のテナントになっているようだった。
ガラスの扉には何やらけばけばしいポスターがいくつも貼りつけられており、そして胸の高さに店舗の名称が黒字でプリントされている。
『格闘技ジム シングダム』───と、である。
想定内の展開とはいえ、やはりレオナは溜息が止まらなかった。
「……だからあなたはそんな風に生傷だらけだし、格闘技というものについても妙な知識を備えている、ということですか、遊佐さん」
「大当たりー! 実は一年ぐらい前からこのジムに通ってるんだー」
「……それで、私にどうしろと?」
「んー? 九条さんって、こっちに引っ越してきたばかりなんでしょ? だったら格闘技を続けられる場所を探してるのかなって思って!」
ほっそりとした腰に手をあてて、えっへんとばかりに胸をそらせる柚子である。
止まらない溜息をなんとか押し殺し、レオナはゆっくりと首を横に振ってみせる。
「お気遣いいただき恐縮ですが、私はそのような場所を求めてはいません」
「え? もう入門する場所を決めちゃってるの?」
「違います。格闘技などというものを続ける気はないと言っているのです」
柚子はきょとんと目を丸くしてしまった。
それから、いきなりレオナの胸もとにつかみかかってくる。
レオナは反射的に肘を入れてしまいそうになったが、なんとか自制することができた。
「何で? どうして? 何か病気にでもなっちゃったの? それとも、膝や腰でも痛めちゃったとか?」
「そういうわけではありません。ただ、引っ越しと転校を機にそんなものは辞めてしまおうと決意したんです」
ここまできたら下手な嘘でごまかすのも得策ではなかろうと思い、レオナは素直な心情を述べさせてもらうことにした。
しかし、柚子はレオナのもとから離れようとしない。
「特に理由もないのに辞めちゃうの? そんなの、もったいないよ! 九条さんって、あたしなんかよりずーっとずーっと昔から格闘技を続けてきたんでしょ? それなのに、どうして!?」
「……私は実家が空手の道場だったんです。父親にむりやり習わされていただけだから、そんなものには何の未練もないんですよ」
そう、何の未練もありはしなかった。
父親と二人の兄たちは心の底から楽しそうにしていたが、レオナはちっとも楽しくなかった。とりわけ父親の教える空手というやつは言語に絶するほど荒っぽいものであったので、せいぜい喧嘩の道具ぐらいにしか役に立てることができなかったのだ。
そもそも、どうして女の自分まで路上で喧嘩をふっかけられなくてはならないのか。
レオナが育ったのはゴロツキの多い港町であったが、自分の他にこんな荒くれた日常を送っている娘はいなかった。
こんは人生は間違っている。
こんな人生は大嫌いだ。
だから───レオナは父親に愛想を尽かした母親とともに家を出て、新しい人生を獲得するために弁財女子学園へと転入を果たしたのだった。
「……そっか、九条さんは空手の稽古が全然楽しくなかったんだね」
つぶやきながら、柚子はようやくレオナの制服から手を離してくれた。
しかし、ほっとしたのも束の間───これまでで一番に瞳を輝かせながら、彼女はレオナの顔を見上げてきた。
「それじゃあなおさら、ここのジムを見学していってよ! 空手とMMAは別物でしょ? ここだったら、九条さんも楽しく格闘技を続けられるんじゃないかなあ?」
「え、えむえむえー?」
「うん、MMA。ミックスド・マーシャル・アーツの略ね。日本語だったら、総合格闘技。名前ぐらいは聞いたことあるでしょ?」
名前ぐらいなら、聞いたことはある。たしかレオナがもっと幼かった頃、民放のテレビ番組でそんなような競技の試合が中継されていたはずだ。
ほとんど記憶には残っていないが、ある時期の大晦日などは複数のチャンネルでその試合が放映されており、父親が酒の肴にしていたような覚えがある。
「……だけどそれは、空手や柔道やレスリングといった異なる競技の修練を積んできた人間たちが力比べをする競技なのではないのですか? 私はそのように認識していたのですけれど」
「んー? そりゃまあ確かに異種格闘技戦って一面も大昔にはあったんだろうけど、MMAってのはそれ自体がひとつの競技だよ? 本格的に技術体系が整ったのは、格闘技ブームの頃にブラジリアン柔術の技術を導入してからなんだろうけどさ。そのずっと前から、総合格闘技っていう概念自体は存在してたはずだし!」
何だか目の色が変わってしまっている。
レオナはいくぶんたじろぎつつ「そうですか」と柚子の舌鋒をさえぎった。
「あなたがその分野について博識だということは十二分に理解しました。でも、それがどのような競技であれ、私は格闘技という存在そのものから遠ざかりたいんです」
「でも、やってみたら面白いかもしれないじゃん! ほら、無料体験入門とかもできるからさ! それで実際に身体を動かしてみて、それでも面白くなさそうだったら、あたしも素直にあきらめるから!」
ぱんっと手の平を勢いよく合わせて、空腹のウサギみたいな目つきでレオナを見つめ返してくる。
数秒ほど思い悩んだのち、レオナは溜息とともに「わかりました」という言葉を吐き出した。
「今日一日おつきあいして、それでも私の気持ちが変わらなかったら、あきらめてくれるんですね? ……その後は、学校でも一切その話は持ち出さないと約束してもらえますか?」
「もちろん! ありがとうね、九条さん!」
いったい何をそんなに熱心になっているのか、柚子は本当に嬉しそうな顔になってしまっていた。
それに、どうしてこんなに小さくて可愛らしい女の子が生傷だらけになりながら格闘技のジムなどに通っているのか。レオナには、さっぱり理解することができない。
レオナの記憶に間違いがなければ、総合格闘技というのは打撃技、投げ技、関節技などが認められている、相当に荒っぽい競技であるはずだった。幼い頃の記憶であるので定かではないのだが、倒れた相手の上に馬乗りになって殴りつける、そんな殺伐としたシーンがうっすらと記憶に残っている。
「それじゃあ、さっそく突撃しよー! まだ午後の二時にもなってないけど、誰かしらは来てると思うんだよねー」
笑顔の柚子に導かれて、重い足取りでガラスの扉をくぐる。
玄関先で靴を脱ぎ、無人の受付台を通過して、さらに古びた扉をくぐると───思いの外に立派なトレーニングジムの様相があらわになった。
かなり広い。レオナの実家の道場よりも広いぐらいだろう。二世帯の居住スペースをぶちぬきにしたぐらいの坪面積だ。
その右側にはテレビでよく見る巨大なリングが据えられており、逆側の壁にはボクシンググローブやパンチングミットや見覚えのない防具らしきものどもなどがどっさりと準備されている。部屋の奥に見えるのは、年季の入ったサンドバッグだ。
そして室内には、どれだけ換気しても消し去ることのできない汗と熱気と執念の残滓みたいなものが漂っていた。
レオナにとっても馴染みの深い、ただし二ヶ月ほど前に自分の人生から切り捨てた、それはまぎれもなく心身の鍛錬のためだけに存在する空間であった。
「よお、柚子じゃん。今日はずいぶん早い登場だな」
と、リングの上でステップを踏んでいた人物が、こちらに気づいて声をかけてきた。
明るく染めた髪をきゅうきゅうに引っ詰めた、二十になるならずの女性である。この時間、このだだっ広いジムで稽古に励んでいるのは彼女ひとりであるようだった。
「押忍、お疲れさまです、カズっち先輩! 先輩こそずいぶん早いですね?」
「あー、トラさんたちはトンチャイの店でダベってんよ。アタシはちっとでも自主練しておきたかったから、一足先に戻ってきたんだ」
「リハビリが終わったばかりなんですから、あんまり無理はしないでくださいねー?」
「へん、アンタに心配されるようじゃあ、アタシも老い先短いな」
憎まれ口を叩きながら、その人物がリングを下りてくる。
若いが、なかなか勇ましい顔つきをした女性である。
タンクトップにハーフパンツ、拳には白いバンテージ、それに左の膝だけに黒いサポーターを巻いている。
一見はスレンダーなシルエットであるが、剥き出しになった腕や足にはしっかりと筋肉がついており、なおかつ革鞭のように引き締まっていた。
「で? そっちのでけえのは何者だよ? ずいぶん目つきの悪いジョシコーセーじゃねえか」
確かに身長はレオナのほうが十センチばかりも上回っていたが、体重はそちらが上回っているぐらいだろう。
何にせよ、身長がどうのと取り沙汰されるのはもううんざりな心境のレオナである。
「こちらはなんとジムの見学者ですよ! クラスメートの九条レオナさんです。九条さん、こちらはMMA部門の先輩で
「まだ入門もしてない部外者にけったいな仇名を広めてんじゃねえよ」
鼻の頭にしわを寄せながら、伊達和樹なる人物はじろじろとレオナをねめつけてくる。
「トラさんたちは、何時頃に戻ってきますかー? できれば無料体験入門をさせてもらいたいなって思ってるんですけど」
「どうだろうな。例の企画のミーティングでもしてるんだろうから、まだしばらくは戻ってこないかもしんねえな。ま、コーチ連中の真似事ぐらいならアタシでも十分だろ。……本当に、そいつにやる気があればの話だけどよ」
そう言って、いっそう非友好的に両目を光らせる。
幸いというべきかどうなのか───レオナは、まったくこの伊達和樹という人物に歓迎されていないようだった。
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