03 冷たい熱闘

『シングダムVSフィスト・ジム、女子部門、副将戦……MMAルール、バンタム級、三分二ラウンドを開始いたします!』


 晴香の選んでくれた勇ましい入場曲とともにレオナがリングに到達すると、それを待ち受けていたリングアナウンサーが野太い声をほとばしらせた。


『青コーナー、百六十三センチ、五十六キログラム、フィスト・ジム立川支部所属───服部、円!』


 ぎらぎらと両目を燃やしながら、服部選手が右腕を振り上げる。

 映像で観たものよりは派手な色合いであったが、あちらは市販の試合衣装であるらしい。スポーツブランドのロゴがプリントされたタンクトップにハーフスパッツといういでたちだ。


 その姿を見るでもなしに見返しながらジャージを脱ぎ捨てると、おかしなタイミングで歓声が巻き起こり、レオナを驚かせた。

 何のことはない、レオナがついにそのマスクや試合衣装をあらわにしたため、観客たちが反応したのである。


 だが、レオナが溜息を誘発されることはなかった。

 生半可な羞恥心などが介入してくる隙間は、今のレオナには存在していなかったのだ。

 じりじりと焼けつくような照明の熱を全身に感じながら、レオナはただ時が至るのを待ち受けた。


『赤コーナー、百七十三・五センチ、五十五・九キログラム、シングダム所属───マスクド・シングダム!』


 歓声が、さらなるうねりをあげる。

 腕を上げてそれに応じる気持ちにもなれず、レオナはただ頭をもたげてみせた。


「よし、行くぞ」


 セコンド長の黒田会長に肩を押されて、リングの中央に進み出る。

 あちらのセコンド長は、褐色の肌をした若い外国人であった。


『肘打ちは禁止。顔面への膝蹴りは禁止。グラウンド状態での打撃技は禁止。一ラウンドに二回のダウン、および5カウントのダウンでKO負け。悪質な反則は即時で失格負けとなるので、両者、クリーンなファイトを心がけるように』


 インカムマイクをつけたレフェリーが、そのように述べてくる。

 レオナたちに、というよりは、観客たちのためにMMAのアマ・ルールを補足説明しているのだろう。あるいは、CS放送やDVDなどでこの試合を観る人々への配慮なのかもしれない。


『シェイクハンド』とレフェリーは両手を組み合わせる。

 服部選手がグローブに包まれた拳を突き出してきたので、レオナはそこにぽんと拳を合わせた。


『コーナー』とレフェリーは両手を広げる。

 レオナは黒田会長とともに赤コーナーへと引き下がった。


 すべてがかつてビデオで見た通りの状況だ。

 だけどやっぱり、映像で見るのと自分が体感するのとでは大違いである。

 生の歓声が空気を震わせ、熱と光と匂いが満ちている。とてつもなく現実離れしていながら、これがまぎれもなくレオナにとっての現実なのだった。


「顔色はわからないが、緊張はしてないみたいだな。セコンドの声を聞き逃さないように、集中して」


「はい」


「あとは練習通りにやればいい。思うようにいかなくても、頭に血をのぼらせないようにな」


 そのように述べながら、黒田会長は「どっこらしょ」とロープをくぐった。

 リングの下からは、竹千代と乃々美がレオナを見上げてきている。


「姐さん、頑張ってください!」


「つまんない反則だけはするんじゃないよ?」


 そちらには、無言でうなずき返してみせた。

『セコンドアウト』のアナウンスが響き、黒田会長もリング下へと下りていく。


 いよいよ歓声は渦を巻いてレオナたちを取り囲んでいた。

 世の中には、格闘技をショーとして楽しんでいる人間がこんなにも存在するものなのか。


 だけどやっぱり、レオナの意識はそちらには向かなかった。

 レオナは自分の胸中にわだかまる思いを抑制するので精一杯であったのだ。

 それは、柚子と晴香の敗戦から得ることになった、苦くて重くて熱い感情の塊であった。


(別にあんたに恨みはないけどさ)


 対角線上にたたずむ服部選手の姿を、真っ直ぐに見返す。


(全力で叩き潰してやる。……って気分になっちゃったよ)


 そして、『ラウンドワン!』のアナウンスが響き、ゴングが高らかに打ち鳴らされた。


 レオナはすたすたと前進し、リングの中央で構えを取った。

 同じように前進してきた服部選手が、間合いの外でいぶかしげに足を止める。


 MMAという競技においてはまったくスタンダードではないレオナの構えに、不審感をかきたてられたのだろう。

 しかし、これがこの二ヶ月間で練り上げた、レオナの基本姿勢なのだった。


 足は肩幅に合わせて開き、右足を前に出している。

 右足踵と左足先が一直線上になるぐらいの歩幅だ。

 それで両方の踵をやや外側に開き、膝は足先の真上に来るよう、少しだけ曲げている。

 剛柔流空手の三戦立ちに近い立ち姿勢である。

 羽柴塾においては一の型、あるいは無形むぎょうの型と呼ばれる構えであった。


 それで背筋は真っ直ぐにのばし、腰はやや前に入れている。

 右腕はだらりと自然に垂らし、左拳は腰の脇、掌の側を上に向けた逆手の構えだ。


 右足を前に出しているものの、身体はほとんど正面を向いている。

 正中線を完全にさらしている状態であるが、これならばタックルや組み付きを回避しやすい。

 あとは、服部選手の出方しだいであった。


「ここまで基本から外れた姿勢を取る選手はそうそういないから、相手も面食らうだろう。で、こっちから動かなければ、カウンターを警戒して右手側から踏み込んでくるはずだ」


 景虎は、そのように言っていた。

 その予測が外れて正面から踏み込んでくるようなら、思うぞんぶん左拳で最善の一手を繰り出す心づもりである。

 それを回避されても、次の手はある。ただ、相手の拳や組み付きをくらわないように、というのが何より肝要だ。


(さあ、どうする?)


 レフェリーから減点を勧告されるまで、レオナは自分から動くつもりはない。

 精度とタイミングを重んじる羽柴塾の空手は、原則として相手の動きに対応する技術であるのだから、むやみに自分から動くことをよしとしないのだ。


 服部選手を煽るように、観客たちは歓声をあげている。

 左の手足を前方に出し、やや前傾で腰を落としたMMAの基本姿勢を取りながら、服部選手はレオナの右手側に回り始めた。


(やっぱり、そうくるか)


 身体の側面をつかれぬよう、レオナもそれに合わせて左足を踏み出した。

 半円を描くように左足を踏み出しながら、同時に右の拳を腰まで上げ、前側になった左腕を下ろす。

 それで、レオナに接近しようとしていた服部選手はまた引き下がってしまった。


 左右が逆になっただけで、また同じ姿勢のレオナと正面から向かい合うことになったのだ。

 これで踏み込んでくるようなら、右拳の正拳突きで最善の一手を狙うつもりであった。


 羽柴塾には、利き手がどうこうという概念は存在しない。牽制の軽い攻撃も、必殺の重い攻撃も、左右で等しく放つことができなければならない、という考え方である。これは羽柴塾に限らず、多くの空手の流派が同じような考えであるらしい。


 ゆえに、足を一歩踏み出すだけで、臨戦態勢を保ちつつ立ち位置を変えることができる。これもまた、相手選手を大いに惑わすことができるだろう、と景虎は述べていた。


 観客席からはどよめきがあがり、そして、青コーナーのほうからは敵方のセコンド陣の声が響いてくる。


「惑わされるな! 足を使って、アウトサイドから回り込め!」


 後方に下がった服部選手は大きく息をついてから、やおらレオナに突進してきた。

 前に前にと詰めてくるのが、服部選手のスタイルなのである。

 それでも服部選手はきちんとレオナの左手側に回り込みながら突進してきた。


 相手の利き手の逆側に踏み込む、という基本を守ろうとしているのだろう。

 レオナが左足を引いたとしても、この勢いでは追いつかれる。よって、レオナは迎撃することにした。


 だらりと垂らしていた左拳を、跳ね上げる。

 イメージとしては、腕全体を鞭のようにしならせて、手の先にくっついたグローブを相手に叩きつける感じだ。

 拳を強く握る必要もない。スナップをきかせて、手の甲を叩きつければいい。

グローブのクッションに覆われた部位であれば、反則を取られることもない。


 ボクシングにおいて、これはフリッカージャブと呼ばれる技に近いらしい。

 しかしレオナにしてみれば、手首で相手を打つ鶴頭拳の応用であった。


 狙いたがわず、レオナの攻撃はななめ下方から服部選手の顔面を打った。

 きっと予測できていなかったのだろう。相手の身体がびくんとすくみ、突進の勢いが弱まったのが感覚として伝わってくる。


 考えるよりも早く、レオナは右拳も繰り出した。

 腰に溜めていた、右拳だ。

 こちらは、最善の一手である。

 可能な限り拳を固め、それを前方に繰り出しながら、手首は内側に、上腕は外側にひねりあげる。脇はしめ、肩は落とし、牽制で放った左拳を引きながら、レオナは最善の正拳突きを繰り出した。


 服部選手は素晴らしい反応速度で、頭を下げる。

 レオナの拳は、そのこめかみをかすめる格好で虚空を叩いた。


 このままでは、組みつかれる。

 よって、レオナはさらなる一手を繰り出した。

 右膝による、膝蹴りだ。


 どむ、と重い衝撃が膝頭に走り抜ける。

 とっさの迎撃なので、水月やタン中は狙えていない。腹筋のど真ん中を撃ち抜く、固い感触であった。

 しかし服部選手の突進は完全に止まったので、その分厚い肩を押し返すようにして、レオナは後方に飛びすさる。

 それと同時に、服部選手はがっくりと膝をついた。


『ダウン!』の宣言とともに、客席からは歓声が爆発した。

 その荒波のような歓声に全身の皮膚をなぶられながら、レオナはふうっと息をついた。


(とりあえず、第一手は成功か)


 すべてが事前に立てていた通りの展開であった。

 相手がレオナの変則的なスタイルに順応できていない内に、何としてでもポイントを先行する。そのために、最初の接触までは最大限に意識を集中していたのだ。おかげさまで、レオナはもう三割方の精神力を消耗した気分であった。


 レオナが最高の動きを持続できる時間には限りがある。というか、限界のぎりぎりまで意識を研ぎすます、という行為を分単位で持続できる人間など、そうそう存在しないだろう。心身の鍛錬でいくばくかの底上げはできても、たかが知れている。


 路上の喧嘩であれば、その凝縮された時間の中で決着をつける他ないが、禁じ手の多いMMAという競技においてはそれも難しい。だからレオナは身体面のスタミナ以上に、限りのある精神力をどこで爆発させるか、ということを入念に計算しなければならなかったのだった。


(あのていどの攻撃でこの選手があきらめてくれるはずはないしな)


 そんなレオナの思惑通り、服部選手はカウント3で立ち上がった。

 その目の闘志は消えていない。せいぜい一瞬呼吸が止まったぐらいのダメージだろう。

 それを確認したレフェリーが、『ファイト!』と一声あげて引き下がる。

 それと同時に、「一分経過です!」という竹千代の声も響いた。


(やっと一分か……残り二分でもう一回ダウンが取れるか。ここが最初の正念場だ)


 相手が攻め気で来るならば、それに応じて二度目のダウンを狙う。

 相手が怯むようだったら、それに応じてこちらも力の回復に努める。

 それが基本の戦略であった。


「普通、そこまで冷静に試合運びをできるもんではないけどね」と景虎は笑っていた。

 しかしレオナは、最後まで冷静たらねばならなかったのだった。


 感情や本能にまかせては、羽柴塾の技がそのまま出てしまう。

 レオナは普段以上に冷静に、かつ計算ずくで試合を進めなければならないのだ。

 心境としては、全身の筋肉を使ってチェスや将棋に取り組んでいるようなものであった。


 そんなレオナに、服部選手は燃えるような眼光を突きつけてきている。

 やはり、失ったポイントを取り戻すべく、さらなる攻撃を仕掛けてくる心づもりであるようだ。

 観客席のボルテージは高まるいっぽうである。


「足だ! 足を使え! 不用意に突っ込むな!」


 セコンドの声もよく聞こえているようで、服部選手はいっそう小刻みにステップを踏みながら接近してきた。

 頭も、一瞬として同じ場所に存在していない。左右上下に上体を動かしながら、じわじわと距離を詰めてくる。


「相手のペースに乗るんじゃないよ! 自分のリズムで動け!」


 そのように怒鳴っているのは、乃々美であるようだった。

 もとより、レオナもそのつもりである。

 常に相手が正面に来るように、足の位置を入れ替える。

 足を引くばかりではすぐにロープへと追い詰められてしまうため、時にはこちらから足を踏み出し、リングの中央を確保する。


 服部選手が右側に回り込もうとすれば左足を前に、左側に回り込もうとすれば右足を前に。それでアウトサイドとやらを取られる心配はない。

「それだけ頻繁にスイッチされたら、相手はやりにくくてしかたがないよ」と、かつて景虎が言っていた通り、届きもしない左ジャブで牽制をしながら、服部選手は明らかに焦れていた。


 その腹部を狙って、レオナは前足からの前蹴りを繰り出した。

 羽柴塾においては軍鶏しゃもと呼ばれていた蹴りだ。

 男が相手であるならば金的が一番有効であったが、服部選手は女性である上に、MMAのルールでは局部への攻撃自体が禁じられている。よって、狙うのは水月かタン中だ。


 これは距離が遠かったため、バックステップでかわされてしまった。

 しかし、レオナの蹴りが当たらないということは、相手の攻撃も一切届かないということである。

 服部選手は腕が長い上に肩幅も広かったため、リーチにおいてはレオナにも負けていなかったが、足の長さならばまるまる十センチばかりもレオナのほうが優っている印象であった。


「一分半経過! 残り半分です!」


 また竹千代の声が響きわたる。

 それと同時に、服部選手が左側に踏み込んできた。

 前蹴りの当たる角度ではない。よって、レオナは左足を引きながら正面に向きなおる。


 その瞬間、服部選手の左足が横合いから飛んできた。

 前になったレオナの右足を狙う、左のアウトローキックというやつだ。

 これは『シングダム』から学んだ技術で、レオナはすかさず右足を浮かせる。浮かせて、衝撃を逃がすのだ。


 スパンッと小気味のいい音色が響き、レオナの右ももに鋭い衝撃が走り抜けた。

 そのままレオナは右足を引き、服部選手の追撃に備えた。

 が、服部選手は身を引いて、また間合いの外に逃げ出している。


 表面はびりびりと痺れていたが、ダメージというほどのものではない。景虎ならばもっと重い、乃々美だったらもっと鋭いローキックで、レオナの右足を痛めつけてくれたことだろう。


(でも……)


 かつて映像で確認した試合の中で、服部選手はほとんど蹴り技を使っていなかった。打撃はパンチ一辺倒で、ローキックはもっと軌道の低い足払いのような動きであったはずだ。映像として残っていない試合でもそれは同様であったと景虎から聞いている。


 だけどこれは、明らかに牽制ではなくダメージ目的のローキックであった。

 この数ヵ月で、服部選手も鍛錬を重ねてきた、ということか。


(そりゃあそうだよな。あたしがビデオで観たのは春先の試合で、それから半年以上も経ってるんだから、成長してないはずはないんだ)


 レオナは意識を研ぎすました。

 みるみる世界が輪郭を明確にしていく。

 ちょっと早かったが、ここは力の出し惜しみのできる場面ではない。


 一発ならばノーダメージでも、回数をくらえばどうなるかわからないし、それに、足へのダメージは試合中に回復することなく蓄積されていくものなので要注意、とも聞いていた。


(さっきのタイミングだと、かわしようがないもんな。次に同じことをやられたら、こっちも迎撃してみよう)


 そんなことを考えている内に、服部選手が接近してきた。

 やはりアウトサイドを取ろうと、レオナの左側に踏み出してきている。


 さきほどと同じように、レオナは左足を引いた。

 すると、同じタイミングで服部選手の左ローが飛んできた。

 同じように右足を浮かせて、今度はそれを前に踏み出す。


 すると、服部選手が右の拳を振りかざしてきた。

 横殴りの、右フックだ。


(そう来たか)


 これは頭を沈めてかわすしかない。

 それでも大振りの攻撃なので、レオナは余裕をもって回避することができた。


 すると、その先には服部選手の左拳が待ち受けていた。

 左のショートアッパーだ。


 これはかわせない。

 素晴らしい精度とタイミング、そしてパワーとスピードをも有した一撃であった。


 右の腕で、顔面を守る。

 重い衝撃が、前腕の骨にまで浸透した。


(この距離はまずいな)


 組みつかれたら、圧倒的に不利になってしまう。

 レオナは右足を引いて距離を取ろうとした。


 しかし、同じ速度で服部選手が詰め寄ってくる。

 どうやら引く気はないらしい。


 ならばと、レオナは左の拳を振り上げた。

 鶴頭拳もどきのフリッカージャブだ。

 今度は親指側を下にして、ほぼ垂直の軌道で相手の下顎を狙う。


 だが、服部選手はかわそうとしなかった。

 かわさずに、同じ勢いのまま詰め寄ってくる。


 結果として、レオナの左拳はおかしな角度で服部選手の胸を打った。

 肘がのびきっていないので、威力は半減だ。

 肘がのびきる隙間もないほど、両者の距離は詰まってしまっている。


 レオナは左足を引いた。

 服部選手はぐいぐいと踏み込んでくる。


 距離が近い。

 この距離で有効なのは、頭突きか、右の肘打ちか、相手の襟もとをつかんでの投げ技か、局部を狙っての膝蹴りしか選択肢は存在しなかった。

 しかしそのどれもが禁じ手であったため、レオナはさらに下がるしかなかった。


 そこに、左の拳を叩きつけられた。

 肝臓を狙った、レバーブローだ。

 鋭い踏み込みに連動して、ぞんぶんに体重の乗った左拳が、レオナの右脇腹にめりこむことになった。


 気の遠くなるような衝撃が、レオナの全身に走り抜ける。

 さらに、視界の端から逆の拳が迫ってくるのが見えた。

 返しの、右フックだ。

 これをくらったら、助からない。

 しかし、肝臓を撃ち抜かれたダメージで、身体が思うように動かない。


 額で受けるか?

 いや、それを頭突きとみなされたら反則になってしまうし、グローブに守られた拳を頭突きで迎撃した経験はない。ひょっとしたら、額で受けてもレオナのほうが甚大なダメージを負う危険があった。グローブをはめた拳の攻撃は、頭蓋骨の内側にまで衝撃が浸透してくるものなのだ。


 ならば───と、レオナは首をねじった。

 拳が飛んでくるのとは、逆の側に。

 とにかく、可能な限り、衝撃を受け流すしかない。

 全身を脱力させて、左頬にぶちあたった衝撃に逆らわず、レオナは後方にひっくり返った。


『ダウン!』


 レフェリーの声が響きわたった。

 ダメージで倒れたわけではないのだが、このまま寝技を仕掛けられるよりは、まだ幸いな結果であったかもしれない。

 レオナは大きく息をついてから、カウント3で立ち上がってみせた。


 とたんに歓声が爆発し、レフェリーはぎょっとした様子で後ずさる。

 あまりに見事な倒れっぷりであったので、立てるはずがないとでも思っていたのだろうか。


 それよりも、レバーブローによる苦しさにうんざりさせられながら、レオナは拳をかまえてみせた。

 困惑顔で、レフェリーはその拳を両手でつかんでくる。

 力が入っていなかったら、ここでレフェリーストップを告げられてしまうのだろう。


 レフェリーは手を下ろし、三歩ほど身を引いた。

 インカムマイクを手で押さえ、「歩いてみて」と肉声で告げてくる。

 レオナも拳を下ろし、なるべくよどみのない足取りでそちらに近づいてみせた。

 レフェリーはうなずき、ニュートラルコーナーに下がっていた服部選手を招き寄せる。


『ファイト!』


 また、大歓声。

 観客席の人々も、きっとレオナが立てるとは思っていなかったのだろう。


 しかし、服部選手は同じ気迫をたたえたままだった。

 攻撃をふるった張本人ならば、右フックに手応えらしい手応えがなかったことを誰よりもわきまえているはずだ。

 だが、レバーブローを撃ち込んだ左拳には、確かな手応えが残っていたに違いない。


 服部選手は、再び猛然と突進してきた。

 レオナが右足を前に出しているので、右側からだ。

 同じ攻防をしていては、また先手を取られてしまう。レオナは下がるのではなく左足を前に踏み込み、そのまま右の前蹴りを繰り出した。


 が、服部選手はコマが回るように横回転をして、その前蹴りから逃れてしまう。

 この動きには覚えがある。乃々美が得意とするバックハンドブローというやつだ。

 横回転した服部選手が、のばした右腕で裏拳を見舞ってくる。


 まだ右足を振り上げた体勢であったレオナは、身体をのけぞらせることで、それを回避した。

 そのまま右足を引いて、マットを踏もうとする。

 そこに、服部選手の左フックが追いかけてくる。

 体勢不十分であったレオナは、とっさに右腕で頭部をかばった。


 すると、服部選手の姿がかき消えた。

 下側に沈み込んだのだ、と知覚したときには、もう土手っ腹に衝撃をくらっていた。

 同時に、両膝の裏をつかまれてしまっている。

 左フックをフェイントにした、両足タックルだ。


 あらがうすべもなく、レオナは背中からマットに倒れ込む。

 相手の身体を足ではさみ込むこともかなわず、レオナはサイドポジションを取られてしまった。


(くそっ……!)


 打撃でも優勢に立っていたのに、ここで寝技を仕掛けてくるのか。

 胸と胸を合わせつつ、服部選手は左側からレオナにのしかかっている。

 柚子よりは重く、景虎よりは軽い身体であった。


 レオナはエビと呼ばれる動きで身体を横に引き、何とかその拘束から逃れようと試みる。

 しかし、服部選手は左腕でレオナの右脇を抱え込み、右腕で咽喉もとを圧迫しつつ、ぴったりとついてきた。

 服部選手は、かつて柔道の選手であったのだ。押さえ込みの技術は、柚子以上に巧みである。


 圧迫された首が苦しい。

 残存していた体力が見る見る削られていくのが実感できた。

 意識が散漫になり、視界がぼやけていく。

 相手を押しのけようとする腕にも、なかなか力が入らなかった。


(慌てるな……殴られることはないんだから、関節技にだけ気をつければいいんだ)


 身体をまたがれてしまわないよう、レオナは左膝を立てていた。

 この体勢で警戒すべきは、腕ひしぎ十字固め、アームロック、肩固めの三種類だ。残り時間はわずかなはずなので、無理に体勢を変えようとはせずに、これ以上の不利なポジションを取られないように守りを固めるべきであろう。


(……そういえば、残り時間はあとどれぐらいなんだ?)


 残り一分三十秒、という宣告以来、竹千代の声を聞いた覚えがない。

 それだけレオナにも余裕がなくなってしまったということだ。


(それでも残りは、一分もないはずだ)


 そのように考えたとき、服部選手の左膝がレオナの腹に乗ってきた。

 上体のほうは浮かせ気味になり、今度はその膝でレオナを圧迫してくる。

 ニーオンザベリーという体勢だ。

 みぞおちのあたりをぐいぐいとえぐられて、いっそうのスタミナが奪われていく。


(苦しいだろ、こん畜生!)


 レオナは必死にエビで這いずる。

 しかし、さきほどよりも不安定な体勢であるにも拘わらず、やはり服部選手はぴったりとついてくる。


 その腕は、レオナの左腕を抱え込もうとしていた。

 腕ひしぎ十字固めを狙っているのだ。


 そうはさせじと、レオナは胸の前で両腕を組んだ。

 瞬間、服部選手の左膝がレオナの腹の上を通過していく。

 腹の上に馬乗りになられる、マウントポジションを取られてしまった。

 最初から、この体勢を狙っていたのか。


(まずい)


 レオナの左腕をからめ取りながら、服部選手はぐいぐいと頭の側にずりあがってくる。

 この体勢だと、腕ひしぎ十字固めの他に三角絞めを狙われる危険性もある。腕を守るばかりでは、そちらを極められてしまうかもしれない。


 腰から下が自由になったので、レオナはおもいきり両足を振り上げた。

 しかし服部選手は可能な限り身を伏せているので、首に足をかけることもできない。

 その後頭部に蹴りでも叩き込んでやれば昏倒は必至だが、もちろんそのような技は禁じ手である。


 腕ひしぎ十字固めか。

 三角絞めか。

 このまま腕を守っているだけでいいのか。

 他の動きでこの体勢から逃れるべきなのか。

 しかし服部選手もそうしてレオナが動くのを待ち受けているのではないのか。


 レオナは混乱した。

 すると、その心中を見透かしたかのようなタイミングで、いきなり服部選手は横合いに倒れ込んできた。

 左腕を両手で抱えた体勢で身を倒しながら、レオナの顔に右足をのせてくる。


 腕ひしぎ十字固めだ。

 服部選手が倒れ込む勢いに負けて、レオナのクラッチが引きちぎられる。

 そうして左の腕が真っ直ぐにのばされて、さらに、稼働領域の限界を超えた角度にまで達しようとしたとき───遠くのほうでゴングの音が鳴り響き、レオナの靭帯は守られた。


 第一ラウンドが終了し、レフェリーが服部選手の動きを制止させたのだった。

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