04 決着

「お疲れさん。何とか生きのびたな」


 黒田会長は、変わらぬ笑顔でそのように述べてきた。

 コーナーポストの前に準備された椅子にどかりと座り込みながら、レオナは返事をすることもままならない。


 咽喉はひりつき、心臓はものすごい勢いで胸郭を叩いていた。

 数十秒の寝技の攻防で、ごっそりスタミナを削られてしまったのだ。

 全身が汗だくで、目はかすみ、聴覚のほうもおぼつかない。


 ぜいぜいと息をつきながら、レオナは両膝に両肘をついた。

 とたんに背後から肩をつかまれて、無理やり身体を起こされてしまう。


「うつむいてると肺が圧迫されて、余計にスタミナをロスするよ。コーナーに寄りかかって、大きく呼吸しな」


 振り向く力はなかったが、それは乃々美の声だった。

 言われた通りにレオナは身体を後方に倒し、大きく息を吸い込んだ。

 咽喉は痛かったが、視覚と聴覚は少しだけ回復した。


 その眼前を、奇妙な物体が通りすぎていく。

「2R」という大きなボードを高々と掲げた、水着姿のラウンドガールだ。


「姐さん! 水です!」


 竹千代の声とともに、口もとにペットボトルが突きつけられる。

 レオナはがぶがぶとそれを飲み、最後の一口だけをバケツに吐いた。


 その間に、黒田会長がレオナの両足を自分の膝に乗せ、大腿筋をマッサージしてくれていた。

 ロープに掛けた両腕は、おそらく乃々美がもみしだいてくれている。

 首の後ろに当てがわれているのは、氷のうだ。

 まるで王様みたいだな、と思いつつ、無駄口を叩く力をひねり出すこともできないまま、レオナはひたすら呼吸を繰り返した。


「おおむね、プラン通りだな。ちょっとばっかり予想外だったのは、ローキックで運足の弱みを突かれたことぐらいか」


 黒田会長が、そのように言った。


「あれで相手をリズムに乗せちまった。打撃の流れでグラウンドに持ち込むのが上手い選手だからな。次のラウンドは、プラン通りにスタイルを変更しよう」


「……はい……」


「ダウンはおたがいに一つずつで、最後にグラウンドで劣勢になっちまったから、ポイント上は負けてるだろう。次で挽回できなきゃ、勝ちの目はなくなる。……ちなみに、スタミナはどれぐらい残ってるかな?」


「さあ……およそ三割といったぐらいでしょうか……」


「上出来だな。相手だって疲れているんだ。あきらめなければ、劣勢をひっくり返すことはできるよ」


「あんたの空手は一撃必殺なんでしょ? 楽になりたかったら、とっとと相手をマットに沈めてきな」


 不機嫌そうに言いながら、乃々美はタオルで荒っぽくレオナの手足をふいてくれた。


「姐さん、頑張ってくださいね! 柚子さんたちも、控え室で見守ってくれていますよ!」


 竹千代は笑顔でペットボトルを差し出してくる。

 それでもう一度唇だけを湿したとき、『セコンドアウト、セコンドアウト』という無情なアナウンスが響きわたってきた。


 試合中の三分間はあれほど長かったのに、インターバルの一分間は何と短いことか。

 黒田会長の差し出すマウスピースをくわえてから、レオナは重たい身体を引きずり起こした。


「さあ、最後の三分間だ。悔いのないように、すべてを出しつくしてきな」


 黒田会長の声を背中で聞きながら、レオナは自分の状態を精査する。

 体力の残りは、三割ていど。

 打撃をくらった手足や顔に、さしたる痛みはない。

 関節をのばされた左肘も大丈夫だ。

 ただ、右の脇腹だけが重かった。


 たった一発とはいえ、レバーブローをまともにくらってしまったのだ。どうしてもっと休息しないのだ、と身体の内側から訴えかけられているような心地であった。


(休むのは、三分後だ。……それまでに試合が終わらなければ、だけど)


 最後に大きく息をつき、相手の姿を遠くに見据える。

 それと同時に、第二ラウンド開始のゴングが鳴り響いた。


 レオナはすみやかに前進し、またリングの中央で構えを取った。

 とたんに、歓声が響きわたる。

 レオナが第一ラウンドとは異なる構えを取ったからだろう。


 レオナは身体の右側面を相手に向け、腰を少しだけ落としていた。

 足幅はやはり肩幅と同一で、右腕は垂らし、左拳は腰の脇。顔だけをはすに構えて、相手を見る。体重は両足に均等にかけ、わずかばかりに踵を浮かせている。


 これは、乱戦の型である。

 見晴らしのいい場所で複数の敵を相手取ることになってしまったときの型だ。


 ただ相手を待ち受けるのではなく、自分も膝でリズムを刻む。

 服部選手の踏み込みは鋭かったが、三名ぐらいの敵を相手取る心づもりであれば、対応は可能なはずであった。

 背後の敵を心配しなくていい分、この型はMMAの試合でも有効に使える目処が立っていたのだ。


(よし)


 疲弊しきった身体に活を入れるため、レオナは先手を取ることにした。

 ほとんど真横の体勢で二歩踏み込み、右の前足を振り上げる。


 足は内から外に回し、踵で相手の顔面を狙う、羽柴塾の鎌刈かまがりと呼ばれる蹴り技であった。

 一般的には、掛け蹴り、裏回し蹴り、フックキックなどと呼ばれているらしい。

 間合いはやや遠めであったが、頭部をガードした服部選手の左腕に、踵がめり込む感触が伝わってきた。


 さらに蹴り足を下ろしたのちは、右拳でフリッカージャブを放つ。

 相手を寄せつけないために、二発、三発と立て続けに繰り出した。

 その内の一発は、両腕のガードをすりぬけて相手の顔面を打つことができた。


 負けじと、服部選手も踏み込んでくる。

 当然のこと、レオナの背中側に回り込もうという動きだ。

 身体の側面を相手に向けているのだから、背中を取られる危険は大きい。


 レオナはとっさに身を屈め、その動きを反動にして、後ろざまに左足を旋回させた。

 羽柴塾で言うところの飛燕ひえん、バックスピンキックである。

 距離が近いので、ふくらはぎのあたりが服部選手の腕か何かを打つ感触が伝わってきた。


 レオナはすかさずマットを蹴り、相手に向きなおりながら体勢を整える。

 幸いなことに、服部選手は同じ場所に立ちつくしていた。

 油断なくそちらを見返しながら、ふうっと息をつく。


 相手の動きを待つのが羽柴塾の基本でも、複数の敵が相手であるならばその限りではない。それを見せつけるための、乱戦の型であった。


(なけなしの体力を削ってるんだ。少しは混乱してくれよ?)


 服部選手が動こうとしたので、レオナはさらに機先を制した。

 足を踏み込み、今度は真っ直ぐ相手の胴体を狙う。龍牙りゅうが───いわゆる足刀蹴り、サイドキックだ。

 これは、バックステップでかわされた。

 かまわずレオナはフリッカージャブを放ち、最後におもいきり、左の正拳突きを繰り出した。

 上段ではなく、中段だ。レオナの渾身の一撃は、ガードを固めた服部選手の左上腕部に突き刺さった。


 レオナは距離を取り、息をつく。

 やはり服部選手は反撃してこなかった。


 歓声がものすごい。

 その向こう側から、「四十秒経過です!」という竹千代の声も響いてくる。


(さあ、体力は残り二割弱かな)


 レオナは無形の型に戻り、服部選手と相対した。

 可能であれば一分を超えるぐらいは攻めていたかったが、体力の限界だ。これ以上連続で自分から動いていたら、第二ラウンドが終了する前にスタミナが尽きてしまう。


(これで相手ががむしゃらに突っ込んできたら、最善の一手を撃ち込めると思うんだけど……)


 疲れた頭で、そのように考える。

 そこに何か、暗い予感がふっと過ぎ去っていった。

 呼吸を整えつつ、ちりちりと首筋の毛が逆だっていくのを感じる。


(何だ?)


 理性が感性に追いついていない。

 レオナの本能が危険信号を発しているのに、それが何に由来するのかを、レオナは頭で把握することができなかった。


 服部選手は、また上体を動かしながら、じりじりと距離を詰めてきている。

 第一ラウンドで見せていたのと、同じ動きだ。

 顔の前に構えたグローブの隙間から、やはり見覚えのある強い眼光がちらちらと瞬いている。


(……なんにも変わってない)


 危険信号の正体は、それか。

 服部選手は、第一ラウンドの中盤、寝技の攻防に移る前とまったく変わらぬたたずまいであった。

 その目に闘志の炎を燃やし、前屈の姿勢でレオナににじり寄ってくる。その身のこなしも、気迫も、数分前と完全に同一のものであったのだ。


 レオナは体力を失っているのに、服部選手は失っていない。

 レオナがあれだけ攻撃を仕掛けたのに、服部選手はまったく動揺していない。

 次は自分の番だとばかりに、恐れげもなくレオナに近づいてきている。


(だとしたら……体力を削られている分、こっちが不利だ)


 半分がた体力の残っていた状態でも劣勢に立たされて、グラウンドに引きずり込まれてしまったというのに、この状態で服部選手の猛攻をしのげるのだろうか?


 唯一の活路としては、もう一度レオナのほうから仕掛けることであるが───それをやったら、試合終了までスタミナがもたない。

 また、多くの技を封じられた状態で乱戦の型を用いても、それで相手からダウンを奪える算段は立っていなかった。乱戦の型は、あくまで服部選手を攪乱するための戦術であったのである。


(その戦術は、通用しなかった……肉体面でも精神面でも、相手に上をいかれたってことか?)


 何か黒い塊のようなものが、腹の底でもぞりと蠢くのを感じた。

 この窮地が、レオナの内に眠る本能を呼び起こしてしまったのだ。


 このままでは、制圧される───

 その前に、何としてでも相手の動きを止めるのだ───

 細胞レベルでレオナの肉体に刻まれたそんな思いが、ふつふつとせりあがってくる。


(まずい……)


 スパーリングでこの状態になると、決まってレオナは一本を取られることになった。スタンドの状態ならダウンをくらい、グラウンドの状態なら関節技か絞め技を極められてしまう。それは、勝手に身体が動かないように行動を抑制する結果であった。

 間違っても、反則になる技を仕掛けてはならない。その考えが、レオナの身体から自由を奪ってしまうのだ。


 むろん、反則をするぐらいなら、敗北を喫したほうがましだ。

 他流派の大会に出て、羽柴塾の技で反則を取られてしまった父親と同じ轍を踏むことはできない。それではさんざん思い悩みながら『シングダム』に入門した意味がなくなってしまう。


 しかし───それで勝負をあきらめることに、どんな意味があるのだろう?

 レオナの脳裏には、敗北して涙を流す柚子と晴香の姿がくっきりと蘇っていた。


(だけど、反則だけは、絶対に駄目だ)


 そんな風に考えながら、レオナは運足で後退する。

 もはや服部選手は、間合いすれすれのところにまで接近してきていた。


「馬鹿! もっと足を使えよ!」


 乃々美の声が、あらぬ方向から聞こえてきた。

 その瞬間、背中にどしんと当たるものがあった。


 ロープを支える、コーナーポストだ。

 しかしそれがどのコーナーなのかも把握できていない。


(やばい)


 無形の型では、この窮地から脱することはできない。

 乱戦の型に戻すのだ。

 そのように考えたとき、服部選手の左フックが飛んできた。


 頭を振って、その攻撃をかわす。

 もはやフリッカージャブを放つ空間はない。

 レオナは、相手の身体を突き放そうとした。

 その腕の下をくぐって、右のボディアッパーが胃袋を叩いてきた。


 一瞬、視界が明滅する。

 これが左のレバーブローであったなら、試合が終わっていたかもしれない。


 レオナは、膝蹴りを繰り出した。

 この距離では、それ以外に出せる技を思いつけなかった。

 ボディをガードした服部選手の腕に、左膝が当たる。

 そこそこのダメージを与えられたはずだ。


 しかし服部選手は、同じ気迫で両方の拳を繰り出してきた。

 至近距離からの、フックの連打である。

 たまらずレオナは、両腕を上げて頭部を守ることになった。


 服部選手の拳が、容赦なくレオナの腕を打ってくる。

 何発かは、腕の隙間から顔面にもらってしまった。

 このままでは、スタンディングダウンを取られてしまうかもしれない。

 いや、いっそのことダウンをして仕切りなおしたほうが、まだましなぐらいかもしれなかった。


(くそっ!)


 レオナは力まかせに相手を突き放そうとした。

 すると、その下から服部選手の両腕がにゅるりとのびてきた。

 パンチではない。レオナの両脇の下に腕を差し込み、組みついてきたのだ。


「コーナーに体重を預けながら、四つに戻せ!」


 黒田会長が遠くで叫んでいた。

 四つとは、おたがいが片腕ずつを相手の脇に差し込んでいる状態である。

 それならば互角の体勢になれるが、両脇をすくわれたこの体勢は、完全にレオナ側が不利なのだった。


 黒田会長の指示通りに、レオナは何とか相手との間に片腕をねじ込もうと奮闘した。

 しかし、服部選手の身体はべったりとレオナの胸もとにひっついており、しかも頭で顎のあたりを圧迫してきている。コーナーポストにもたれかかりながら、レオナは完全に背筋をのばされてしまっていた。


(くそっ! だけどこの位置だったら、そう簡単に倒されたりは───)


 そのように思ったとき、服部選手の右足が内側から左足に掛けられてきた。

 足もとをすくわれそうになり、レオナは慌てて左足をひっこぬく。

 その瞬間、服部選手が逆の方向にぐいっと身体をねじってきた。

 右足一本に体重をかけていたレオナはあっさりと宙に浮かされてしまい、半円を描きながらマットに叩きつけられる。


 ロープに足を掛けそうになってしまったが、それは全力で抑制することができた。

 その代わりに、完全に上を取られてしまった。

 なおかつ、ろくな受け身も取れないまま背中から倒されて、なけなしのスタミナを奪われてしまう。

 相手の右足を両足ではさみ込み、ハーフガードの体勢を取れたのが唯一の幸いであった。


 しかしグラウンドは、服部選手の領域であった。

 第一ラウンドでも、ここからあわやという状態まで持っていかれてしまったのだ。

 しかも、残り時間は半分ぐらいも残っているはずである。

 服部選手は、慌てずにじっくりとレオナを調理することができるだろう。


(このまま組み伏せられているだけでも、時間切れの判定負けだ。……でも、こんなへとへとの身体で逃げることなんてできるのか?)


 服部選手は右腕でレオナの咽喉もとを圧迫しながら、左肘を右腿に押しつけてきている。

 レオナの足に拘束された右足を引き抜こうとしているのだろう。固い肘先で右腿をぐりぐりと圧迫され、不快な痛みが広がっていく。

 それに何より、呼吸をさまたげられているのが苦痛である。どうして自分がこんなに苦しい目にあわなければならないのか、レオナは人目もはばからずに叫びだしたいほどであった。


 そんなレオナの顔の上には、服部選手の顔が浮いている。

 足もとに視線を向けているので、横顔だ。短い髪を汗に濡らし、炯々と両目を光らせている。勝利を確実なものにするために、彼女は真剣そのものであった。


 その目をちょいと撫でてやれば、痛みと驚きで身を離すことだろう。

 あるいは、鼻や口や咽喉もとを狙ってもいい。数々の急所がレオナの目の前にさらされているのだ。脇の下の急所を親指で突いたり、小指をつかんでへし折ったり───この状態でも、羽柴塾の技で対応することはできる。


(それが無理なら、もう無理だよ)


 レオナは相手の右肘に手をかけて、渾身の力で押しのけた。

 汗ですべりやすくなっていたためか、服部選手の腕がずりっと顔の横に落ちる。

 すかさずレオナは、逆の方向に顔を背けた。

 もう咽喉もとを圧迫されたくないという、ただそれだけの思いから来る行動であった。


「背中を向けるな! バックを取られるぞ!」


「姐さん! 残り一分です!」


 知ったことかと、レオナはマットに手をついた。

 何故か服部選手の体重が消失していたので、これなら立ち上がれるような気がした。

 しかしそれは、服部選手に泳がされただけのことだった。


 真横を向いた状態で、胴体を足にはさみ込まれる。

 腕が、咽喉もとに巻きついてくる。

 バックチョークを狙ってきているのだ。

 この上、首を絞められるのかと、ぞっとした。


 反射的に顎を引き、相手の右手首を両手でつかみ取る。

 かろうじて、技を極められることはなかった。

 しかし今度は、逆の側から逆の腕が巻きついてくる。

 汗でぬるぬる滑るため、泥沼の中で大蛇ともつれあっているような感覚であった。


 呼吸が、どんどん短く速くなってくる。

 いっそ首を絞められたほうが楽なのではないかというぐらい、レオナは疲弊しきっていた。


 視界の外から、服部選手は執拗に腕を巻きつけてくる。

 見えない相手に攻めたてられるのは、不快であり、苦痛であった。

 体力ばかりか、精神力までもが削られていく。

 それらをすべて失ったとき、レオナは敗北するのだろう。

 そのときレオナは、いったいどのような感情を手にすることになるのだろうか。


(ん……?)


 酸素不足で朦朧とした頭に、また何か疑念がかすめていく。

 視界の端にちらつく紺色の影が、その原因であるようだった。


 白いマットとロープの間から、何か見えている。

 暗い客席で、パイプ椅子から立ち上がり、腰の高さの鉄柵に手をかけて、身を乗り出している少女───亜森紫乃だ。

 亜森紫乃が、何やらわめいていた。

 しかし、わんわんと耳鳴りがして、何を言っているのかは聞き取れない。


 亜森は何だか、すっかり取り乱してしまっていた。

 きっと席から立つことは許されていないのだろう。スタッフジャンパーを着た若者たちに肩を押さえつけられている。


(いったい何がどうしたってのさ……こんな野蛮な真似は弁財学園の生徒に相応しくありません! とでも言ってるの?)


 何だか、笑いたいような気分だった。

 亜森が試合を観ていることなど、レオナはすっかり頭から吹き飛んでしまっていた。


(そういえば、遊佐さんも景虎さんも蒲生さんも……みんなどこかから見守ってくれてるんだよな)


 まるで走馬灯のように、さまざまな情景が頭の中を駆け巡っていく。

 その末に、レオナはひとつの結論に達した。


(そうだ。勝ち負けなんて、どうでもいいんだよ)


 レオナが為すべきは、この二ヶ月間で得たことを、すべて絞り尽くすことであった。

 それを為す前に試合が終わってしまったら、『シングダム』の面々にも母親にも亜森にも学校長にも申し訳が立たない。


 どんなに苦しくとも、とにかく動くのだ。

 それで墓穴を掘るならば、それがレオナの積み上げてきたものの結果だ。

 何にせよ、レオナは意識を失うまで動き続けるしかなかった。


(よし)


 レオナは改めて、相手の手首をつかみ取った。

 握力はほとんど残っていないが、グローブの生地は摩擦が強いため、それを利用してぎゅっと握り込む。


 これは上側からかぶせられている、右腕の手首だ。

 その手首を両手でしっかりつかんだまま、レオナはエビの動きで身体を左側にずっていく。

 とにかくバックを取られていては何もできない。身体をずらして、背中をマットにつけるのだ。


 レオナの意図を察したのか、服部選手も腕を振りほどこうとしている。

 それを許す前に、レオナは渾身の力で身体をねじった。


 背中が、マットの上に落ちる。

 仰向けになったレオナの身体に、服部選手が右側から抱きついているような格好だ。


 その瞬間、レオナはすべての力を振り絞り、身体を左方向にねじり上げた。

 ここで上を取られたら、けっきょくマウントポジションになってしまう。

 ここが、勝負の際であったのだ。


 残存していた体力と精神力を総動員させて、レオナは身体をねじってみせた。

 いわばこれも、最善の一手であった。


 いったい如何ほどの精度とタイミングであったのか。

 とりもなおさず、レオナは上を取ることができていた。

 下から両足で胴体をはさみ込まれた、ガードポジションだ。


 グラウンド状態での打撃技が禁止されている以上、これではまだ服部選手のほうが有利であるともいえる。

 しかし、上を取ったのはレオナのほうだった。


 可能な限り、意識を研ぎすます。

 動けば動くほど体力は失われていくが、その状態における最高の動きを目指すのだ。

 最善の一手とは、そういうことだった。


(今できる最善の一手は───)


 レオナは左手をマットにつき、両膝を立てて身体を浮かせてみせた。

 強引で、無防備な体勢である。

 レオナが力ずくで立ち上がろうとしている、と服部選手が誤認すれば、何らかのアクションを見せるだろう。


 左腕を取り、関節技を仕掛けてくるか。

 あるいは、体勢を入れ替えようとしてくるか。

 どちらが来ても即座に対応できるよう、レオナは限界まで意識を研ぎすました。


 果たして───服部選手はすごい勢いで上体を起こし、身体を左側にねじってきた。

 服部選手の左腕が、外側からレオナの左肩に巻きついてくる。

 ヒップスローというテクニックだ。

 このままレオナの左腕を巻き込みつつ、腰で腹を押し、体勢をひっくり返そうという動きである。


 これは、景虎が得意とする技でもあった。

 逃げる手順は、きっちり叩き込まれている。


 右手で、相手の左膝を押す。

 同時に右足を振り上げて、相手の左足をまたぎ越す。

 さらに、巻き込まれている左腕を抜きながら、半身になった相手の背中側にのしかかる。


 気づくと、相手の後頭部が目の前にあった。

 瞬間、何かの箍が外れた。


 レオナは、本能に身をゆだねた。

 背中を向けた相手にぶつける技は、羽柴塾に存在しない。

 だから、思うぞんぶん本能に身をゆだねることができた。


 もつれながら、マットに倒れ込む。

 倒れ込みながら、両足で相手の胴体をからめとった。

 左腕を、相手の咽喉もとにすべり込ませる。

 その手で自分の右上腕をつかみ、右肘から先は、相手の後頭部に押し当てる。


 腕は、咽喉に入っていない。さきほどのレオナと同じように───そして、かつての柚子と同じように、下顎を引いてガードしているのだ。


 かまうものかと、レオナは腕を引き絞った。

 引き絞りながら、おもいきり身体をのけぞらした。

 チョークスリーパー、裸絞めは、腕の力ではなく背筋の力で絞めるのだと教わっていた。

 だからレオナは、渾身の力で身体をのけぞらした。


 これ以上、動くスタミナは残っていない。

 精神力も底をついた。

 ここですべての力を使うのだ。

 技は不完全な形であっても、この不完全さが今のレオナの限界であった。


 レオナは目を閉じ、すべての力を振り絞った。

 自分が技を掛けられているかのように苦しかった。

 世界が、真っ赤に染まっていた。


 そして───気づくと、ゴングが乱打されていた。


 強い力で、腕をもぎ離される。

 目を開けると、レフェリーが怒ったような顔つきでレオナを覗き込んでいた。


(時間切れ、か……)


 レオナは大の字にひっくり返った。

 照明の白さが目に痛かった。

 咽喉も肺も心臓も痛い。

 身体のどこにも力が入らなかったし、また、力を入れる気にもなれない。


 だが、無情なる腕がレオナのほうに差しのべられてきた。


「お疲れさん。最後までやりきったな」


 黒田会長である。

 そのグローブみたいに肉厚の手で腕をつかまれ、レオナは引きずり起こされてしまった。

 しかしやっぱり自力で立つことは難しく、ロープにもたれかかってしまう。

 そこで、今度はレフェリーに右腕をつかまれた。


 ぐにゃんと脱力したレオナの右腕が、高々と掲げられる。

 それと同時に、リングアナウンサーの声が響きわたった。


『二ラウンド、二分五十七秒、フェイスロックでマスクド・シングダム選手の勝利です!』


 リングアナウンサーは、確かにそのように述べていた。

 レオナはまだ現状を把握することができていない。


 そのとき、臀部に鋭い痛みが走り抜けた。

 崩れ落ちそうになりながら、レオナは後方を振り返る。

 そこに立っていたのは、ジャージを羽織った乃々美であった。


「タップされたら技を解きなよ。あんた、相手を殺すつもり?」


「タップ……?」


 力なく反問しながら、レオナは視線を巡らせる。

 セコンド陣に取り囲まれた服部選手は、マットにうずくまったまま首裏に氷のうをあてがわれていた。


「九条さんも必死だったから、タップされてることに気づかなかったんだろう。相手の動きも弱々しかったからなあ」


 黒田会長は笑っている。

 それでは、服部選手は───ギブアップの意思表示をしていたのか。

 レオナには何ひとつ認識できていなかった。


「何にせよ、文句なしの大逆転勝利だ。余力があったら、歓声に応えてやりな」


 歓声。

 そういえば、さっきから黒田会長たちは妙に大きな声で喋っていた。

 そうしないと聞き取れないぐらい、会場には大歓声が巻き起こっていたのだ。


 天をも揺るがすというのは、こういうことをいうのか。

 高い天井に反響し、すさまじいばかりの歓声が渦を巻いていた。


 数百名もの人間たちが、レオナの勝利を祝福してくれているのだ。

 レオナは何をどう感じればいいのかもわからなくなってしまっていた。


 そのとき、どんっと肩を小突かれた。

 驚いて振り返ると、うずくまっていたはずの服部選手が目の前に立ちはだかっていた。


「今日はやられたよ。欲張らずに判定勝ちを狙えばよかった」


 ぶすっとした顔で言い、またレオナの肩を小突いてくる。


「次にやるときは絶対に負けないから。あんたも変な相手に星を落として、格を下げないでよ?」


「はあ……善処します」


 レオナがぼんやり答えると、服部選手は一瞬きょとんとしてから、ぷっとふきだした。


「何だよ、ゼンショって。……それじゃあね」


 服部選手はレオナに背を向け、今度は黒田会長たちに頭を下げ始めた。

 その間に、レオナのもとには服部選手のセコンドたちが近づいてきて、握手をしたり、水を飲ませたりしてくれた。

 そういえば、試合の後は相手選手とセコンド陣に挨拶を忘れないように、と景虎あたりが言っていた覚えがある。


「よし、戻ろうか。柚子や晴香が首を長くして待ってるぞ」


「……はい」


 気持ちの整理もつかぬまま、レオナはロープの間をくぐった。

 そのまま階段から転げ落ちそうになるところを、乃々美に支えられる。


「しっかりしなよ。勝ったほうが担架で運ばれたら格好がつかないじゃん」


 そうして乃々美に肩を借りながら、階段を下りる。

 すると、通路を何歩と進まぬ内に、横合いから腕をひっつかまれた。


「九条さん───」


 亜森である。

 亜森が客席から身を乗り出して、レオナの左腕を抱きすくめていた。


 涙で、顔がくしゃくしゃだ。

 黒縁眼鏡の向こう側で、その目は真っ赤になってしまっている。


「どうして九条さんがこんな危険なことをしなくてはならないのですか? わたしにはやっぱり理解できません!」


「ちょっとちょっと、困りますよ!」


 またスタッフの若者が大あわてで駆けつけてくる。

 そうして肩を押さえられても、亜森はいやいやをするように首を振りながら、いっそう強い力でレオナの腕を抱きすくめてきた。


「亜森さん……汗で制服が汚れちゃいますよ……?」


「こんなの、わたしには耐えられません! こんなの、絶対に間違っています! どうして九条さんのような人が、遊佐さんなんかと一緒にこんなことを……」


 レオナの言葉など耳に入っている様子もなく、亜森は泣きじゃくってしまっている。

 そうして泣いている亜森は、まるで小さな子供みたいだった。


「わたしとも、もっと仲良くしてください! 遊佐さんばっかり、ずるいです!」


 もはや支離滅裂である。

 レオナは気持ちもまとまらないまま、「善処します」とだけ答えてみせた。


 そうして亜森とは引き離され、光と歓声に包まれた花道を歩く。

 観客たちは、まだ歓声をあげてくれていた。

 いや、歓声をあげるに留まらず、おもいきり両手を打ち鳴らし、足でどんどんと床を踏みながら、レオナの勝利を祝福してくれていた。


 得体の知れない情動が、ぞくぞくと背筋を走り抜けていく。

 彼らはいったい、何をそんなに喜んでいるのだろう。

 どうしてそこまでレオナのことを祝福してくれるのだろう。


 彼らはレオナの素性を知らない。レオナがどんな人間で、何を思い、何のためにリングに上がったのかも知らない。そうであるにも拘わらず、彼らは薄暗がりの中で熱狂し、レオナの勝利に歓呼の叫びを轟かせていたのだった。


(何なんだよ、これ……)


 胸の奥が、燃えるように熱かった。

 路上の喧嘩を終えたときは、決まって冷たい鉛でも呑み下したような気持ちになっていたのに、その鉛が融点を突破してぐらぐらと煮えたっているかのようだった。


 こんな情動を、レオナは知らない。

 レオナは何だか大笑いしたいような、あるいは大泣きしたいような、制御のきかない激情に胸の中をひっかき回されることになった。


 そうして気づくと、花道は終着点にたどり着いていた。

 半分だけ引き開けられた、入場扉だ。

 歓声と熱気に背中を押される格好でその向こう側に足を踏み込むと、柚子と景虎と晴香が待ちかまえていた。


「お疲れさん。上々の結果だね」


「すごい試合だったね! あたしは感動しちゃったよ」


 口々に言う景虎と晴香の間をすり抜けて、柚子が歩み寄ってくる。

 マスクを外してジャージに着替えた柚子は、青アザだらけの顔に涙をこぼしながら、天使のように笑っていた。


「一本勝ち、おめでとう! かっこよかったよ、九条さん!」


 柚子が胸もとに飛び込んでくる。

 乃々美が肩をすくめながら引き下がってしまったので、今度は柚子にもたれかかるしかなかった。


 レオナが今の試合から何を得たのか、自分の気持ちにけじめをつけられたのか、何もかもがまだ不明である。

 しかし、試合前に抱えていた重苦しい気持ちは、きれいさっぱり消失していた。


 そして、柚子たちの笑顔を見て、わき起こってくるこの感情は何なのか。

 どうやら今度はその正体も探らなくてはならないようだった。


 ともあれ、レオナの動乱に満ちみちた二ヶ月間は、こうして終わりを告げたのだった。

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