03 ディナーと勉強会

 四時間半にも及ぶ過酷なトレーニングが終了したら、ざっとシャワーだけをあびて、いざ夕食だ。

 午後の七時、レオナと晴香の二人がかりで作製した料理をリビングのテーブルに並べていくと、あちらこちらから歓声があがった。


「すごーい! 何でこんなに豪華なの? まるで今日がパーティみたいじゃん!」


「いやあ、本当は鍋で手軽に済ませる予定だったんだけどね。せっかくだから、レオっちの力をフルに使わせていただこうかと思ってさ」


 大げさだなあと思いながら、レオナは給仕に専念した。

 何も変わった料理は作っていない。鍋物のために購入された食材を使って、ありあわせの料理をこしらえただけなのだ。調味料は晴香が一式を持参してきていたので、何も難しいことはなかった。


 鶏の胸肉、豚のバラ肉、白菜、豆腐、シイタケ、エノキダケ、ニンジン、長ネギ、水菜───それに、サラダのためのレタス、トマト、ブロッコリー、ノンオイルのツナ缶。これだけの食材があれば、献立にも困らない。


 まず鶏の胸肉は、塩コショウで下味をつけたのち、照り焼き風のソテーにしてみた。

 照り焼きのタレは、醤油と調理酒とガーリックペッパーでこしらえたものだ。

 つけあわせは、エノキダケとブロッコリーのソテーである。


 鶏肉の量がものすごかったので、半分はそのソテーで使い、もう半分はロール白菜で使用した。

 ロールキャベツのキャベツを白菜に変えただけのもので、これも難しい料理ではない。包丁で挽いた胸肉に、みじん切りにしたニンジンとシイタケ、それに卵と塩とコショウを混ぜ合わせ、さっと茹であげた白菜で包み込み、コンソメとトマトのスープで三十分ばかりも煮込めば、もう完成だ。


 さらに豆腐もどっさり用意されていたので、それは豆腐ハンバーグに使用した。

 豚のバラ肉をやはり包丁で挽いて、キッチンペーパーで絞った豆腐、みじん切りにして火を通したニンジン、卵、塩、コショウでパテを仕上げる。ロール白菜との差別化をはかるため、こちらはポン酢でさっぱりと召し上がっていただくことにした。


 余った豆腐は副菜として、麻婆豆腐もどきのピリ辛の湯豆腐に仕立てあげる。

 鍋用の出汁が準備されていたので、それに醤油とみりんと調理酒を合わせてベースの煮汁をこしらえ、チューブのショウガと豆板醤をひかえめに添加する。具材は、長ネギとエノキダケだ。


 同じ煮汁を使用して、汁物も一品作製した。

 ここで中途半端に余った食材をすべて消費しようという算段である。

 豚のバラ肉、白菜、ニンジン、水菜、長ネギ、エノキダケ。もともと鍋物をこしらえる予定であったのだから、具材には困らない。

 ただ、シイタケを入れると主張が強すぎるように思えたので、それは醤油をたらしてホイル焼きにすることにした。


 生野菜のサラダは、トマトとブロッコリーを他の野菜で使ってしまったため、いくぶん物寂しくなってしまった。

 ということで、水菜は少々こちらにも使わせていただき、さらに、半分はツナサラダ、もう半分は豆腐サラダに仕上げることにする。

 ツナサラダはオリーブオイルに塩コショウとガーリックペッパーを添加して、乳化するまで攪拌かくはんした手製のドレッシング、豆腐サラダは市販の白ゴマドレッシングである。


「あたしはアシスト役に徹したから、これはぜーんぶレオっちの力作と思ってもらってかまわないよ。みんな、心して食べてね?」


 最後の皿をテーブルに並べた晴香が、笑顔でそのようなことを述べている。

 確かにこれで不評だった場合、その責任の大はレオナに帰結するだろう。レオナは自分の席に腰を下ろしつつ、あらかじめ頭を下げておくことにした。


「あまり時間をかけるのも何だったので、簡単な料理ばかりになってしまいました。お口にあえば幸いです」


「これで簡単だったら、何が複雑な料理なのかねえ」


 笑いながら、景虎がミネラルウォーターのグラスを掲げる。


「ま、せっかくの料理が冷める前にいただいちまおう。まだまだ夜は長いけど、ひとまずおつかれさん!」


「おつかれさまでした!」の後に、「いただきます!」の声も唱和される。

 まず、鶏肉の照り焼き風ソテーに口をつけた柚子が、くわっと目を見開いた。


「何これ! 肉がふっわふわ! どうしてこんなにやわらかいの!?」


「そうですか? いちおう焼く前に十分ほど肉は揉んでおきましたが」


「こっちのこいつは、半分以上が豆腐なんだよねえ? ポン酢でさっぱりしてるけど、ずいぶんしっかりした食べごたえじゃないか」


「そうですか。恐縮です」


「うわー、やっぱりこのお汁、美味しいなあ! これだけで何杯でもごはんが食べられそうだよ」


 柚子、景虎、晴香の三名は、箸をつけた瞬間からそんな様子である。

 レオナはたまらず、「あの」と声をあげることになった。


「ちょっと反応が過剰ではないですか? どれも無難な味でしょう?」


「うるせえなあ。謙虚も度が過ぎると嫌味だぞ?」


 不機嫌そうに言いながら、伊達はロール白菜をかじっている。

 その向かいでは、乃々美が黙々とピリ辛湯豆腐をついばんでいた。


「いやあ、レオっち、十六歳の高校一年生がここまでの料理を作れたら上出来以上だよ。ね、たー坊?」


「うん。すっごくおいしいです」


 隆也少年も瞳を輝かせながら豆腐ハンバーグを切り分けている。

 予想外の反応に、レオナはひたすら困惑するばかりであった。


「九条さんは食事の支度をまかせられることが多かったって言ってたけど、そんな昔からおうちの仕事を手伝ってたの?」


 柚子の問いかけに、レオナは「はあ」とうなずいてみせる。


「うちは母も多忙でしたし、男三人は何の役にも立たなかったので、私が台所に立つ他なかったのです」


 それにまあ、台所に立っていれば、そのぶん稽古から身を遠ざけることができた。そういう意味では、レオナもそれなりの熱心さで食事の支度に取り組んでいたとは思う。


「そういえば、レオっちはさっき普通に洗濯機も使ってたもんね。もしかしたら、家事全般を受け持ってたとか?」


 と、今度は晴香が笑顔で呼びかけてくる。


「ええ、いちおう。……ですが、洗濯機ぐらいは誰でも扱えるでしょう?」


「あはは。耳が痛いんじゃない、ゆずっちにののっち? あと、カズっちあたりもあやしいなあ」


「うるさいですよ。高一でそこまでできる女のほうが異常なんです」


 意外というか何というか、伊達は年功序列を重んじるタイプで、年長者に対しては言葉づかいも丁寧であった。

 ともあれ、レオナは異常と正常の区分けがわからなくなりかけてしまっていた。


「あれー、たー坊、そのシャツどうしたの? ボタンが取れかかってるじゃん」


 と、笑顔で旺盛な食欲を満たしていた柚子が、ふいにそのような声をあげた。

 見れば、隆也少年の着たチェックのシャツのボタンがひとつ、てろんと垂れ下がってしまっている。


「わかりません。にもつをはこぶときにひっかけたのかもしれないです」


「あー、なくすと困るから糸を切っちゃおっか。家に帰ったらつけ直すからね」


 晴香がフォークを置き、愛息の胸もとに手をのばす。


「あ、私は道具を持っているので、よかったら食事の後にでもつくろっておきましょうか?」


 レオナがそのように声をあげると、また全方向から視線を差し向けられてきた。

 その代表として、乃々美が不機嫌そうな声をあげる。


「……あんた、どうしてソーイングセットなんて持ち歩いてるの?」


「え……それはその、地元では服を破くことも多かったですし……あと、稽古を重ねていれば、道着だってつくろう必要が出てくるでしょう?」


「料理に掃除に洗濯に、おまけに裁縫のスキルまで持ち合わせてるの? レオっちって、スペック高いんだなあ」


「いえ、決してそのようなことは……」


「なおかつ運動神経は抜群で容姿も秀麗ときたら、非の打ちどころがなくなっちゃうねえ。で、弁財学園ってのはすっごくレベルが高い進学校なんでしょ?」


「九条さんはその弁財学園で、学年一位の成績ですよ!」


 柚子が高らかに宣言すると、ちょっと奇妙な空気が室内にたちこめた。


「……なんか、完璧すぎて絶句しちゃった。神様ってのは不公平だねえ」


「ふん。そのぶん性格が破綻してるんだから、釣り合いは取れてるんじゃない?」


 この際には、乃々美の口の悪さがありがたいほどであった。

 レオナにしてみれば、気恥かしくて絶命しそうなほどである。


(何がどうしてどうなったら、あたしなんかが完璧だっていう結論になっちゃうんだよ!)


 何だか、どっと疲れてしまった。

 みんなの性格をわきまえていなかったら、総がかりでからかわれているのではないかと人間不信に陥っていたところだ。

 これでは乃々美や伊達に悪態をつかれていたほうが、よっぽど心も安らごうというものであった。


                ◇◆◇


 そんな調子で食事を終えて、全員で後片付けをしたのちは、前回の試合を観賞しながらの勉強会であった。

 ここでさらに各人の課題を煮詰めて、以降のトレーニングの方針を定めようという算段である。


「でも、乃々美の場合は何の参考にもならないねえ」


 広々としたリビングにて、DVDデッキをリモコンで操作していた景虎が、苦笑まじりの声をあげる。

 先鋒戦の乃々美の試合は一分足らずのKO勝利であったので、誰がコメントをさしはさむ間もなく終了してしまった。


「明日の練習試合でも、乃々美の相手を見つくろうのが一番大変そうだ。去年の印象だと、あんまりウェイトの折り合う相手もいなそうだったしね」


「ふん。どんなに体重差のある相手でもKOしてやるさ」


 レオナや伊達だって、乃々美に比べたら十キロ以上も重いのだ。体重差だけでこの娘を押し潰すことはかなわないだろう。


「お次は晴香か。これも最終ラウンドまではいい勝負だったんだけどねえ」


「相手が怯んでるように見えたから、ついつい出すぎちゃったんだよね。欲張らずに判定を狙ってたら、たぶん負けてはなかったと思う」


 本人の言う通り、晴香は第二ラウンドまで相手を圧倒していた。得意のステップワークを使って相手を翻弄し、着実にポイントを奪っていたのだ。

 が、最終ラウンドに打ち気で踏み込んだところに、カウンターでアッパーをくらってしまった。悔やんでも悔やみきれない逆転負けだ。


「でも、打ち気で行くのは悪いことじゃないでしょ。僕の目から見ても、これはKOを狙えるなって思ったもん」


「うん、ありがと。だけど、ここまで攻撃を当てておきながら、大してダメージは与えられてなかったってことだからね。たぶんあたしは、まだまだ攻撃力が足りてないんだよ」


 乃々美に笑いかけながら、晴香は右拳を撫でさする。


「あたしもまだ復帰して二年ちょいだからさ。若い頃より力が落ちてるのは自分でも痛感してるし。これからはもう少しパワーの強化に力を入れよっかな」


「ま、晴香はほとんど減量なしで試合に挑んでるからね。筋肉つけてウェイトアップして、何なら階級を上げることを視野に入れてもいいかもしれない」


 景虎の言葉に、晴香は「そうだね」と笑顔でうなずく。


「ただ、今の状態でウェイトだけ上げても上の階級では通用しないだろうから、コーチとも相談して色々と考えてみるよ」


 お次は中堅の柚子である。

 レオナもすでに何度となくこの映像を拝見しているが、これはなかなかに厳しい試合であった。


 十センチばかりも背の高い三船選手に立ち技で主導権を握られてしまい、柚子は完封されてしまっていた。相手の攻撃はのきなみヒットしているのに、柚子の攻撃は一発も当たらない。そんな状態のまま第二ラウンドを迎え、起死回生のタックルを決めたにも拘わらず、スタミナ切れであっさりとポジションを奪い返され、チョークスリーパーを極められてしまったのだ。


「あっちはストライカーだけど、きっちり寝技で攻める練習も積んでたみたいだね。それでもスタミナさえ残ってたら、こうも簡単には極められなかっただろうけど」


「ふん。遊佐はずっと気合が空回りしてたからね。あれじゃあスタミナを切らすのが当たり前だよ」


 乃々美がじっとりと柚子をねめつける。


「それ以前に、立ち技の攻防がお粗末すぎ。ずーっと相手に優位な間合いで蹴られまくってんじゃん。こんだけリーチ差があるんだから、もっと距離を取るか詰めるかしないとどうにもなんないでしょ」


「うん、頭ではわかってたんだけど、身体が動かなくってさー」


 柚子は恥ずかしそうに頭をかいている。

 柚子は試合前、ちょうど身長差が一致していた景虎を三船選手に見立てて立ち技のスパーを積んでいたのだ。その成果を見せることもなく敗北してしまったのだから、悔しさもひとしおであろう。


「逆にあっちは、序盤から動きがよかったね。初の公式試合で、あれだけの大舞台で、おまけにアウェイだったってのに、大した心臓だよ。見かけに寄らず、メンタルが強いんだろうね」


「それに、技術もしっかりしてるよね。寝技のことはよくわかんないけど、このコだったらキックの試合でもいいセン狙えるんじゃないかなあ」


「ああ。よく考えたら、あのお堅い『フィスト』直営のジム出身で、いきなりセミプロルールの試合に出場することが許されたんだから、こいつはかなりの期待の星ってことになるんだろうねえ」


 期待の星。

 その三船選手は、おかっぱ頭をしたひょろひょろの女の子である。身長が百六十一センチで四十八キロ契約の試合に出場しているのだから、なかなかの痩身であると評することができるだろう。

 それでMMAのキャリアは柚子と同程度であり、それ以前に格闘技の経験はなかったらしい。そうであるからこそ、同じ条件の柚子と試合が組まれることになったのだ。


「いわゆる天才肌ってやつなのかな。この選手が同じ階級に留まるようだったら、柚子にとっては終生のライバルになるかもしれないね」


「はい! 今のあたしの最大の目標は、三船選手にリベンジすることですよ!」


 柚子は元気いっぱいで、へこたれている様子など皆無であった。


「まあ、この試合に限っては動きが悪すぎてあまり参考にならないけど、敗因は乃々美が言っていた通り、ずっと距離を支配されてたことだ。あんたはなかなか自分より小さい相手と当たることもないだろうから、リーチ差のある相手とやりあうに当たっての距離感ってのが最大の課題だね」


「はい!」


「距離をつかんで自分の打撃も当てられるようになれば、もっと楽にタックルを決めることもできる。で、寝技の技術に関してはコーチ連中の折り紙つきなんだから、自分の長所を活かすためにも、苦手な立ち技の技術を磨くこった」


「はい!」


「そんで、お次は九条さんか」


 景虎がポーズ状態を解除する。

 黒と金のコスチュームに身を包んだ気恥ずかしい姿が画面いっぱいに映し出された。

 来月には、いよいよこの映像がテレビ放映されてしまうのだ。格闘技専門の有料チャンネルとはいえ、憂鬱なことこの上ない。


「第一ラウンドの中盤までは、理想通りの展開だったよね」


 頑丈そうな下顎を撫でながら、景虎がつぶやく。


「ただ、思いがけないローキックでペースを乱されて、あれよあれよという間にペースを握られちまった。あれだけ警戒してたタックルもまんまと決められちまったしさ」


「はい」


「でも、そのフェイントで使われたのは、いつもの右フックじゃなく左フックなんだよね。キャリアのわりには、ずいぶん器用な選手だよ。九条さんにいくらスイッチされても、そこまで戸惑ってる様子はなかったし。器用な上にがむしゃらなもんだから、なかなか対応は難しいと思う」


 柚子をはさんだひとつ隣では、伊達が誰よりも真剣な面持ちで景虎の弁を聞いていた。

 この服部選手は本来、伊達のライバルと目されていた存在なのである。柚子にとっての三船選手と同じように、同階級で活動し続ける限りは、いずれ相まみえる相手なのだった。


「あたしの構想としてはね、九条さんはもっと徹底的にアウトボクサーを目指すべきだと思う」


「はい、アウトボクサーですか?」


「そう、近距離でやりあうインファイターに対して、遠い間合いから試合を支配するのがアウトボクサーだ。そもそもフリッカージャブってのは、アウトボクシングに最適化した攻撃手段なわけだからね」


 うなずきながら、景虎はそのように言葉を重ねる。


「九条さんはそれだけ長身で、フリッカージャブもばっちりハマったんだから、アウトボクサーを目指すのが王道さ。で、近距離でも相手を沈める一発を持ってるわけだし。フリッカーと蹴り技で距離を支配して、組みついてくる相手にはカウンターと首相撲で迎撃。形としては、それが一番収まりがいいと思うんだよね」


「はい」


「ただし、今のままじゃあ武器が足りない。横蹴りと前蹴りはいいとして、やっぱり横回転の蹴り技も有効に使っていかないと、距離を支配するのは難しいだろうさ」


 それは日中、晴香にも指摘された事案である。


「同時進行で首相撲も磨いていけば、とりあえずスタンド状態での目立った穴はなくなる。それでもうひとつふたつサブミッションを覚えたら、相手がたにとってはかなり怖い選手になれると思うよ」


「はい」と応じつつ、レオナはひとつの疑念を抱え込んでいた。

 それはすなわち、「自分はこの先、どれだけの公式試合に出場するのだろうか?」という疑念である。


 レオナはなるべく格闘技のジムに通っているということを秘匿したく思っているし、それ以上に、学園の学校長から素性を明かすことを禁じられている。レオナと柚子が公式試合に出場するには、あの珍妙なるマスクが必須となってしまうのだ。

 しかしどうやら、マスクをかぶっての試合というのは、ごく限られた場所でしか許されていないらしい。ましてやアマチュアの公式試合となると、ほとんど壊滅的な状況であるらしいのだ。


(まあ、年に一度の『ヴァリー・オブ・シングダム』に出場できれば、それで十分なのかもしれないけどさ)


 だとすると、レオナと柚子は一年後の興行に備えて修練を積んでいる、ということになるのだろうか。

 それが不満なわけではないが、何とも気の長い話だなあと思えてしまう。


(で、伊達さんや服部選手なんかは、もう遠からぬ内にプロ選手になっちゃうんだろうしな)


 そうしたら、来年にレオナの出番などは巡ってこないのかもしれない。

 そのときは、おとなしく雑用係にでも徹するしかないだろう。

 そんな風に考えると、何だかちょっぴりだけ胸の奥が疼くような気がした。


 とはいえ、今から悩んでも詮無きことである。

 現在のレオナが為すべきは、不安定な自己を確立させることだ。


「お、そろそろフィニッシュだね」


 景虎の声で我に返ると、まさしくレオナが服部選手のヒップスローをすかして、その背中にのしかかったところであった。

 真横を向いた服部選手の首に左腕を巻きつけて、一心不乱に力を込めている。その腕は咽喉にまで入っておらず、下顎ごと相手の首をねじりあげている格好だ。


 勝てたからいいようなものの、実に不格好な技である。

 身体をのけぞらせた服部選手は、数秒ほどこらえたのちに、弱々しくレオナの腕をタップしていた。

 しかしレオナが技を解こうとしないので、体格のいいレフェリーが力ずくでその腕をもぎ離している。


「……何度見ても、ぞっとする光景だね」


 景虎がそのようにつぶやいたので、レオナは亀のように首をすくめることになった。


「本当に申し訳ありません。あのときは無我夢中だったもので……」


「うん? ああ、違う違う。タップに気づかなかったことじゃないよ。レフェリーが手をかけたらすぐに離してるんだから、そっちは何も問題ないさ。……あたしがぞっとしたのは、技をかける前の動きさ」


「技をかける前、ですか?」


「うん。相手からポジションを取り返したときの動きもお見事だったけど、やっぱその後の、ヒップスローをすかしてからフェイスロックに入るまでの流れだね。なんか、反応速度が尋常じゃないんだよ」


 周りのみんなも、うんうんとうなずいている。特に伊達や乃々美などは、まるで試合前のように鋭い目つきになってしまっていた。


「正直に言って、あたしが同じことをやられても回避はできなかったと思う。ちょっと人間離れした動きだよね」


「あれは……この状態なら我を見失っても、羽柴塾の技が出ちゃうことはないなと思って、理性をかなぐり捨ててしまったのですよね」


「ってことは、ノールールの喧嘩だったら、立った状態でもあの動きができるってこと?」


「はい」と答える他なかった。


「あ、だけど、それを何分も維持するのは不可能ですよ? 路上の喧嘩でそこまで時間をかけることはありえませんし……」


 レオナとしては、こういった過去の話を打ち明けるのが一番心の重くなる事柄であった。

 いったいどれだけ野蛮な人間であったのだと、軽蔑されたりはしないだろうか───という不安が、いまだに払拭しきれないのだ。

 しかし景虎は、いつもの調子で白い歯を見せてくれた。


「あれだったら、男相手に負けなしってのも納得だね。それで金的を蹴られる相手はたまったもんじゃないだろうねえ」


「やめてください、景虎さんまでそんなはしたない言葉を使うのは」


「はしたないかね? ま、いざというときにこれだけの動きができるんだから、対戦相手だってグラウンドに引きこめば楽勝とは考えられなくなる。きっと服部選手あたりはこの試合映像を何百回も見返すことになるだろうね」


 そう言って、景虎はポーズ状態を解除した。


「さ、最後はあたしの番だ。あまり面白みはないけど、最後までおつきあいくださいませ」


 これが三度目の対戦となる景虎と竜崎選手の試合は、確かに動きが少なかった。おたがいに相手の手の内を知りつくしているため、なかなか有効な技が決まらないのだ。


 景虎は、外見に似合わず器用な選手である。黒田会長からはレスリングを、トンチャイからは立ち技を、外来の氏家コーチからは柔術を学び、これといった弱点を持たない。こういうタイプのことを、オールラウンダーというらしい。


「で、竜崎も竜崎で最初っからMMAを習ってたクチだからさ。龍虎対決なんて大仰に言われてるけど、要するに器用貧乏の技比べになっちまってるんだよね」


「そんなことないですよー。女子でこれだけレベルの高い技術戦をできる選手なんてそうそういないじゃないですか!」


 柚子がそのように取りなしたが、景虎は苦笑して肩をすくめるばかりであった。


「そうは言っても、いまだに北米のプロモーターには相手にされないレベルだからさ。むこうじゃこれぐらいのテクニックは当たり前だし、それにフィジカルの壁もあるからね。竜崎なんて半分はあっちの血が入ってるのに、それでも通用しない。まったく現実は厳しいよ」


 景虎は骨が太く、女性としては筋肉質の部類だ。が、竜崎選手はその景虎よりも長身でいくぶん細身であるにも拘わらず、パワーでまったく負けていない。そんな彼女たちでも、北米の人間には力負けしてしまうのだろうか。


「あっちの連中は、骨格も筋肉の質も違うからさ。おまけに減量とリカバリーのノウハウも尋常じゃないから、どうしたってひと回りは体格の違う相手とやりあうことになる。それに対抗するには、何か飛び抜けたもんが必要ってことなんだろう」


 普段通りのにこやかな表情を浮かべつつ、テレビ画面を見つめる景虎の眼差しは真剣そのものであった。


「寝技か立ち技か組み技か、何でもいいから自分のストロングポイントってやつを確立しないと、あたしのキャリアはここまでだろうさ。竜崎を相手に判定までもつれこんでるようじゃあ、先はないんだよ」


「トラさん」と晴香が静かに声をあげた。

 そちらを振り返り、景虎はまた笑う。


「大丈夫。何にも焦っちゃいないよ。焦ったところで、何か新しい技が身につくわけでもないからね。……しばらくは、九条さんを参考にして色々と頭をひねってみるさ」


「わ、私が何ですか?」


「九条さんは、器用貧乏の真逆じゃないか? MMAのキャリアは四ヶ月ぽっちなのに、相手を一撃で沈める技を持ってる。しかもそいつがフィジカル頼りじゃなく、精度とタイミング重視の技ってのは素晴らしいこったよ。あたしが欲しいのは、そういうずば抜けた一芸なのさ」


 景虎がそのようなことを考えているなどとは、まったく夢想だにしていなかった。

 言葉を失うレオナを見返しつつ、景虎は停止ボタンを押す。


「さ、それじゃあ以上の反省を踏まえて、腹ごなしの夜トレといこうか。時間は短いけど、集中していくよ」


 そうして合宿一日目の夜は、真冬とも思えぬ熱気をはらみつつ、静かに粛々と過ぎ去っていったのだった。

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