ACT.2

01 画面の中の好敵手

 巨大な液晶テレビの画面上で、二名の女子選手が熱闘を繰り広げている。

 その内の一名が、二ヶ月後のイベントで伊達と対戦が予定されていた服部はっとりまどかという選手であった。


「この服部選手っていうのはね、もともと柔道の選手だったんだって。中学時代には全国大会に出場するぐらいの実力者だったんだけど、高校に入ってすぐに何か問題を起こして退学になっちゃったらしいんだー」


 柚子の解説に、レオナは「なるほど」とうなずいてみせる。


「確かに気性の荒そうな風貌をしていますね。体格もなかなかのものですし」


「そうだねー。で、一年ぐらいはフラフラしてたらしいけど、去年になっていきなりMMAの選手として活動し始めたの。現時点での戦績は四勝一敗で、これは今年の春の最新映像ね」


 それは家庭用のビデオカメラで撮影された映像であるようだった。

 どこか広い体育館のようなところで、舞台はリングでなく薄いマットを敷かれただけのものである。白いポロシャツを着た審判や、パイプ椅子に陣取った副審なんかは、それこそ柔道の試合を思わせるたたずまいであった。


 会場には何面かの試合舞台が整えられているのだろう。服部選手たちの向こう側には、同じような格好で取っ組み合っている男子選手たちの姿が小さく見える。

 壁際には観客たちがずらりと立ち並び、それぞれの目当てである選手たちに声援を送っているようだ。


 そんな中で、服部選手は名も知れぬ女子選手とやりあっていた。

 戦況は、見るからに服部選手が優勢であるようだった。

 試合開始の直後から左右のフックを連打して、相手選手を追い詰めている。一発でもクリーンヒットしたら勝敗が決してしまいそうな、いかにも重たそうな攻撃だ。


 両者はともに、ヘッドギア、膝あて、すねあての防具を着けている。

 さらに拳に装着されているのは、指先の露出しているオープンフィンガーグローブだ。

 投げ技や関節技の認められているMMAという競技においては、このグローブを装着するのが主流であるらしい。


『足を使え! 懐に潜り込ませるな! スピードだったら、お前のほうが上だ!』


 画面外で叫んでいるセコンドの声が響き渡る。

 対戦相手の女子選手は必死にステップを踏みながら、服部選手の猛攻から逃げまどっていた。


 と───おお振りの右フックをフェイントにして、服部選手が一気に踏み込む。

 その逞しくて長い両腕が相手の足を抱え込み、豪快にマットへと押し倒した。


 そのまま袈裟固めのポジションを取り、右腕で相手の咽喉もとを圧迫する。

 数日前の記憶がよみがえり、レオナまで息苦しくなってきてしまった。


「遊佐さん、ひとつ質問です。アマチュアのルールだと、この体勢で相手を殴るのは反則なのですね?」


「うん、そうだよ。グラウンド状態でのパウンドはMMAの醍醐味だけど、キャリアの浅いアマ選手にはやっぱり危険だからねー」


 この数日で、レオナは柚子や景虎たちからMMAという競技のルールを学んでいた。


 頭突き、噛み付き、目潰し、引っかきは禁止。

 後頭部、背骨、局部への打撃は禁止。

 手足の指に対する関節技は禁止。

 相手の髪や着衣をつかむ行為は禁止。

 鼻腔、耳腔、口腔に指を入れる行為は禁止。

 咽喉への打撃や咽喉をつかむ行為は禁止。


 おおまかには、それが基本の禁止事項である。

 なおかつアマチュア選手の試合においては、もういくつかの禁止事項が追加される。


 肘を使った打撃の禁止。

 膝を正面から蹴る行為の禁止。

 そして、足裏以外がマットについた状態における打撃の禁止である。


「あとね、アマ・ルールではダウン制が採用されてるの。ボクシングとかだと10カウントだけど、アマのMMAでは5カウントね。ダウンして、五秒以内にファイティングポーズを取れなかったり、一ラウンドで二回のダウンを奪われたりしたらKO負けってこと」


「そのルールは、自分にとってはありがたいですね」


 プロのルールでは、打撃で倒れても戦闘不能状態になるまでは、そのまま試合が続行される。ダウンした相手の上にのしかかり、完全に相手を制圧せしめるのだ。


 しかし、グラウンド状態における打撃技が禁止となると、あとは関節技か絞め技を駆使せざるを得ない。さすがにレオナもわずか二ヶ月でそこまでの技術を体得できるとは思っていなかった。


「そうだねー。確かにこの服部選手から寝技で一本を取るのはきついかも」


 その服部選手が、おもむろに腕ひしぎ十字固めを仕掛けた。

 相手は何とか両腕をクラッチしてその攻撃をしのぎきり、服部選手の身体を突き放して立ち上がる。

 グラウンド状態に固執するつもりはないのか、服部選手は意外にあっさりと相手を逃がしてしまい、悠揚せまらぬ様子でのそりと身を起こした。


『一ラウンドは残り二分だ! ローで相手の足を削っていけ!』


「うーん、どうだろう? うかつにローを蹴ったらカウンターでフックをもらっちゃいそうだけど」


 セコンドの声に、柚子が応じる。

 しかしもはや、相手の選手には蹴りを放つ余裕もなさそうだった。

 服部選手の動きはまったく落ちていないのに、相手の選手は肩で息をしてしまっている。さきほどの寝技の攻防で、さらにスタミナを奪われてしまったようだ。


「立ち技でも寝技でも圧倒されちゃったら、しんどいよね。この対戦相手はキックの出身で蹴り技が得意らしいんだけど、完全に距離を潰されちゃってるし」


 そのとき、服部選手がまた大きく踏み込んだ。

 身体を低く屈めている。再びの両足タックルだ。

 相手選手は、両腕でそれを押し返そうとした。

 そのがら空きになった顔面に、弧を描いて迫り来るものがあった。

 服部選手の右フックだ。


 小さなグローブに包まれた拳にこめかみを撃ち抜かれて、相手選手は棒のようにぶっ倒れた。

 カウントを数えるまでもなく、審判は両手を大きく振る。

 服部選手の、KO勝利であった。


「最初は右フックをフェイントにしての両足タックルで、その次はタックルをフェイントにしての右フックだったね。タックルも右フックも一級品だから、これはおっかないや」


 テレビ画面では、ヘッドギアを外された服部選手が審判に右腕を掲げられていた。

 金色に染めた短めの髪に、ぎらぎらと光る大きな目。景虎ほどではないが、なかなか厳つい風貌だ。体格はきわめてがっしりとしており、身長に比して腕が長いように感じられる。


「データでは百六十三センチで、バンタム級だから五十六キロ以下のはずなんだけどね。何だかもっと大きく見えちゃうなあ」


「そうですね」と応じつつ、レオナは他のことが気になり始めてしまっていた。


「ところで、MMAというのはずいぶん立派な会場で試合をするのですね。観客もずいぶん多いようですし」


「うーん、そうかな? これはたしか、小田原あたりの体育館か何かだったと思うけど。服部選手が所属してる『フィスト』ってのは日本で一番立派なMMAの組織でね、こういうアマチュアの大会もしょっちゅう開催してるんだよ」


「私は例の対抗戦というものに出場できるよう修練を積んでいますが……それでもやっぱり、可能な限りは自分の素性を隠しておきたいんです」


 柚子はきょとんと目を丸くした。

 そちらに向かって、レオナは軽く手を振ってみせる。


「わかっています。弁財学園の生徒であったら格闘技の大会などに興味はないでしょうから、そうそう私の行動が露見してしまうこともないでしょう。ただ、用心に用心を重ねておきたいなと思ったまでです」


「うーん」と柚子はうなり声をあげた。

「どうかしましたか?」と問い質すと、「ちょっと待っててね」と立ち上がる。

 そうして柚子は、壁際に置かれていた本棚をおもむろに物色し始めた。


 ここは、柚子の実家の自室なのである。

 場所は千駄ケ谷という駅の付近にある閑静な高級住宅街で、本邸はたいそう立派なお屋敷であった。ここはその敷地内に建てられた離れであり、まるまる柚子に与えられた居住空間であるらしい。


 レオナは服部円という選手のことを知るために景虎から秘蔵のDVDソフトを借り受けたのだが、自宅のデッキが故障していたために、休日である土曜日の朝方から柚子の家を訪れる羽目になってしまったのだった。


(弁財学園の理事長の娘さんなんだもんな。まったく、優雅なご身分だ)


 この部屋の他にも、八帖の居間と六帖の寝室、それにバスやトイレやキッチンまでもが完備されている。きっとこの離れだけでレオナが母親とともに暮らしている2LDKのマンションと大差のない敷地面積であるだろう。


 床には上等な絨毯が敷かれており、それでも暑苦しくないようにエアコンで快適な室温が保たれている。壁紙はほんのりとした桜色で、エスニックな柄のクッションや、棚に詰め込まれたぬいぐるみたちが実に愛くるしい。


 が、ただいま柚子が向かい合っている本棚に並ぶのは格闘技の専門誌やDVDソフトのケースばかりであり、部屋の隅にはダンベルや腹筋ローラーなどが転がっている。

 遊佐柚子という奇矯な少女の二面性を現した、実に彼女らしい部屋のたたずまいであった。


「ああ、あったあった。これが去年の興行のDVDだよ」


「去年の興行? 『シングダム』が主催したイベントの映像ですか?」


「うん。去年のが栄えある第一回目の大会で、二ヶ月後に待ち受けてるのが第二回目の大会ね。今のところは、年に一回の開催なの」


 言いながら、柚子はデッキ内のDVDソフトを入れ替えた。

 しばし画面は漆黒に染まり、白抜きの文字で取り扱いの注意事項が表示された後、いきなり大音量で攻撃的な音楽が鳴り始める。

 画面には、『ヴァリー・オブ・シングダム ボリュームワン』の文字が英語表記で浮かびあがっていた。


「ず、ずいぶん立派な映像ですね?」


「そうだねー。これは販売用に編集されたソフトだから」


「は、販売用?」とレオナは身を乗り出す。


 その間に、画面はめまぐるしく切り替わっていた。

 けたたましいサウンドとともに、さまざまな試合のフィニッシュシーンがダイジェストで流れていく。モノクロになったり色調が反転したり、さまざまな加工がほどこされた極彩色の映像だ。


「せっかくだから、トラさんの試合にしよっか。去年はトラさんしか女子選手は出場してないんだよねー」


 柚子がぽちぽちとリモコンを操作する。

 すると、暗闇の中に白いリングが浮かびあがった。

 歓声の中、ロックミュージシャンのようないでたちをした壮年の男性がマイクを片手に進み出る。


『それでは第六試合、女子フェザー級、五分三ラウンドを開始いたします!』


 歓声が巻き起こった。

 レオナが幼い頃に横目で眺めていた格闘技の番組が、そのまま再現されたかのようだった。


『青コーナー、百六十八センチ、六十・八キログラム、フィスト・ジム立川支部所属───竜崎ニーナ!』


 色の浅黒い長身の女子選手が、うっそりと右腕を上げる。

 黒地のタンクトップに金糸で昇り龍が刺繍されており、ボクサートランクスにも金色の飾りが揺れている。

 頭にも足もとにも防具は装着しておらず、ただオープンフィンガーグローブだけをはめている。


『赤コーナー、百六十一センチ、六十一キログラム、シングダム所属───景虎明良!』


 景虎も、不敵な表情で右腕を振り上げる。

 ジムで見るよりもその身体は引き締まっており、いっそう強く筋肉の線が浮かびあがっている。その身に纏っているのは、ジム名がプリントされた半袖のラッシュガードとハーフサイズのスパッツだ。


「トラさんは通常体重六十六キロぐらいでね。前日計量までに規定のウェイトまで落としてるんだけど、試合のときにはほとんどリカバリーできてるんじゃないかなー。バッキバキに仕上がってるよねー」


「ちょ、ちょっと待ってください! これが本当に『シングダム』の主催している大会なんですか!?」


「うん、そうだよー」


「そうだよーって……こんなの、私が子供の頃に観ていた番組と変わらないぐらいの規模じゃないですか!」


「子供の頃って、古きよき格闘技ブームの頃のこと? いやー、試合会場の規模でいったら十倍以上の差があるんじゃないかなあ? ドームやアリーナだったら数万人は入るだろうけど、この『恵比寿AHEAD』って会場は詰め込んでも千二百人ぐらいが限界のはずだし」


「せんにひゃくにん……」


 レオナは眩暈を起こしてしまいそうであった。


「でね、この大会はCSのスポーツチャンネルで放映されてたの」


「テレビで放映!?」


「で、その後で販売用にパッケージングされたわけね。通販か専門店じゃないと、なかなか手には入らないだろうけどねー」


 レオナはがっくりと絨毯に手をついた。

 その間に画面上ではゴングが打ち鳴らされて、景虎たちの試合が開始されている。


「せんにひゃくにん……てれびほうえい……」


「そう、だからね、なかなか人目につかないようにこっそり参加っていうのは難しいと思うんだー」


「だ、だけど、遊佐さんも学園内ではジムに通っていることを伏せておきたいと言っていましたよね? こんな大がかりな大会に参加して、それを隠し通すことなど可能なのですか?」


「うん、その点については学校の校長ともジムの会長さんとも相談済みなの。だから、九条さんもあたしと同じ方法で正体を隠すしかないんじゃないかな?」


 そう言って、柚子は楽しそうににっこりと微笑んだのだった。


                ◇◆◇


「ああ、ゆずっちの試合衣装ね。そうそう、そいつはあたしが受け持つことになってるんだよ」


 額の汗をスポーツタオルでぬぐいながら、蒲生晴香は実に朗らかな笑顔でそのように答えてくれた。


 映像鑑賞を終えたレオナと柚子は近所のレストランでランチを済ませたのち、取り急ぎ『シングダム』に移動したのである。

 現在はキッズクラスの練習時間であり、その指導を手伝っていた晴香は休憩中にレオナの疑問に答えてくれたのだった。


「プロレスグッズなんかの専門店でさ、試合用の覆面をオーダーメイドで作ってくれる場所があるの。だから、あたしがデザインを起こして、そこに製作を依頼したんだよ」


「プロレス用の覆面ですか……そんなものをかぶって、格闘技の試合などができるのですか?」


「プロレスができるんだからMMAだって問題ないっしょ。あたしの記憶だと……そうだね、男子選手で三名、女子選手で一名、過去にも覆面着用のMMAファイターってのは存在したはずだよ」


 晴香はにこにこと笑っていたが、レオナはとうてい笑える気分ではなかった。

 覆面をかぶって格闘技の試合なんて、想像しただけで眩暈を起こしそうである。


「まあ、すっぽりかぶるタイプのマスクなんかだと、さすがにグラウンドの攻防で邪魔になりそうだからさ。こう、髪の毛の部分なんかは露出してて、顔だけを隠せるようなデザインにしたんだよ。既製品だとそういうタイプはあんまり売ってないから、わざわざオーダーメイドにしたってわけ」


「はあ……」


「リングネームは『マスクド・ダンデライオン』ね。ゆずっちってタンポポみたいな猫っ毛でしょ? だから、タンポポとライオンを引っかけてそういうデザインに仕上げたんだよ」


「……ライオンはどこから出てきたんですか?」


「んー? 『シングダム』ってのはタイ語でさ、『黒い獅子』って意味なのよ。正確には『獅子』と『黒』の単語を並べただけの名前だけど。ここの会長が現役時代にお世話になってたムエタイ選手のリングネームにあやかったって話だね」


 そのように言いながら、晴香は身を乗り出してきた。


「で? ひょっとしたら、レオっちにも覆面が必要なのかな? だったらまたあたしがデザインしてあげるよ?」


「他に素性を隠す方法がないなら……お願いする他ないみたいです……」


「あはは。悲愴な表情だねー。レオっちもゆずっちも可愛らしいお顔をしてるんだから、隠しちゃうのはもったいない気もするね?」


「あたしらの学校って校則が厳しいんですよー。プロの興行にアマの選手として出場するって、かなりギリギリのラインなんです。だから、素性を隠すっていうのを条件に、何とか校長先生にもお許しをもらえた感じなんですよね」


 柚子も晴香に劣らず楽しそうな笑顔である。

 そんな両者にはさまれて、レオナは数日ぶりに溜息が止まらなかった。


「そいつは気の毒な話だけど、デザインをまかせてくれるんなら、あたしははりきっちゃうよ? レオっちもゆずっちに劣らず創作意欲をかきたてるスタイルをしてるしね」


 そんな風に言いながら、晴香はレオナの姿を上から下までじろじろと眺め回してきた。


「あ、うちのジムはね、試合衣装の最初の一着だけはご祝儀として会長が代金を負担してくれるんだよ。だからゆずっちも、マスクに合わせた試合衣装をあたしがデザインしてあげたの。レオっちのもあたしが引き受けちゃってかまわないかなあ?」


「ええ、私は何でもかまいません。……あ、だけど、あんまり派手な感じにはしてほしくないのですが……」


「オッケー。あたし的にレオっちのイメージカラーはブラックだから、渋いデザインに仕上げてあげるよ」


 ぐっとサムズアップしてから、晴香はまたやわらかく微笑する。


「でもまあレオっちの場合は、まず試合に出場できるかどうかって段階なんだもんね。今日も練習していくの?」


「はい。お邪魔じゃなかったら、空いているスペースをお借りしてもよろしいですか?」


「いいんじゃない? 男連中も好きにやってるし。こっちの稽古は半面もあれば十分だからさ」


 晴香の言う通り、トレーニングルームの奥側半分では、むくつけき男子選手たちが思い思いの練習に取り組んでいた。


 手前の半面で稽古しているキッズクラスの子供たちは、ぎりぎり二ケタぐらいの人数だ。今は景虎の指導でサンドバッグを蹴っている。

 下は六歳の小学一年生から、上は中学二年生まで、身長も性別もバラバラの幼い門下生たちで、その最年少は他ならぬ晴香の愛息、たー坊こと蒲生がもう隆也たかや少年である。


「それじゃあ着替えてきますねー。行こ、九条さん!」


「はあ」と溜息まじりの返事をしながら、柚子とともに更衣室へと向かう。

 レオナがこの地に転居してきてからおよそ二週間ていどが経過していたが、平日にはみっちり四時間も稽古を積んでいるので、土曜日にまで出向いてきたのはこれが初めてのことであった。


「九条さん、筋肉痛は大丈夫? オーバーワークには気をつけてね?」


 こまかい花柄のブラウスとキュロットスカートをロッカーの中に押し込みながら、柚子が笑いかけてくる。

 同じようにポロシャツとデニムパンツを脱ぎ捨てながら、レオナは「はい」とうなずいてみせた。


「筋肉痛は相変わらずですが、おかげで体育の授業では手を抜かずに済んでいるので、まあ、悪いことばかりではないですね」


「うーん、体育の授業で目立ちたくないからって手を抜くのは、周りのみんなに失礼なんじゃないかなあ?」


「……だから、筋肉痛で自然にセーブのかかる今の状況はまんざらでもないと言っているんです」


 レオナが言い返すと、柚子は下着姿のまま、にっこり微笑んだ。


「九条さん、すねたお顔がかわゆいね? それに、ポニーテールもいい感じ! 学校でもその髪型にすればいいのにー」


「……おさげにしていると練習の邪魔になるので、こうしているだけです」


 初めて顔を合わせてから二週間近くも経過しているというのに、柚子に対する苦手意識はいまだに払拭しきれていなかった。

 それでもまあ、学校内においては柚子もきちんと距離を取ってくれているので、負担というほどのものでもない。生真面目で堅苦しい亜森の相手をするのだって、精神にかかる負荷という意味では大差ないのだ。


 そんなことを考えていると、柚子がいきなり「あっ!」と叫んだ。


「腹筋! すごいね! 九条さん、そんなにくっきり割れてたっけ!?」


「やめてください。油断をすると、すぐにこうなってしまうんです」


 トレーニング用のTシャツに腕を通しかけていたレオナは、慌てて指摘された箇所を隠蔽する。


「油断するとってどういうこと!? 普通は逆じゃない!? いいなー、うらやましいなー」


 すでにラッシュガードを着込んでいた柚子は、わざわざそれをまくって自分の腹部をさすり始めた。

 ほんのうっすらと線の入った、実にすっきりとした腹部である。ビジュアル的にはそちらのほうこそ理想的じゃないかと、レオナはひとり苦虫を噛み潰すことになった。


 柚子は百五十一センチで、ウェイトは現在四十六キロであるらしい。

 外見的にはもっと軽そうに見えるぐらいであるが、それは顔が小さかったり肩幅がせまかったりするせいなのだろう。毎日ハードな練習をしているので余分な肉はなく、それでいて意外に女性らしいプロポーションも有しているのだから、たいていの若い娘は柚子のような外見こそをうらやむはずであった。


 いっぽうのレオナは百七十三・五センチで、ウェイトは五十六キロていどしかない。羽柴塾での稽古を取りやめて以来、順調に脂肪がついてきていたのに、この二週間でまた元の体格に戻ってしまったのだ。


(いや、まんま元通りってわけでもないのかな?)


 さきほども話題に出た通り、レオナは筋肉痛に苦しめられている。しかしそれはなまっていた身体が悲鳴をあげているだけというわけでもなく、これまでの稽古ではあまり使っていなかった部分の筋肉が鍛えられているような感じがしていた。


(何にせよ、制服で隠せない手や足なんかに筋肉の線が出るのは勘弁願いたいなあ)


 そのように思って食事の量も増やしているのだが、何だか筋肉ばかりが増量して、少しも丸みは出てこない。レオナとしては、引き締まっているのにしなやかで曲線的な柚子や晴香のプロポーションが限りなく理想に近い気がした。


「よし、準備オッケー! 今日も楽しく頑張ろー!」


 そんな悩みとも無縁に見える柚子とともに、更衣室を出る。

 スポーツタオルとドリンクボトルを壁際に置き、まずはウォーミングアップだ。


「おや、今日も自主練かい? 感心なことだねえ」


 と、そこに会長の黒田くろだ征悟せいごが入室してきた。

 あちらこちらから可愛らしい声で「押忍!」「押忍!」という声があがる。そちらに笑顔で挨拶を返しつつ、黒田はレオナたちのもとに寄ってきた。


「二人は本当に練習の虫だね。毎日四時間も練習してるアマの選手なんて、男子にだってそうそういないと思うよ?」


 黒田征悟は四十六歳。七年ほど前に現役を退いたMMAの元プロ選手であった。

 現在は百八十二センチの身長に百キロオーバーの巨体であるが、現役時代はムエタイ流のシャープな蹴り技でKOの山を築いていたらしい。ぼさぼさの黒髪に頬まで覆う立派な黒髭、福々しい丸顔とせりでたお腹がユーモラスな、山小屋のオーナーみたいな風貌の持ち主である。


「でも、学校から直行すると四時ぐらいには到着できちゃうから、どうしてもそういうスケジュールになっちゃうんですよね。本当はプロ練にも参加したいぐらいなんですけど」


「いやあ、そこまでやったら身体を壊してしまうよ。身体を休めるのもトレーニングなんだから、無理だけはしないようにね」


 四時から七時までは自由練習、七時から八時まではビギナークラスの講習、合計で四時間というのが柚子とレオナの平日のスケジュールであった。


 もっとも、火曜と金曜のビギナークラスはキックボクシングの講習となるので、そちらには参加せず、今日のように空いたスペースを借りて自主練習に励むことになる。ビギナー中のビギナーであるレオナなどは、そうして柚子と寝技の鍛錬に取り組むだけでも十二分に有意義なのだった。


「九条さんの調子はどうだい? 相変わらず組み技と寝技のディフェンスが中心なのかな?」


「はい。タックルをかわす練習と、グラウンド状態から脱出する練習に取り組んでいます」


「もうあたしが相手だったら八割方は逃げられるようになったんですよー? たった十日間で、すごくないですか?」


 柚子がそのように補足すると、黒田は「ふむ」と髭面を撫でさすった。


「そいつは大した成長だと思うが、しかしそいつはグラップリング・ルールなのかな?」


「はい! 打撃ありにしたら、八割が十割になるかもしれませんね!」


「それはどうだろう。むしろ、打撃のフェイントを混ぜられたら、タックルだってかわしにくくなるんじゃないのかな」


 レオナは昼前に観た服部選手の勇姿を思い出しつつ「そうですね」とうなずいてみせた。


「あくまで二ヶ月後の試合出場を目指そうっていうんなら、早い内にトレーニングの幅を広げるべきだろうな。トラのやつは何て言ってるんだ?」


「はい。そろそろ防御ばかりでなく攻撃の練習も煮詰めていくべきだろうとは言っていました。どうもこちらで習う技と私の習ってきた技は、根幹から種類が違っているようですし」


「ふんふん、興味深い話だねえ。本当は俺もトンチャイもそっちに手を貸したいんだけど、今は男連中の面倒を見るので手一杯だからなあ」


 トンチャイというのは、『シングダム』の男性指導員である。

 タイの出身で、すでに齢は四十を重ねているが、景虎と同様に現役のプロ選手であり、空いた時間はタイ料理の店で働いている。ムエタイからMMAに転向したベテラン選手で、『シングダム』におけるトレーニングは黒田とトンチャイが統括しているのだという話であった。


 しかし、二ヶ月後の興行においては、プロアマ取り混ぜて男子選手が七名、女子選手が四名ないし五名出場する予定になっている。いちどきにこれほど多数の選手が出場するというのは自主興行ならではのことなので、明確に、指導員の数が足りていないのだ。新参者のレオナにはよくわからないが、外部からもヘルプのコーチを呼んで、何とか練習の質を高めようとしている真っ最中であるらしい。


「だけどこっちもいい雰囲気ですよー? 打倒『フィスト』で燃えさかってますから!」


「打倒するのは、『フィスト・ジム立川支部』だけな? 『フィスト』そのものには俺たちだって大いにお世話になってるんだからさ」


 孫娘を見る好々爺のような目つきで黒田は笑っている。

 いい機会だと思い、レオナは「あの」と尋ねてみた。


「男子も女子もその『フィスト・ジム立川支部』というところと対抗戦が組まれているのですよね? そのジムとは、いったいどのような因縁が存在するのですか?」


「うん? 因縁ってほどでもないんだけどさ、どうもおたがいの主力選手のウェイトがかぶっちまってるもんで、何かと張り合う機会が多かったってだけのことなんだよ」


 やはり穏やかな眼差しのまま、黒田はそのように答えてくれた。


「女子選手で言うと、トラに対する竜崎選手、カズに対する服部選手がそれにあたるわけだな。で、ちょうどこの柚子や晴香や乃々美なんかともキャリアやウェイトの折り合いがつく相手がそろってたもんだから、それなら女子のほうも五対五の対抗戦にしちまおうかって、あちらの会長さんと盛り上がった結果だよ」


「……それでは別に、何か特別な確執があるわけではないのですね?」


「もちろんさ。切磋琢磨するのにちょうどいい、よきライバル的な存在って感じかな」


 それではレオナは、伊達にとってのよきライバルたる服部選手に対戦を申し入れようとしていることになる。

 本当に、自己満足以外の何物でもないよなあと、レオナは溜息をつきそうになってしまった。


「だけどまあ、九条さんにとっても服部選手あたりはよきライバルだろう? 年齢なんかは、むしろ九条さんのほうが近いぐらいなんだろうし。だったらカズのやつと三つ巴で切磋琢磨していけばいいんじゃないのかな?」


 と、まるでレオナの心情を見透かしたかのように、黒田はにんまりと愉快げに笑った。


「遅くとも、一ヶ月前には対戦カードをきっちり発表しないといけないからな。九条さんが出場できるかどうか、それを測る期間はあと三週間ていどしか残されていないってことだ」


 三週間。

 それで結果が残せなければ、レオナは指をくわえて伊達の出場しない興行を眺めることになってしまうのだ。

 自分の気持ちにけじめをつけるために、そんな事態だけは何としてでも回避しなければならなかった。


(……だけど、覆面をかぶって試合かあ)


 萎えそうになる気持ちを必死に立て直し、レオナは柚子を振り返った。


「それじゃあそろそろ稽古を開始しましょう。今日もよろしくお願いします、遊佐さん」


 斯様にして、レオナの新生活はよくわからない方向にころころと転がり続けていたのだった。

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