02 稽古三昧

 その部屋は、左側の回廊の最果てにあった。

 十六帖はあろうかという、板張りの一室である。

 調度というものは一切存在せず、ただ壁の一面が鏡張りになっており、腰の高さに手すりが設置されている。


 察するところ、ここはトレーニングルームであった。

 むろん格闘技ではなく、クラシックバレエか何かの稽古部屋だ。


 その床に、持参してきたマットを敷いていく。三十センチ四方のパズルのピースみたいな形をした、ジョイントマットと呼ばれるものである。弾力のあるスポンジ製で、アマチュアMMAや柔術の公式試合などではこのマットが使用されることもあるらしい。


「よし、まずはウォーミングアップだ。かなり室温が低いから、入念にね」


 景虎の指示に従って、各人ストレッチに取りかかる。

 時刻はまだ午後の十二時半を回ったばかりだ。夕食の時間まで、たっぷり四、五時間はしごかれることになるのだろう。


 キック部門のメンバーはキックミットでの軽い打ち込みまで、MMA部門のメンバーはタックルの打ち込みまでを済ませて、あらためて景虎の前に立ち並ぶ。


「せっかくだから、今日はスパー中心のトレーニングでやっていこう。変わり映えのしない顔ぶれだけど、しっかりと課題を定めて、集中していくよ?」


「押忍!」の声が響きわたる。

 確かにこれは、夕方の自由練習時間でよく見る顔ぶれであった。


「最初の組み合わせは、乃々美と九条さん、カズと晴香、この二組がスタンドのマス・スパーで、あたしと柚子がグラップリング。時間は三分三ラウンドで、インターバルは三十秒。たー坊、タイムキーパーをよろしくね」


「押忍」


「スタンド組は、グローブと防具の準備をして。用意ができたら、すぐに始めるよ」


 収納ケースからグローブと防具を取り出して、レオナは黙々と装着し始めた。

 乃々美や晴香はバンテージを巻いているが、MMAのメンバーは簡易型の拳サポーターだ。

 レオナには無用の長物であるが、直接グローブをはめると拳頭のお肌が荒れてしまうので、毎回きちんと装着するように心がけている。


「九条さん、このスパーでは、あの半身の構えで三ラウンドを通してみておくれよ」


 景虎に言われて、レオナは「え?」と振り返る。


「半身というのは、乱戦の型のことですよね? あれを三ラウンドですか?」


「ああ、そうさ。九条さんはスタミナ強化および、スピードタイプ相手の対策。乃々美はリーチ差のある相手への対策が課題だね」


 普段はあまり組まされることのない乃々美をパートナーにされたのには、やはり相応の理由があったらしい。


(スタミナは、あんまり問題ないんだよな。動き回るだけなら、何ラウンドでも動けるし)


 そこで最善の一手などを繰り出そうとすると、まず精神力を消耗させられて、それが身体面への疲労にも繋がっていくのである。

 だが、これは力を抜いたマス・スパーだ。ダウンやKOを狙わないなら、最善の手を繰り出す理由もない───というか、そんなものを繰り出したらマス・スパーにならなくなってしまう。


 だけど景虎とて、レオナのそういった特性はもう十分知りつくしているはずだ。

 だからレオナは、指示通りにスパーをこなせばいいのだろう。


(スピードタイプへの対策っていうんだから、とにかく当てたりかわしたりに専念すればいいんだよな)


 ヘッドガードも装着し、これは自分で持参したマウスピースもくわえてから、ボクシンググローブを装着する。

 グローブを固定するテーピングは、手空きの柚子が処置してくれた。


「オッケーだね? あたしと柚子はこっちに陣取るから、踏み潰さないように気をつけておくれよ? それじゃあ、たー坊、よろしくね」


「押忍。……だいいちラウンド、スタートです」


 十キロ以上も体重差のある乃々美とスパーで組まされるのは、入門当初以来のことであった。

 サウスポーにかまえた乃々美の前で、レオナも同じように右半身を前面に構えてみせる。


 乃々美は身長が百五十センチにも届いていない。レオナとの差は二十五センチぐらいもあろう。

 ただ、踏み込みの鋭さは女子ジム生の中で随一である。

 これまでの乏しい経験において、レオナが立ち技のスパーでもっともやりにくいと感じていたのは、この乃々美であった。


(何て言っても、格段に的が小さいからなあ)


 そもそも羽柴塾の時代には、女性を相手に拳を交わした経験もない。

 なおかつ、ここまで素早さに特化した人間とやりあったこともない。

 実のところ、『シングダム』のスパーでは女子選手よりも男子選手を相手取ったほうが楽なぐらいのレオナなのだった。


(とにかく、好きなようにやらせてもらおう)


 立ち技のスパーなら、どんなに足を振り上げても組みつかれる心配はないのだ。

 レオナはおもいきり踏み込んで、いきなり掛け蹴りを放ってみせた。

 上段の、内から外に回す蹴りである。

 それは、バックステップであっさりかわされてしまう。


 ならばと、同じ足で横蹴りを繰り出した。

 これは蹴り足を払われて、背中側に回り込まれてしまう。

 レオナは蹴り足をマットについて、それを支点にぐるりと体勢を入れ替えた。

 こちらに踏み出しかけていた乃々美は、軽やかにステップを踏みつつ、引き下がっていく。


(鎌刈や龍牙だと、すぐにサイドに回り込まれちゃうんだよな)


 それを止めるには、相手の進行方向をふさぐ形での回し蹴りが有効である、と聞いている。

 レオナもそういった近代競技の打撃技というやつを習ってはいるのだが、まだ完全には体得できていない上に、半身に構えた乱戦の型では出しにくい技だ。


(それならやっぱり、ジャブで止めるのがセオリーか)


 鶴頭拳の応用の、フリッカージャブだ。

 圧倒的にリーチで優っているのだから、乃々美相手にもこの攻撃は有効だろう。そのように思い、レオナは右手でフリッカージャブを繰り出してみせた。

 頭部をガードした乃々美のグローブに、レオナのグローブがぺしんと当たる。


(さすがに、重いな)


 だいぶん慣れてきたとはいえ、ボクシンググローブはオープンフィンガーグローブより重い。この練習用のグローブは十オンスであったので、片方で二百八十グラムぐらいはあったはずだ。

 この鈍重な攻撃では、乃々美を止められる気がしなかった。


(まあ、いいか)


 これは乃々美のための練習でもあるのだ。

 この長いリーチから繰り出される攻撃をかいくぐるのが、乃々美にとっての課題なのだろう。

 膝でリズムを取りながら、レオナは連続でフリッカージャブを繰り出してみせた。


 乃々美は軽妙にステップを踏み、左右や後方に逃げていく。

 レオナの拳は、もはや乃々美に触れることもない。やはり乃々美の素早さはずば抜けていた。


(このまま続けたら、すぐにリズムを読まれそうだ)


 出した右拳を引ききる前に、レオナは一歩だけ足を踏み込み、再びの横蹴りを繰り出してみた。

 それもすかされ、乃々美の姿が背中側に消える。


 レオナはとっさに身を沈め、その反動で後ろざまに左足を旋回させた。

 後ろ回し蹴り、飛燕である。

 乃々美の身長を考えて、普段よりは低空で足を走らせる。


 何の感触も伝わってこなかった。

 そして、体勢を整えたレオナの眼前に、乃々美の姿がぬうっと出現する。

 とたんに、鼻っ柱をグローブで弾かれた。

 しかも二発で、二発目はなかなかに重い。視覚ではとらえきれなかったが、右と左のワンツーであったようだ。


 そうしてレオナが後方に引き下がると、右脇腹にどすっとめり込んでくるものがあった。

 乃々美の得意な、レバーを狙った左ミドルだ。

 蹴り足を下ろした際にスイッチしてしまっていたので、それをまともにくらうことになった。

 かろうじて、膝をつかずに済むぐらいの破壊力であった。


「あんた、動きが単調なんだよ。その構えって、攪乱するのが目的なんじゃなかったっけ?」


「ええ、いちおうそのつもりです」


「だったら、技のバリエーションが少なすぎ。サイドキックをかわされてバックスピンキックってのも、ちょっと安易なんじゃない?」


 そうは言っても、レオナは数多くの技を封じられた状態なのだった。

 本来、乱戦の型で一番肝となるのは、足もとか局部への蹴り技だ。が、足を踏み抜く蹴りは反則を取られかねないし、局部への蹴りは即反則である。

 なおかつ、背中側に回られたら、普通は足よりも肘を回したい。が、キックのスパーでも肘打ちは禁止とされていた。


「同じバックスピンでも、ハイよりローのほうが有効だと思うけどね。軌道が小さいぶん速度を稼げるし、足もとを払われたら、こっちも近づけなくなるよ?」


「はい。ですが、それが相手の膝に正面から当たってしまったら、反則でしょう?」


「回転系の蹴りが膝に当たっても、反則を取られることはまずないよ。それでも心配なら、それこそ足払い気味に軌道を低くすればいいじゃん」


 スパーではなく、ただの講習になってきてしまっている。

 だが、レオナにとっては非常に有意義なやりとりであった。


「ただ、あんたって基本的にノーガードだからね。軌道の低いバックスピンのローだと射程を稼げないから、すぐに踏み込まれて顔面を殴られるかも」


「下段の回し蹴りの際は顔面を防御ですね。了解いたしました」


 そんな会話をしている内に、「にふんけいかです」の声が聞こえてきた。

 もう第一ラウンドの三分の二が終わってしまったらしい。


「もっとスイッチを頻繁に使ったら? 奥足で蹴るたびにスイッチって、空手になれてない相手にはかなり嫌な戦法だと思うよ?」


「了解しました。善処します」


 そうしてその後はたがいの攻撃がクリーンヒットすることなく、第一ラウンドは終了した。

 それに続く第二ラウンドも、同じようにレオナが攻めては乃々美にその穴をつかれ、のちに指導されるという、レオナにばかり益のあるスパーリングになってしまった。

 第三ラウンドも、足払い気味の蹴り技で乃々美が一回倒れることになったが、それも何だか技のおさらいをさせてもらったような心地だった。


「よし、終了! 一分休んだら、相手を入れ替えるよ」


 景虎の声とともに、レオナはマットにへたり込む。

 後半は頭を酷使しすぎて、けっきょくかなりのスタミナを消耗することになってしまった。


「蜂須賀さん、ご指導ありがとうございました」


「ふん。僕は全然練習にならなかったよ」


 乃々美はぷいっと顔をそむけて、晴香のほうに立ち去っていってしまう。


(さすがは世界チャンピオンだな。このルールじゃ、まったくかなわないや)


 何だかすがすがしいぐらいの敗北感であった。

 そんな中、景虎の声がまた響く。


「グローブを外すのが手間だから、お次は九条さんと晴香、乃々美とカズだ。柚子はもう一回あたしとだね」


「はい……だけどこれって、スパーというより、ほとんどドリルじゃないですか……?」


 ぜいぜいと息をつきながら、柚子がそのように発言した。

 ドリルというのは、課題を定めた反復練習のことである。

 景虎と柚子では体格差も実力差もおびただしいため、柚子が不利な状況から逃げまどうだけのドリル練習になってしまうのだろう。


「あたしはあたしで押さえ込みのいい練習になってるけどね。しんどいんなら、カズと交代しようか?」


「いえ、楽しいです! ……全身が乳酸たまりまくりですけど」


「乳酸と疲労の関係性ってのも、最近は諸説あるみたいだけどねえ」


 会話だけを聞いていると呑気なものだが、柚子は本当に疲労困憊の様子であった。景虎と寝技の稽古をするしんどさは、レオナもこの数ヵ月でさんざん思い知らされている。


 ともあれ、マス・スパーの二周目である。

 晴香とのスパーでは、無形の型を通すように指示された。

 スピーディに動くことの難しいこの型で、どこまでキックボクシングの動きに対応できるか、その修練である。

 特に、ステップワークを駆使する相手にローで攻められると対応が難しいので、そこのあたりを重点的に煮詰めることになった。


「インローだったらパンチでカウンターを合わせられそうだけど、アウトローのときは対応が遅れるみたいだね。キックでもMMAでも、やっぱりバックステップを使えないと後手に回されることになっちゃうんじゃないのかな」


「はい。うまく後手の先を取れればいいのですが、なかなか難しいみたいです」


「かわすんじゃなく、受けちゃってるからね。足を浮かせたら、それを下ろすまで反撃は難しいわけだし、組み技のあるMMAだと、なおさら危ないかも」


 そのように言ってから、晴香はにこりと微笑んだ。


「でもやっぱり、フリッカーは軌道が読みにくいね。レオっちはリーチもあるから、それをかいくぐってローを撃ち込むのは、なかなか骨だったよ? この前の服部選手は頑丈そうだったからおかまいなしで突っ込めたんだろうけど、普通はあのフリッカーだけでげんなりさせられると思う」


「蒲生さんをげんなりさせてしまいましたか?」


「したした。レオっちみたいにトリッキーな選手とは、試合で当たりたくないもんだよ」


 乃々美がムチならば、きっと晴香はアメなのだろう。

 決して慢心はすまいと思いつつ、レオナは防具を外しにかかった。

 お次は寝技のスパーであったのだ。

 相手は、柚子である。


「ここはいつも通りだね。柚子はリーチのある相手を極めきる練習、九条さんは逃げきる練習だ。もちろん九条さんも、スキがあったらガンガン攻めていいからね」


「はい」


 これはもう、『シングダム』でも何百回と繰り返してきた練習であった。

 レオナのような未熟者が服部選手から一本を取れたのは、間違いなく柚子と積み重ねてきた鍛錬の成果なのだろうと思う。


「それじゃあ、お願いします!」


 前傾姿勢を取った柚子が、じわじわと間合いを詰めてくる。

 レオナは背筋をのばした無形の型で、それを待ち受けることにした。


 本来であれば自分も腰を引いたほうが、よりリーチ差を活かせたりもするのだが、レオナがMMAのルールで前傾姿勢を取ることは、今のところありえない。ならば、グラップリング・ルールにおいても普段通りの姿勢で取り組んだほうが有益なのではないか、とレオナは個人的に考えていた。


 それにこの無形の型というのは、案外タックルを切るのに都合のいい型なのである。

 まず、両腕が腰より下にあるので、相手の低い突進を止めやすい形になっている。

 なおかつ身体は正面を向いているので、素早く下半身を後方に引くバービーの動きにも繋ぎやすい。

 最近ではもう九割以上はこの無形の型で柚子のタックルを止められるようになっていた。


 だけどそれは、柚子のほうも承知の上だ。

 しばらく迷うように間合いの外で足踏みしていた柚子は、やおら正面からレオナにつかみかかってきた。


 立った状態で組み合おうというのだ。

 レオナにしてみても、望むところであった。


 柚子はレオナの胴体に腕をのばしてくる。

 レオナはいくぶん腰を引きつつ、両手で相手の頭を抱え込む。

 コーチのトンチャイから習った、ムエタイの首相撲である。

 長身のレオナにはこの技が相応しいと、伝授されることになったのだ。


 グラップリング・ルールなので、膝蹴りなどを打つことはできない。

 その代わりに、レオナは相手の頭部をコントロールしながら、足を掛けようと画策した。

 この首相撲では、まず相手の体勢を崩すことが眼目になるのだ。

 この技ならば、MMAのルールでも有効に使うことができる。


「おっと」と柚子は足を上げ、レオナの小外掛を回避する。

 そのまま柚子は、ちょっと不自然なぐらいに両足を後方に引いてしまった。


 これではレオナの足も届かない。

 それに、ただでさえ身長差のある柚子の頭が、いっそう低い位置に下がってしまっている。

 キックやMMAならば膝蹴りが撃ち放題になる体勢であるが、グラップリング・ルールでは如何ともし難い。


(このまま足もとに組みついてくる気かな? それとも懐に飛び込んできて、自分から背中をつけるとか……)


 いったん距離を取るべきかどうか、レオナは思案した。

 その間隙をついて、いきなり柚子が飛び上がってきた。


 いつのまにか、柚子の両手がレオナの右手首をつかんでいる。

 柚子の全体重が右手にかかってきて、クラッチしていた手も離れてしまった。

 柚子が身体を引いていた分、レオナの体重も前側にかかってしまっていたため、そのまま前方に倒れ込んでしまう。


 その倒れていく過程で、柚子の左足がレオナの顔に迫ってきた。

 その足に首を刈られて、身体が右方向にねじられていく。

 結果、レオナは半回転して背中からマットに倒れ込むことになった。


 空いた左腕で受身を取ることはできたが、右腕は完全にのばされてしまう。

 腕ひしぎ十字固めである。

 その時点でもう回避できないぐらい肘をのばされていたので、レオナは迷うことなく柚子の左足をタップした。


「今のは、飛びつき腕十字というやつですか」


「うん! ばっちり極まったね!」


 景虎や伊達を相手にこの技の練習をする光景は何度となく目にしていた。が、レオナが実際にくらったのは初めてのことであった。


「見るのと自分で受けるのとでは大違いですね。技を極められるまで、何をされたのかも把握できませんでした」


「でしょー? まだ練習中の技だから九条さんとのスパーでは控えてたんだけど、もう出し惜しみなんてしてられないからねー」


 にこにこと笑いながら、柚子が立ち上がる。


「それじゃあもう一本、お願いします!」


 寝技の稽古に励んでいるとき、柚子はいつも以上に楽しそうに見えた。

 相手を殴るより、投げたり絞めたり関節技を極めたりというほうが、柚子の気性には合っているのだろう。

 当初それは、柚子の気性の優しさのあらわれなのかなとレオナには思えていたが、最近では考えを改めていた。相手からギブアップを奪うのは、殴り倒すのと同じか、下手をしたらそれ以上に「敵を屈服させるための行為」であるとレオナには思えてきてしまったのだ。


(可愛い顔して、おっかないやつだよ)


 その後は、各ラウンドで二本ずつタップを奪われ、柚子とのスパーは終了した。

 お次は、いよいよ伊達とのスパーである。

 ルールは、やはりグラップリングだ。


「よろしくお願いいたします」

「……うす」


 普段通りの不機嫌そうな表情で、伊達が向かい合ってくる。

 柚子や景虎ほど腰を落とさない、MMAのときと同じ立ち姿だ。


 伊達はレオナと同じくストライカー、立ち技主体の選手なのである。

 学生時代からグローブ空手という競技に打ち込んできたが、『シングダム』に入門したのは一年と数ヵ月前。グラップリングの稽古はそれだけの期間しか積んでいない。


 で、それはすなわち柚子と同程度のキャリアである、ということになるが、伊達は柚子ほど寝技に重きを置いてこなかった。レオナと同じようにディフェンスを磨き、得意の立ち技で勝てるように修練を積んできたのだ。


 ゆえに、寝技の技術は柚子よりも劣る。

 その代わりに、リーチやパワーでは柚子に勝る。

 まあ何にせよ、入門四ヶ月足らずのレオナにしてみれば、どちらも格上の相手であった。


(ただ、どっちもディフェンス一辺倒じゃスパーにならないからな)


 レオナは特に構えもなく、無造作に伊達のもとへと進み出ていった。

 どちらともなく腕をのばし、相手の首や肩に手を回す。


 伊達もまた、首相撲の技術を学んでいるのである。

 この組み合わせでグラップリングのスパーを行う際は、首相撲の差し手争いから開始される、とうのがもはや暗黙の了解になってしまっていた。


 ウェイトはほぼ互角であり、身長はレオナのほうが十センチばかりも勝っている。伊達は服部選手ほど腕が長かったり肩幅があったりもしなかったので、リーチもレオナが上回っている。

 が、首相撲においては伊達のほうに一日の長があった。

 その日もレオナは足を掛けられて、マットに転がされることになった。


 すかさず伊達がのしかかってくる。

 レオナは両足で伊達の左足をからめとった。

 そのまま腰を切りたかったが、右脇を差されてしまっているので、上手くいかない。

 下顎は頭でぐりぐりと圧迫されてしまっている。


 レオナは何とかガードポジションに戻すべく、左膝を立てて、足先を相手の腰にあてがった。

 そうはさせじと、伊達はレオナの頭側にずりあがってくる。

 そうして左膝を押し戻しながら、今度は伊達が足を抜こうという動きを見せてきた。


 下顎の痛みが不快である。

 気づけば、脇をすくわれた右腕はほとんどバンザイの格好にさせられてしまっていた。


(あ、まずいかも)


 そんな風に思った瞬間、下顎から重みが消失する。

 伊達の頭が、レオナの右脇にすべり込んできた。

 右腕は、首の後ろに回されてしまっている。

 肩固めを狙ってきているのだ。


 これで足を抜かれたら、完全に技が極まってしまう。

 そのように思って、レオナは必死に伊達の左足を拘束した。

 しかし伊達は腰を浮かせて、ぐいぐいと上体に体重をかけてくる。


 自分の右肩で頚動脈を圧迫され、レオナの視界が曇ってきた。

 これでは足を抜かれるまでもなく、遠からずブラックアウトさせられてしまう。

 試合であればもう少し粘りたいところであったが、レオナは大人しくタップすることにした。


「ふん……」と伊達が身を起こし、レオナの顔を覗き込んでくる。


「アンタ、気合が足りないんじゃねえの? 反応がいちいちトロすぎんよ」


「申し訳ありません。これでも精一杯やっているつもりなのですが」


「へーえ、精一杯ねえ」


 と、伊達がいっそう顔を近づけてくる。

 レオナはまだ寝転んだ体勢であるので、身を引くこともかなわない。


「あの試合のときのアンタだったら、肩固めの形になる前に逃げられてただろ。それでも精一杯やってるってのか?」


「試合とスパーは別物ではないでしょうか? 景虎さんからもそのように言われていますし」


 それにレオナは試合中でもチェスの手を進めるように考えながら動いているので、スパーともあまり要領は変わらない。

 異なるのは、ここぞというときに意識を研ぎすますか否か、その一点のみである。


「立ち技のマス・スパーなら、そりゃ手加減は必要だよ。でも、寝技で手加減なんざする理由はねえだろ?」


「それでも、我を見失ったら事故につながりかねません」


「ふうん? またアタシをケガさせないように手を抜いてるってわけか」


「伊達さんに限った話ではありません。誰が相手でも同じことです」


「だからって、ディフェンスのときにまで力を出し惜しむのは手抜きじゃねえのかよ? 逃げるだけなら相手をケガさせる心配もねえだろ?」


 そのように言葉を投げつけ合っていると、景虎の声が頭上から飛んできた。


「カズ、いったい何をやってるんだい? まさかとは思うけど、こんな場所で後輩を口説こうとしてるんじゃないだろうね?」


「ば、馬鹿なこと言わないでくださいよ! みんなが誤解するじゃないっすか!」


 と、伊達が顔を赤くして身を起こす。


「……カズっちって、そういう趣味があったの?」

「寝技のある競技で、それはシャレになんないね」

「あー、だけどカズっち先輩って女子にモテそう!」


「手前ら、全員ぶっとばすぞ!」


 レオナも頭をかきながら、身体を起こさせていただくことにした。


「伊達さん、申し訳ありませんでした。確かに体力を温存するために、力を抜きすぎていたのかもしれません。ディフェンスの際には、もう少し必死に動こうかと思います」


 いくぶん頬に赤みを残したまま、伊達はじろりとにらみ返してくる。


「体力温存なんて百年早いんだよ。そんな腑抜けた練習を積んだって、本番の役には立たねえだろ」


「はい。途中でバテてしまったら、バケツで水でもかけてやってください」


 確かに伊達の言う通り、レオナはもっと力の抑制と解放について修練を積むべきなのかもしれなかった。

 立ち技の攻防では自在にスイッチを切り替えることも可能であったが、ことグラウンドの状態ではレオナも勝手がわからずに、本当の土壇場まで力を解放することができなかったのだ。


(だけどスパーでそんなことやったら、何時間ももたないだろうなあ)


 それでもたぶん、今のレオナに必要なのは、そういう修練なのだ。

 技術は技術で然るべき時間に習えばいい。実戦を想定したスパーにおいては、やはり実戦のための修練を積むべきであろう。


(本当に、教えられることばっかりだな)


 そんなことを考えながら、レオナは改めて伊達と向かい合うことにした。

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