04 力試し
翌日も、レオナの溜息が止まることはなかった。
感情のままに行動したのち理性を取り戻してしまったのだから、このような煩悶を抱え込むことになるのも自然の摂理なのだろう。転入三日目の教室の中で、レオナは溜息をつき続けていた。
(あたしはまず、考えなしに行動するこの性格を矯正しなくちゃならないんだろうなあ)
そんなことを考えながら教科書を片付けていると、隣の席から柚子が「ねえねえ」と声をかけてきた。
こちらはもう、輝かんばかりの笑顔である。
「今日もお昼は食堂なのかな? だったら、一緒に移動しない?」
レオナは、横目でその笑顔をにらみ返した。
「遊佐さん、私は勢いであのジムに入門してしまいましたが、それを学園内でおおっぴらにするつもりは毛頭ないんです」
「うん、もちろんそれはわかってるよ? 絶対誰にも言わないってば!」
柚子は本当に、心の底から幸福そうな表情をしていた。
伊達を病院送りにしてしまったレオナが入門を願い出たというのに、わだかまりなどは生じないのだろうか? レオナにはやっぱり理解のできない精神構造をしているらしい。
しかしレオナとしても、学園内でまでこの素っ頓狂な娘と馴れ合うつもりはなかった。
「……遊佐さん、あなたはそのように全身が生傷だらけです。そんなあなたと学園内で交流を深めていたら、いずれ私の行動まで露見してしまうとは思いませんか?」
「えー? 大丈夫じゃない? 実はあたしもわけあって『シングダム』に通ってることは学校で秘密にしてるから。この傷は、階段から落ちたとか自転車で転んだとか、いっつも適当に言い訳してるんだよー?」
「そうだとしても、あなたはこの学園内で悪目立ちをしているように見受けられます。私は人目を集めずに、平和な学園生活を営んでいきたいのですよ」
「えー、だけどさあ」と言いかけてから、柚子はぴたりと口をつぐんだ。
そのくりくりとした大きな目は、レオナではなくその後方に向けられている。
「……そうだね。九条さんの言う通りかもしれないや。じゃ、また後でね?」
「え?」とレオナが驚いている間に、柚子は席を立って教室から出ていってしまった。
一瞬考え込んでから、レオナは後方を振り返る。
教室の隅に固まっていたクラスメートたちが、それでいっせいにレオナのほうへと近づいてきた。
「九条さん、今日もお昼は食堂ですか?」
その先頭に立っていた黒縁眼鏡のクラス委員長、
「はい」とうなずいてみせると、亜森は満足そうに目を細めた。
「それなら、わたしたちとご一緒しませんか? ちょっとお話ししたいこともありますし」
「私に、話ですか?」
「いえ、そんな大した話ではありません。ただ、あなたともっと交流を深めたいなと思っていただけなんです」
相変わらず内面の読みにくい少女であった。
しかしべつだん嘘をついている様子でもないし、レオナの側に断る理由はない。亜森と、まだ名前を覚えきれていない三名のクラスメートとともに、レオナは五号館の食堂へと向かうことになった。
食堂では日替わりのセット料理と、それにさまざまな単品の料理が販売されている。レオナはちょっと考えたすえ、Bコースの照り焼きチキンステーキのセットをチョイスすることにした。
購買部で買っておいたチケットを支払い、亜森らとともに窓際の席に移動する。体育館なみに広大な食堂は、本日も八割がたの席が埋まっていた。
「九条さんが転入して、今日で三日目となりますね。そろそろ学園の雰囲気にもなれてきた頃でしょうか?」
Aコースのカレイの和風ムニエルをついばみながら、亜森はそのように問うてきた。
「そうですね。ひと通りの授業を受けてみて、予習してきた内容とズレがないことは確認できたので、ようやく少しだけ安心できました」
「九条さんに限って、そのような心配は不要でしょう。……それに九条さんは勉学だけでなく体育の成績も優秀なのですね」
レオナは、ギクリと身体をすくませる。
本日の二時限目は体育の授業で、バスケットボールのミニゲームをすることになってしまったのだ。
なかなか巧みにボールを操る選手が相手チームにいたので、レオナも心置きなくプレイすることができたのだが───後から聞いた話によると、その生徒は何と一年生にしてレギュラーの座を獲得した期待の新鋭選手であったのである。
「わたしは運動が不得手なので、とても羨ましく思います。文武両道というのは素晴らしいものですね」
「い、いえ、あれは……たまたまです。相手の方も、きっと手加減してくれていたのでしょう」
「いえ、彼女はゲームの後、呆然としていましたよ。中等部ではバスケ部のキャプテンとして活躍していたらしいので、それも当然のことだと思います」
ワカメの味噌汁を上品にすすりつつ、亜森はそう言った。
「それで、ご相談があるのですが───九条さん、わたしと同じ部に入部していただけませんか?」
「え? 亜森さんもバスケ部なんですか?」
「いえ、わたしは茶道部です。バスケ部に勧誘されてしまう前に声をかけようと思ったまでですよ」
そのように言って、亜森はにこりと優雅に微笑む。
「わたしは中等部の頃から茶道部に在籍していました。九条さんにも茶道の素晴らしさを知ってほしいと思ったのですけれど、如何でしょう?」
「いえ、私は……すみません、部活動に参加するつもりはないんです」
「そうなのですか? 運動部に入部しようというおつもりでもなく?」
「はい。油断をすると成績を落としてしまいそうなので、部活動に参加している余裕はないんです」
なおかつレオナは、『シングダム』に入門を申し入れてしまっている。
この上、学校の部活動にまで参加していたら、本当に眠る時間もなくなってしまうだろう。レオナの頭でこの弁財女子学園の授業についていくには、それ相応の努力が必要となるのである。
「そうですか……とても残念です。でも、無理強いすることはできませんものね」
亜森の顔から微笑が消える。
機嫌を損ねてしまったかな、とレオナは胸をどきつかせながらダイコンとミニトマトのサラダを口に運んだ。
「……そういえば、もうひとつお話がありました。九条さんには、余計な差し出口と思われてしまうかもしれませんが、聞いていただけますか?」
「はい、何でしょう?」
「遊佐さんとは、あまり交流しないほうがいいと思います」
口の中身を呑み込んでから、レオナはあらためて亜森の顔を見つめ返した。
「何故ですか? 理由があるなら、聞かせてほしいです」
「理由ですか。理由は……彼女がいちじるしく風紀を乱す存在であるからです。それはもう、九条さんにも感じ取れていることなのではないでしょうか?」
レオナは用心して、コメントを差しひかえた。
その沈黙をどう取ってか、亜森の口調はますます冷たくなっていく。
「彼女はこの学園の理事長の娘さんなのです。その特権をかさにきて、彼女は弁財女子学園の生徒にもあるまじき奔放なふるまいに及んでいます。昨日だって、理由もなしに遅刻をしてきたではないですか?」
「……理由は、ないのでしょうか?」
「知りません。でも、少なくとも身体のお加減が悪いようには見えませんでした。……いったい何に取り組んでいるのか、いつでもあのように生傷だらけではありますけれど」
冷たく言い捨てて、亜森は眼鏡の奥の目を光らせる。
名も知れぬクラスメートたちは、それに同意するようにうんうんとうなずいていた。
「何にせよ、彼女に近づくのはよくないことです。もしもあちらのほうから近づいてきて九条さんを困らせるような事態になってしまったら、ご遠慮なくわたしたちに相談してください」
「……きっと大丈夫だとは思いますけど、お心づかいはありがたく思います」
レオナとしては、そんな風に答えることしかできなかった。
確かに柚子は、変わり者の部類だろう。弁財女子学園の生徒としては、色々と不適格な部分を持っているに違いない。
ただ───亜森の言葉は、どこかしっくりこなかった。
レオナ自身も柚子には苦手意識を持っていたが、それは亜森の持つ反感とは根を別にしているような気がしてならなかったのだった。
◇◆◇
そしてまた放課後である。
別々に学校を出た柚子と西荻窪の駅で合流したのち、レオナは四たび『シングダム』に向かうことになった。
更衣室でトレーニングウェアに着替え、景虎の前に立つ。
男のように厳つい風貌をした景虎は、今日もにこやかに笑っていた。
「いやあ、本当に入門してくれるんだねえ。あたしは嬉しく思ってるよ、九条さん?」
「……はい。よろしくお願いいたします」
「親御さんにも連絡は取れたし、入会費やら何やらも昼間の内に入金してくれたらしい。あとは昨日渡した書類を提出してもらって、それに生徒手帳のコピーを取らせてもらえば入門の手続きは完了だね」
レオナは言われた通りのものを景虎に差し出した。
それから、「あの」と心配になって呼びかける。
「個人情報というものは、きちんと守っていただけるのですよね?」
「うん? そりゃあもちろん。最近はそういうことにもうるさくなってきてるからねえ。なんも心配はいらないよ」
「その書類や生徒手帳のコピーなんかは、誰と誰の目に触れることになるのでしょう?」
「そりゃあ、中身を確認するあたしと会長ぐらいかね。あとは鍵つきのロッカーに放り込んでおくから、心配はいらないって」
「そうですか……あの、くれぐれも他言無用でお願いします」
この段に至って、ついに景虎の顔にもいぶかしげな表情が浮かんでしまった。
「いったい何をそんなに心配してるんだい? あたしのお粗末な記憶力じゃあ、住所の番地や電話番号を暗記したりなんてできないよ?」
「いえ、住所についてはどうでもいいのですが……私の名前について、特に情報が漏洩しないよう取り計らってほしいのです」
「名前? 名前がいったい何だってのさ? まさか偽名を使ってるわけじゃあるまいね?」
ますますけげんそうに景虎が首を傾げたとき、ずっと無言でにこにことしていた柚子が「あ」と声をあげた。
「名前といえば、九条さんの名前ってかっちょいーね? なんか、すっごく強そうな感じ!」
レオナは反射的に、柚子につかみかかることになった。
「遊佐さん! あなたはどこでそれを目にしてしまったんですか!?」
「ど、どこって? 教室のクラス名簿で確認しただけだけど? レオナって珍しい名前だから、いったいどういう漢字なのかなーって気になっちゃってさ」
クラス名簿。
そんなものが教室に無造作に置かれているのかと、レオナはそのまま崩れ落ちそうになってしまった。
「ふむ、確かにこいつは強そうな名前だね」
生徒手帳を広げた景虎がそのように述べてきた。
そこにはレオナの本名が───漢字で正しく『九条烈王那』と記されているはずだった。
「……父親が馬鹿なんです。そんな名前、私は大嫌いです」
「いい名前じゃないか。あたしは好きだけどねえ」
そのように言ってから、景虎はにっと白い歯を見せてきた。
「だけどまあ、あたしもアキラなんて名前で、おまけにこんな顔だからさ。子供の頃なんて、そりゃあ馬鹿どもにオトコ女なんて囃し立てられたもんだよ。別に自分でつけた名前でもないのにねえ」
「本当です。本当に理不尽な話です。心中お察しいたします」
勢い込んでレオナが言うと、景虎はおかしそうに笑い声をあげた。
「あんた、なかなか可愛らしいところもあるんだね。……で、大嫌いなのはこの漢字だけなのかね? レオナっていう言葉の響きは綺麗でいいじゃないか?」
「読み方はどうでもかまいません。ただこの馬鹿げた漢字の並びにうんざりさせられるだけです」
「そりゃあよかった。うちらは割と下の名前で呼び合うことが多いからさ。この先そうなってもあんたのトラウマを刺激せずに済むなら何よりだ」
そのように言ってから、景虎はリングの上で練習に励んでいたジム生たちを「おーい!」と呼びつけた。
それでリングから下りてきたのは、昨日も顔を合わせた二名の女子ジム生である。現在このジム内には、レオナたちを合わせて五名の人間しか存在していなかった。
「今日から正式にうちの門下生になることになった、九条レオナさんだ。色々ややこしい経緯はあったけど、おたがい仲良くやるんだよ?」
片方は笑顔であり、片方は仏頂面である。
景虎は苦笑して、その仏頂面のほうの頭をぽんぽんと叩いた。
「こっちもきちんと紹介しておかないとね。このちっこいのは、
アマチュアのムエタイ世界王者というのがどういうものなのか、レオナにはまったくピンとこない。
ただ、柚子よりも小柄で華奢なこの少女がそんなたいそうなものを保持しているのには、少なからず驚かされた。
「で、こっちは
「はーい、一児の母で二十八歳です。昨日のたー坊もキッズクラスの門下生だから、顔を合わせる機会があったら可愛がってあげてね?」
こちらは昨日と同じように、とても柔和で穏やかな微笑みをたたえていた。
身長は、百六十センチに少し欠けるぐらいであろうか。すらりとしていて、なおかつ女性らしいしなやかなプロポーションをしている。
「この二人はキック部門で、あたしと柚子がMMA部門だ。入門しちまえばどの練習に顔を出してもオッケーだけど、あんたの所属はMMA部門ってことでいいんだよね?」
「はい、それでお願いします」
「嬉しいねえ。キック部門には他にも大勢の女子ジム生がいるんだけど、MMAのほうはカズを合わせて三人こっきりだったんだよ。男だったら、MMAのほうが多いぐらいなんだけどさ」
「はあ……それで、今日は女子ジム生の練習日なのですか?」
「いんや? 夜の七時までは自由練習の時間なんだよ。昨日はこの時間でもぼちぼち人が集まってたけど、基本的にはみんな仕事や学校を抱えてるからね」
そういえば、昨日手渡されたパンフレットにもそういった練習スケジュールが記載されていたような気がする。
週に二回は夕方にキッズクラスの練習時間があったはずであるが、今日も昨日もその曜日に該当していなかったのだ。
そして、夜の七時以降は一時間刻みで「MMA」「キック」「柔術」「フィットネス」などの講習で埋め尽くされていた。まるで学校の時間割みたいだな、とレオナは改めて羽柴塾との相違を思い知らされたのである。
「で、あたしや晴香なんかは昼下がりまでの仕事だし、柚子や乃々美なんかは学生さんだから、この時間帯はわりとこのメンバーでジムを独占できるってわけさ」
「景虎さんはプロ選手で、しかもこのジムの指導員であるともうかがっていたのですが、昼間は別の仕事をされているのですか?」
「そりゃあこのジムの給料とファイトマネーだけじゃ食べていけないからね。朝から昼までは工場で働かせてもらってるのさ」
「なるほど」とレオナが相づちを打ったとき、それにかぶせるようにして乃々美が「もういいかなあ?」と不機嫌そうな声をあげた。
「こっちは追い込みの最中だったんだ。そんなやつに関わってるヒマはないんだよね」
「追い込みって、試合は二ヶ月後じゃないか? 今からそんなにトバしてたら、身体がもたないよ?」
「ふん! 誰かさんのせいで副将戦は不戦敗になっちゃったんだ。だったらその分は僕たちが頑張るしかないじゃん」
そのように言い捨てて、乃々美はレオナたちに背を向ける。
「僕」という一人称にも驚かされたが、それ以上に聞き逃せない言葉があった。
「二ヶ月後の試合というのは、例の対抗戦というやつのことですね? みなさん、それに出場されるのですか?」
「ああ、そういえばちょうどこの四人が参加メンバーだね。MMAが三試合、キックが二試合で、五対五の対抗戦だったんだよ」
そのうちの一戦が、伊達の負傷により不戦敗になってしまうわけだ。
レオナはひとつ深呼吸してから、景虎に向きなおった。
「あの、どうか怒らずに聞いてほしいのですが」
「うん、何だい?」
「……その対抗戦というやつに、私も参加させていただけませんか?」
リングのほうに足を踏み出しかけていた乃々美が、ぴたりと動きを制止させる。
その小さな顔が、深甚なる怒りをたたえてレオナのほうをゆっくり振り返った。
「あんた、何言ってんの? つまんない冗談はやめてほしいんだけど」
「冗談ではありません。私は伊達さんを怪我させてしまったので、そのけじめをつけたいのです」
「ふざけないでよ! あんたなんかに伊達の代わりがつとまるわけないじゃん!」
大きな声でわめきながら、今度は身体ごとレオナに向きなおる。
「あんた、いったい何様のつもりなの!? 伊達を怪我させておきながら、のうのうと入門したいなんて言い出して、あげくの果てに、今度は試合に出させろって? ふざけたことを言うのもほどほどにしてくれない?」
「私は本気です。そうしないと、私も気持ちに収まりがつかないのです」
「あんたの気持ちなんて知ったことじゃないよ! 汚い反則技で伊達に怪我をさせたくせに───!」
「乃々美、そいつは言いっこなしって何べん言ったらわかるんだい?」
野太い声で、景虎が乃々美をさえぎった。
それから、レオナを強い目で見返してくる。
「九条さん、あんた、そんなことを考えてうちに入門してきたのかい? だったらそいつは、お門違いってもんだよ?」
「お門違い? 何故ですか?」
「だって、あんたは喧嘩両成敗って言い張ってたじゃないか? だったら、あんたがそんなことにまで責任を感じる必要もないはずだろ?」
「責任の話ではありません。私はただ、自分の行動にけじめをつけたいだけなのです。自己満足と思ってもらって、いっこうにかまいません」
「ふうん、そうかい」と、景虎は逞しい腕を胸の前で組んだ。
景虎は、乃々美のように感情を乱したりはしていない。ただその瞳は別人のように厳しい光をたたえてレオナを見つめている。
「それじゃあまあ、『シングダム』の指導員として、あたしもきっちり答えさせてもらうけど───そんな話は、了承できないね」
「何故ですか?」
「それはあんたが、入門したてのひよっこだからさ。いくら空手の経験者でも、MMAは素人だ。そんな人間にカズの代わりはつとまらない」
「でも、試合までには二ヶ月あるのでしょう? それまでにルールを把握して、戦力になれるよう励みます」
「無理だよ。同じ格闘技でも、他の競技に挑むってのはそんなに簡単な話じゃないんだ。カズはあれでもキックを三年間、MMAを一年間、みっちり稽古を積んできたんだ。その一年を、たった二ヶ月で埋められると思うかい?」
「だけど私は───」
「ああ、きっとあんたはもっと長い期間、空手の稽古に打ち込んできたんだろうね。そうだとしても、ルールの違う競技に挑むってのは並大抵じゃないんだよ」
厳しい眼差しのまま、景虎はそのように言いつのる。
「で、対戦相手も当然カズと同じぐらいのキャリアなんだからさ。そんな相手にこんな新米選手をぶつけたら、それこそ仁義を踏みにじることになっちまうんだよ。ただでさえ、こいつはジムの威信をかけた対抗戦なんだからね。あんた一人の気持ちのために、そんな不義理をはたらくわけにはいかないのさ」
「……どうして私の力量も測らずに、そんなことを断言できるのですか? 伊達さんとの組手ではルールを把握していなかったので何の参考にもならないかもしれませんが、私の持つ羽柴塾の技術がそのMMAという競技に適応する可能性だってあるはずじゃないですか」
景虎は何かを言いかけたが、途中でやめて「ふむ」とうなった。
「そういえば、あんたの流派では投げ技が認められてたんだよね。羽柴塾の空手ってのは、いったいどういうルールだったんだい?」
「ルールはありません。……いえ、ひとつだけしかありません」
「ひとつだけ?」
「はい。なるべく相手に怪我を負わさずに制圧する。それが唯一のルールです」
景虎は、いっそう難しい顔になってしまった。
「そいつは何となく、ブラジリアン柔術みたいなお題目だね。でも、羽柴塾は柔術じゃなく空手なんだろう?」
「はい。正式には、羽柴流徒手格闘術道場と名乗っていましたが」
「ふうん、それじゃあやっぱり根底にあるのは護身術なのかな……ちなみに、羽柴塾には寝技なんてのは存在するのかね?」
「寝技ですか? いえ、相手を寝かせても、基本的には打撃技で制圧することになります」
「うーん、なかなかつかみどころのない流派みたいだねえ」
景虎は組んでいた腕をほどき、がっしりとした下顎を指先で撫でさする。
「そうまで言うなら、ちょいとあんたの持つ技術ってやつをお披露目してもらおうか。ただし、ガチガチのルールで縛らせてもらうけど、それでもかまわないかね?」
「はい。それで私の力量を測っていただけるのなら」
「よし、それならお相手は───柚子、あんたにお願いするよ」
「ええ? あ、あたしがですが?」
仰天したように、柚子はレオナと景虎の顔を見比べる。
もちろんレオナもそれと同じぐらい仰天することになった。
「あたしが確認したいのはグラウンド状態での適応力だからね。だったら、あんたが適任だろ? ルールはいつものグラップリング・ルールでかまわないよ」
「はあ、あたしのほうはかまいませんけど……」
と、柚子は困惑気味にレオナを見つめてくる。
困惑はしているが、異論はないらしい。きっと指導者としての景虎を信頼しているのだろう。
「グラップリング・ルールってのはね、いわゆる組み技と寝技だけの攻防だよ。打撃攻撃は一切禁止、相手の髪や衣服をつかむのも、指に対する関節技も禁止。目潰しや噛み付きや引っかきも当然禁止。投げ技で相手を頭から落とすのも禁止。あとは───特別ルールとして、相手に怪我を負わせるのも禁止ってことにさせてもらおうか」
「ちょっと待ってください。それじゃあいったいどうやって相手を制圧するのですか?」
レオナが問うと、景虎はひさかたぶりに笑みを浮かべた。
「そいつがグラップリングの醍醐味さ。あんたはね、柚子に制圧されないように頑張ってくれればそれでいいよ。スパーだから、勝ち負けもない。危険と感じたらあたしがストップをかけるから、そうしたらまた最初からやりなおしだ。これであんたがどれぐらい制圧されずに済むか、そいつを確認させておくれよ」
「……わかりました」
つまり、レオナはひたすら逃げに徹すればよいということだ。
それならば、体力の続く限り、逃げまどうしかない。
「それじゃあ、入念にウォーミングアップしておいてもらおうか。……言っておくけどね、あんたのスポーツ保険が適用されるのは明日からだから、万が一にも怪我をしちまったら、あたしが全額負担することになる。あたしを餓死させないように、せいぜい気をつけておくれ」
そうしてレオナは、柚子と組手をすることになってしまった。
場所はリングでなく、いくぶんやわらかいマットの敷かれた床の上である。
審判役の景虎が中央に立ち、それをはさんで柚子と向かい合う。乃々美と晴香は少し離れた場所でそれを見物する格好だ。
こちらは逃げるのみなので、相手の心配をする必要もないのだろうが───あらためて向かい合ってみると、やはり小さい。頭ひとつ分も小さな相手と組手をするなんて、レオナにしてみても人生初の体験であった。
「よろしくお願いします」
と、柚子が両手を差し出してくる。
同じ言葉を返しながら、レオナは申し訳ていどにその指先に触れた。
柚子の手は、子供のように温かかった。
「よし、時間は三分間だよ。……始め!」
景虎の掛け声とともに、柚子がすっと腰を落とす。
レオナから見れば不自然なぐらいの低い体勢だ。
しかし、打撃技が禁止ならば顔を蹴られる心配はない。きっとこれがグラップリング・ルールとやらの基本姿勢なのだろう。
(そういえば、衣服をつかんじゃいけないなら、柔道よりレスリングに近いってことか)
レスリングの試合ならば、オリンピックの中継で目にしたことがある。
相手に組み付いてマットに引き倒し、抑え込む。それで柔道のような絞め技や関節技を用いれば、相手を制圧することも可能になるのだろう。
(なるほどね)と内心で思いながら、レオナも心持ち体勢を低くした。
ただでさえ身長差がものすごいので、いつもの直立の姿勢だと簡単に胴体へと組みつかれてしまいそうな気がしたのだ。
(確かに総合格闘技ってやつも、殴る蹴るだけじゃなくて相手に組みついたりしてたもんな。……ただ、関節技とかよりは馬乗りになってボカスカ殴りつけてたような印象が強いけど)
何にせよ、レオナとしては逃げ回るだけだ。
そのように考えたとき、柚子が一息でレオナの懐に飛び込んできた。
(えっ!)
反射的に膝蹴りで撃退しそうになり、レオナは全身全霊でその動きにブレーキをかけることになった。
その間に両足を抱え込まれて、あっけなく尻餅をつかされてしまう。
慌てて立ち上がろうとしたが、その前に柚子が上半身にのしかかってきた。
背中をべったりとマットにつけさせられて、咽喉もとを前腕でぐいぐい圧迫される。それだけで、肺に入ってくる酸素が激減した。
(くそっ! 何だってんだよ!)
両手を相手の前腕に掛けて、なんとか圧迫から逃れようと試みる。
呼吸は少し楽になったが、それでも執拗に体重をかけてくるので、下顎のあたりが痛かった。
路上の喧嘩か羽柴塾の組手なら、相手の顔を殴るなり、鼻や口に指先を引っ掛けるなりして、難を逃れることもできただろう。しかし、がんじがらめのこのルールでは、ひたすら力まかせに押し返すしかすべがない。
だが、レオナがどれほど力を込めようとも、柚子の小さな身体はびくともしなかった。
(見た目よりは重いし、力もあるんだな)
痛みというよりは他者にのしかかられている圧迫感に、不快指数が上昇していく。
少しばかり気が引けたが、レオナは左手を柚子の下顎にかけて、身体を突き放すことにした。
石のように重かった柚子の身体が、ようやくじわじわと浮き上がっていく。
そうしてレオナの左腕が完全にのびきったとき───柚子は首を振ってレオナの指先から脱出し、左脇に頭を潜り込ませてきた。
そのまま左腕ごと首を抱きすくめられて、さきほど以上に咽喉もとを圧迫されてしまう。
柔道の、肩固めという技だ。
呼吸が苦しいばかりでなく、頸動脈の血流を止められてしまっている。
レオナがどんなにもがいても、その拘束はまったく揺るがない。むしろもがけばもがいた分だけ、いっそう柚子の腕は深くレオナの咽喉もとに食い入ってくる。
そうしてレオナの意識がすっと明瞭さを失いかけたとき、「そこまで!」という景虎の声が響きわたった。
「まずは一本だね。大丈夫かい、九条さん?」
「……はい」
身体を起こすと、至近距離から柚子がレオナの顔を覗き込んできた。
申し訳なさそうな、とても心配そうな面持ちである。
乱れた前髪をなおしながら、レオナは無言で立ち上がった。
「ざっと二十秒ってところか。あと二分四十秒、いけるかい?」
「もちろんです」と、レオナはうなずいてみせた。
しかし、柚子の猛攻はここからが本番であった。
二本目も、同じように両足に組みつかれて、強引に立ち上がろうと背を向けたところで、後ろから首を締められてしまった。
三本目は、レオナもさらに体勢を低くして相手の素早さに備えたのだが、今度は横合いに回り込まれて片足をすくいあげられ、上を取られたあげく、腕ひしぎ十字固めを極められてしまった。
殴ったり蹴ったりという行為を禁じられてしまうと、どうしても最終的には組みつかれてしまうのである。
だったらこちらから組みついて、力で押し倒してしまえばいいのかと思い至り、四本目ではレオナのほうからつかみかかることにした。
が、レオナが両肩をわしづかみにすると、こちらが力をこめるより早く、柚子は自分からすとんと座り込んでしまった。
そうして両足でレオナの右足をはさみこみ、腕で左足を払ってくる。
レオナもけっきょくマットに倒れ込み、逃げる間もなく右のかかとをねじりあげられてしまう。
後から聞いた話によると、それはかかと固め、英語で言うならヒールホールドという関節技であるとのことであった。
「二分経過。残り一分だね」
立ち上がり、五たび柚子と向かい合う。
その頃には、レオナも肩で息をする状態になってしまっていた。
いっぽう柚子は、軽く汗ばんでいるていどである。
レオナは全力で動いているのに、柚子はほとんど力を使っていないのだ。力ではなく、技術でレオナをやりこめているのである。
「そろそろスタミナの限界かな? 判断能力が鈍ると怪我のもとだから、ここまでにしておこうか」
景虎の無情な声に、レオナは首を横に振ってみせる。
「あと一本……あと一本だけ、お願いします」
景虎の返事を待つまでもなく、柚子はすでに腰を落としていた。
その顔は、もはや心配そうにも申し訳なさそうにもしていない。ひたすらに、真剣そうな表情だ。
どちらかといえば幼げな容貌であるのに、見違えるほど凛然とした面持ちである。
そして、その色の淡い瞳だけが、明るくきらきらと輝いていた。
(……本当に、こんな取っ組み合いが楽しくてしかたがないんだな、あんたは)
荒い息をつきながら、レオナはぴんと背筋をのばす。
左足を軽く前に出し、前でかまえていた腕は下に下ろす。
普段の組手の、自然体だ。
相手に合わせて、体勢を低くしていたのが間違いであった。
普段通りの姿勢でいないと、普段通りに動けるはずもない。そんなことを失念してしまうほど、レオナは相手の土俵に乗せられてしまっていたのだった。
柚子は用心深そうに目を光らせながら、レオナの左手側に回り込んでこようとしている。
レオナがあまりに無防備すぎて、何を企んでいるのかとあやしんでいるのだろう。
その警戒心を打ち砕くために、レオナは大きく右足を踏み出してみせた。
ほんの一瞬ためらってから、柚子はその右足につかみかかってくる。
伊達に劣らず、鋭い踏み込みである。
やはり身体が小さい人間は、背負っている体重が少ない分、素早く動くことができるのだろうか。おそらくは彼女たちよりも過酷な鍛錬を積んでいるであろうと思われる羽柴塾の門下生にだって、伊達や柚子ほど鋭く動ける人間はそうそう存在しなかった。
しかし、決してレオナに対応できないスピードではない。
レオナは残存していた力をかき集めて、可能な限り意識を集中していた。
レオナの右足に、柚子の両腕がのびてくる。
その指先に膝裏をつかまれるぎりぎりのタイミングで、レオナは下半身だけを後方に跳ね上げた。
それと同時に柚子の肩をつかみ、残した上半身で下方に押しつぶす。
腕の力だけでは足りないだろう。腹を相手の後頭部に押しつけて、全体重でプレスした。
柚子は前のめりでマットに両手をつき、レオナは相手の背中にのしかかる。
だけどきっと、このままでは胴体か腿のあたりをつかまれてしまうに違いない。
レオナは呼吸をするひまもなく、自分の腹を支点にしてコマのように横回転した。
完全にバックを取った格好になる。
柚子がこちらに向き直ろうとしているのが、皮膚感覚で伝わってきた。
そうはさせじと、相手の胴体を両足ではさみ込む。
腕は、相手の咽喉もとだ。
すると柚子は、亀のように丸くなってしまった。
自分の頭を抱え込むような格好になっているので、これではレオナの腕をねじこむスペースがない。
だからレオナは、両足を相手の両腿に引っかけて、おもいきり身体をのけぞらしてやった。
柚子の身体が真っ直ぐにのび、腹がべったりとマットにつく。
それからレオナは、相手の頭と肩の隙間から、強引に右の腕をねじこんだ。
しかし柚子はぴったりと下顎を引いているために、咽喉を捕らえることはできない。
かまうものかと、レオナは自分の左肘の内側をつかみ、余った左の前腕は相手の後頭部に回した。
そうして、下顎ごと柚子の首を引き絞ろうと力をこめかけたところで───「そこまで!」と肩をつかまれた。
「一本だ。時間もちょうど三分だね。お疲れさん」
レオナは柚子の身体を解放し、そのまま大の字にひっくり返った。
咽喉が痛い。肺も破けそうである。呼吸を止めていたのはほんの数秒であったはずなのに、全身が酸欠状態に陥いってしまったかのようだった。
「チョークスリーパーじゃなくフェイスロックになってたけどね、あのままだと柚子の首をへし折られそうだったから止めたんだ。……不満かい、柚子?」
「いえ! あの段階でもう下顎が外れそうになってました!」
元気いっぱいの声が響くと同時に、柚子の笑顔が視界に割り込んでくる。
みっともなかったが、レオナはぜいぜいと息をつくだけで声を発することもできなかった。
「びっくりしたよ! まさかあんなスピードでバックに回られちゃうとは思ってもみなかった!」
「その前のバービーもタイミングばっちりだったね。大した反射神経だ」
と、景虎の笑顔も登場する。
「バ……」
「うん、何だい?」
「バービーって……何ですか……?」
「タックルから逃げるために両足を引く動作のことさ。何だい、知っててやったわけじゃないのかい?」
「わかりません……無我夢中だったので……」
「それじゃあ最後のフェイスロックは? まるで教本みたいに綺麗な入り方だったけど」
「あれは……遊佐さんの動きを、真似しただけです……」
「なるほどね。二本目でチョークを取られたお返しってわけか。見よう見まねでよくそこまで動けるもんだ」
どうしても立ち上がる力は振り絞れないまま、レオナは景虎の笑顔を見つめ返した。
「やっぱり……私に見込みはありませんか……? 四本取られて、一本しか返すことはできませんでした……」
「うーん」と景虎は腕を組む。
「そうだねえ……正直言って、本当に寝技は素人なんだなってことしか確認できなかった。今のまんまじゃあ、誰とやりあってもまともな試合にはなりそうにないね」
「……そうですか……」
「ただ、最後の一本だけはお見事だったね。まるで野生の動物が死に物狂いになってるみたいで、背筋がぞっとしちまったよ」
そう言って、景虎は愉快そうに笑い声をあげた。
「ということで、結果は保留にさせてもらう。試合までには二ヶ月あるから、それまでの成長具合いでもういっぺん考えさせていただくよ。たぶん会長も、あたしとおんなじことを言うだろうさ」
レオナは大きく息をついた。
そこで、ぺたりと両方の頬に手の平を押しあてられる。
柚子の顔が逆さまの状態でレオナに接近してきた。
「九条さんって、やっぱりすごいね! これから一緒に頑張っていこうね?」
淡い鳶色の瞳がきらきらと光って、とても綺麗だった。
とりたてて返す言葉も思いつかなかったので、レオナは無言でまぶたを閉ざす。
いまだ酸素が足りていないので、頭はちっとも回らなかったが───とりあえず、溜息をつきたくなるような気分ではなかった。
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